恩田陸「蜜蜂と遠雷」は文章からピアノが聴こえる小説でした

    バッハもショパンもラフマニノフも知らないのに、読んでると音楽が聴こえてくる。…本当に!

    音楽って、まるごと小説にできるんだ。文字で再現できるんだ。

    初めての経験をした。文字を追いかけているはずなのに、頭の中で音楽が鳴り響く。クラシック音楽のことを全然知らないのに、ずっと美しい旋律がどこかで流れている。

    恩田陸「蜜蜂と遠雷」は、国際ピアノコンクールを舞台にした小説だ。ピアニストとして羽ばたくことを夢見る若い才能が世界中から集まり、悩みながら、苦しみながら、喜びの瞬間を目指してしのぎを削る。

    かつて天才少女と騒がれながら、母の死後、表舞台から姿を消した栄伝亜夜。

    完璧な技術と高い音楽性を両立する優勝候補、名門ジュリアード音楽院のマサル・C・レヴィ=アナトール。

    サラリーマンとして働きながら、「音楽家として最後の記念」と年齢制限ギリギリで出場する高島明石。

    そして、いまは亡き世界的音楽家がこの世に遺した、誰も知らない秘蔵の“弟子”として彗星のごとくあらわれた少年・風間塵。

    さまざまな才能と情熱、周囲の人の思いが、1つのコンクールを中心に交差していく。

    文章からピアノが聴こえる

    一次予選から三次予選、そして本選。4度の戦いが、演奏シーンが、ひたすらストイックに描かれる。物語のほとんどは、コンサートホールの舞台の上で進む。なのに、次々と新しい景色が見える。ずいぶん遠くまで歩いてきたと感じる。

    バッハ、モーツァルト、ブラームス、ラフマニノフ、シベリウス、バルトーク、プロコフィエフ……コンクールなので、もちろん弾かれるのはクラシックの曲ばかりだ。

    巨匠と呼ばれる作曲家たちの名前、音楽の教科書で見たことはあっても、曲名を聞いても少しも連想できない。これまで縁のなかった世界。

    それでも音楽が鳴り響く。知らない曲のはずなのに、彼らが演奏しているその曲のイメージが目の前で広がる。そんなことあるのか? と思うでしょう、でもそうとしか説明できないのです。

    小説家数人によるトーク番組「ご本、出しときますね?」の新春特番で、朝井リョウさんが「悔しいけど面白かった1冊」にあげていたけど、その気持ちがわかる。だって、知ってしまう、身体でわかってしまう、こんな風に音楽を文章で表現できるんだってことが。評論やレビューではなくて、音そのものを文字で鳴らせるってことが!

    それぞれの曲を知っている人が読んだら、また違う面白さだと思う。知らなくても、すごい経験ができる。文章を「聴く」ことができる。

    気づけば、いつしかピアニストとしての彼らのファンになっている。この人の演奏が好きだなと思う。聴いたことないのに。不思議だ。この感覚、読んだ人にしか伝わらない。

    この世には才能がある人が山ほどいて、上を見ればキリがない――という経験は誰しも人生のどこかで1回はしているだろう。世界規模のピアノコンクールとなると、天才と称される人間すら片手でおさまらないくらいいる。

    競わせる。ふりおとす。誰かを選ぶ。希望があって前向きで、でもひとすくいの残虐さがある。

    なんて残酷で──なんて面白い、なんて魅力的なイベントなんだろう。

    芸術に点数がつけられるか? そう聞かれれば、誰だって「優劣などつけられない」と答えるだろう。それはむろん、誰でも頭では分かっている。

    しかし、心では優劣がつけられたところを見たいのだ。選びぬかれたもの、勝ち残ったもの、ほんの一握りの人間にだけ許されたギフトを目にしたい。

    何より、人はそこに至る過程を、人々のドラマを見たいのだ。頂点を極めスポットライトを浴びる人を見たいのと同時に、スポットライトを浴びることなく消えていった人たちの涙を見たいのだ。

    個人的には、メインで描かれる数人のピアニストの中でも、一番「普通」に近い高島明石に思い入れてしまった。

    サラリーマンとして楽器店で働きながら出場を決めた、年齢制限ギリギリの28歳。妻も子どももいる中で、睡眠時間を削って必死に練習を重ね、ここまでたどりつく。彼にとってはこのコンクールの舞台を踏むこと自体がまず挑戦だ。

    タキシードを着て、美しいメロディを弾くためには、生きていくための仕事に忙殺され、果てしない日常を支えていかなければならない。あそこに立つまでに、彼がどれだけ努力してきたか、観客たちは誰も知らない。

    「これが最初で最後だから、頼む、挑戦させてくれ」「やっぱり、こんなことやめときゃよかった」「パパは音楽家なんだって明人に言ってみたいなぁ」

    明石が舞台から見る景色が、新しく出会う感情が、胸に迫る。彼の演奏がとても好きだ。と、読者……というか観客としてわたしは思う。苦労しているからじゃなくて、もっと底に流れる迷いや不安も含めて受け入れているから。

    「私はまだ、音楽の神様に愛されているだろうか?」

    単行本の帯にはそんな言葉が書かれている。「音楽の神様」。きっとその人に愛されるのは幸せなことだけじゃなくて、ほとんど呪縛のようなものだと思う。ある時は運命とも言うだろう。

    亜夜、マサル、塵の3人の「天才」たちは、それぞれのアプローチで神様の愛の重さに向き合う。お互い似ているところも違うところもあって、ライバルだけど、だからこそ、強い絆と友情が戦いの日々のあいだに生まれていく。この過程もすごくいい。突出した才能は孤独と隣り合わせだ。

    この先また離ればなれになっても、僕らはどこかで繋がっている。これからも、世界のそれぞれの場所にいる二人を、ずっと意識し続けることになるだろう。

    中盤からラストにかけて一気に読んだ。何か特別にドラマティックなどんでん返しがあるわけでなくても、ずっと胸がいっぱいだった。コンクールのあともそれぞれの人生は続くし、運命は自分で切り拓くしかない。

    もうすぐだ。もうすぐ、私たちはとてつもなく開けた場所に出る。

    もはや後戻りはできない。昨日までの自分はもういない。

    これまでとは比べ物にならないくらいの困難が待ち受けていることだろう。しかし、これまでとは比べ物にならないくらいの歓喜もまた、どこかで私たちを待っていてくれるはずなのだ。

    第三次予選、栄伝亜夜は広い海に流れ込むようにブラームス「ピアノ・ソナタ 第三番ヘ短調 Op.5」を弾き終え、ドビュッシー「喜びの島」につなげる。

    「喜びの島」、自分の中で特別な曲になった。彼女が弾くピアノを聴きながら(とあえて言う)泣いてしまった。亜夜が迷って苦しんで、ようやくこの曲にたどりついたその瞬間の神々しさを、この先きっと何度も思い出す。

    多分、一握りの天才だけじゃなくて、人はそれぞれに自分の神様に向き合わなくてはならないのだと思う。どこまで近づけるかはわからないけど。信じる方へ、光ある方へ。ちょっとずつでも。その先に、「喜びの島」があるように祈って。