燃えやすい素材、足元を照らすガス灯 条件が重なり生まれた悲劇

    これは1800年代に本当に起こった悲劇の話。

    人類の歴史において、火は救世主と破壊者の2つの顔を持っていました。

    1800年代半ば、西洋諸国の大部分で「クリノリン」が女性のファッションの主流でした。

    当時、クリノリンとドレスの幅はとても広く、男性たちはそのファッションに対して言いたいことを山程抱えていました。この風刺画では、女性が特大のクリノリンを身に着けているせいで周りの人間が彼女と触れ合うことさえできない様子を描写しています。

    そしてこちらの風刺画では、舞踏会で女性の巨大なクリノリンが男性を押しつぶしています…

    一方、こちらの風刺画では女性がクリノリンを使って自分の子どもたちを雨から守るなんてことも。

    これらの主張はバカバカしいものですが、本当の危険も潜んでいます。クリノリンは、身につけている人が火に近づきすぎると死んでしまうことも。

    張り骨の下に閉じ込められた空気と、それを覆うたくさんの布が火を一瞬で広げてしまいます。

    19世紀の間、公演中のバレリーナに引火することは珍しくありませんでした。燃えやすい衣装の弊害です。

    ダンサーたちの衣装には軽い布が重ねられているため、一瞬のうちに火は広がります。

    劇場にはバレリーナの脚をはっきりと見せるためにガス灯が設置されていました。

    結果: とても燃えやすい服のすぐそばに火が!

    1862年、有名なバレリーナであるエマ・リヴリーのスカートがガス灯に触れて彼女は生きたまま焼かれるという悲劇が起こりました。

    彼女は大火傷を負い、衣装の一部が彼女の体と癒合してしまいました。彼女はそれから苦痛な8ヶ月間を過ごし、21歳の若さで亡くなりました。

    1800年代は他にもバレリーナが焼死する事件が頻繁に発生しています。

    1800年代の終わりにかけて、クリノリンのシルエットが小さくなりました。クリノリンがスリムになるにつれ、引火するリスクも減少。

    しかし、燃えやすい布地は19世紀を通してずっと作られ続けました。その1つがフランネレットです。

    1910年になり、ウィリアム・ヘンリー・パーキンという化学者がようやく「パーキン博士のノン・フラム」という基本的には燃えない布地を発明しました。

    1953年、安全な布地を製造するためにアメリカで可燃性織物法が可決されました。その後、同様の法律が世界中で可決されていきました。

    そのおかげで今日では、ほとんどの人たちが服のせいで焼死する心配もなく日々を過ごしています。

    この記事は英語から翻訳されました。