「婚約者からレイプされたことがある」
そう打ち明けてきた友人の表情は、決意に満ちていた。性暴力から守られない、この社会を変えたい、と。
愛情と憎悪が複雑に絡み合った感情
広告会社マッキャンエリクソン・クリエイティブディレクターの松坂俊さん(34)は、マレーシアのオフィスに転勤して早々に、一緒にランチをとっていた同僚のユイニー・ソンさんから、性的被害の経験を告白された。
元婚約者から受けた暴力が、8年もの間、ユイニーさんを苦しめていた。所有物のように扱われたことに傷ついたが、彼を愛していたからこそ、愛情と憎悪、悲しみと怒りが複雑に絡み合い、すぐには別れることができなかった。
マレーシアでは、17歳以上の独身女性を性暴力から守り、権利を保障するための法律が十分に整備されていない。このため報告されるデートレイプの件数は、9件に1件にすぎないと言われている。ユイニーさんも警察には届けておらず、長くPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しんでいた。
「どちらかというと距離を置いていた」
松坂さんは、身近な人から性暴力の被害体験について聞いたのはその時が初めてだった。
「男性の多くがそうだと思いますが、積極的に考えようとしたこともなくて、どちらかというと距離を置いていたほうでした。共感はするけれど、どうしていいものか、見当もつきませんでした」
ユイニーさんは、松坂さんが以前、脳波データを使ったプロジェクトを担当していたことを知り、性暴力被害の経験を何らかの形で発信し、社会に還元したいと相談してきたのだった。
「友人であるユイニーが打ち明けてくれたことで、被害に遭った人たちの声なき声を表現したいと考えました。僕も妻と娘と一緒にマレーシアに住んでいるので、この国をよくするために何かしたいという思いが強くなりました」
被害者の感情を可視化する
松坂さんとユイニーさんが考えたのは、頭に浮かんだ言葉を紙に書き連ねる「ライティングセラピー」という手法。書いているときの様子を医師や臨床心理士が観察して、心のケアにつなげるものだ。このセラピーをアレンジし、脳波データの計測を組み合わせて、被害者の感情を可視化しようというのが2人のアイデアだ。
脳波の波形やリズムの特徴をとらえ、マレーシアと日本の専門家らの助言のもと、アルゴリズムの知見をため、「LOVE(愛情)」「ANGER(怒り)」「FEAR(恐れ)」「JOY(楽しさ)」「SADNESS(悲しみ)」「HAPPINESS(幸せ)」の6つの感情にひも付けた。書いている言葉とそのときの感情を可視化することで、被害者の感情が複雑に絡み合って表れることがわかった。
プロジェクトでは、これをアート作品にすることに挑戦した。
真っ黒な感情だけではない
誰にも打ち明けられなかった深刻な被害。アートにするとしたら、どんな表現が適切なのか悩んだ、と松坂さんは言う。
「とはいえ、過酷なストーリーだけをアートにするのだと、僕のように受け止めるのは重すぎると感じて距離を置く人がおり、被害者の声が周りの人たちに広がらないのではないかと考えました」
「被害者の感情は必ずしも真っ黒ではありません。幸せを感じたり愛情を覚えたりすることもあるということも、ちゃんと表現したいと思いました」
「ANGER」の感情が閾値を超えると棘のデザインが表れ、「FEAR」のときにはゾワゾワとした草のようなものが下から這い上がる。「SADNESS」では雨が降る。一方、「JOY」では黄色いボールが現れ、「LOVE」で花が咲き、「HAPPINESS」で花びらが舞う。
「どんな経緯でつくられたアートなのかを知らなくても、見て楽しめるポップなものを意識しました。このアートを展示し、多くの人に被害者の感情の揺れを知ってもらって、性暴力の被害者が守られるような法改正につなげられたら」
「誰にも相談していない」が7割の日本
プロジェクトは、アートとテクノロジーで性暴力の被害者を支援し、法改正を求める取り組みとして、マッキャンのミレニアル世代によるイノベーションプロジェクトとして始動。マレーシアの病院や大学と共同研究をする準備が進んでいる。
「アートを見た人の中には『実は親戚が......』と打ち明けてくれた人も多く、改めて表に出ない被害について考えさせられました。報告されていない被害が約10倍あるとすると、性暴力はすぐ隣で起きていることなんです。法に守られない女性がたくさんいるとなのだということを改めて知ってもらいたいです」
マレーシアだけでなく、日本にも表に出ていない性暴力はある。
2015年の「男女間における暴力に関する調査報告書」(内閣府)によると、女性の約15人に1人は、異性から無理矢理に性交された経験がある。加害者との関係は、約半数が、交際相手・元交際相手・配偶者・元配偶者だ。被害を受けた女性のうち警察に連絡したのは4.3%のみで、67.5%は誰にも相談していない。
松坂さんは引き続き、プロジェクトの参加者を募っている。日本からも参加することはできるという。
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