実の親と一緒に過ごすことはできなかった。それでも生きてきた私には「育ての親」がいる。

    彼女はいま、児童養護施設や里親のもとで育った18歳〜22歳の女性たちに振袖を着て前撮りを撮影する体験を届けている。

    お兄ちゃん、お姉ちゃん、弟に妹。家族だと思える人たちはたくさんいる。でも、彼らとの間に血のつながりはない。

    物心ついた頃には児童養護施設にいた。生後4ヵ月で乳児院に預けられ、19歳になるまで児童養護施設と自立援助ホームで過ごしてきた山本昌子さん(25)にとって、施設で暮らすことは自然なことだった。

    「職員さんとお兄ちゃん、お姉ちゃんたちと過ごす日々がごくごく自然な日常でした。当時はまだ家庭的養護という言葉もない時代でしたが職員さんは必死に家庭のような雰囲気をつくろうとしてくれていました」

    いま振り返ると、そう感じるという。

    「運動会も施設の職員さんたちが見に来てくれたんです。小学5年生とか6年生になると、周りの女の子が『あのカッコいい男の人は誰?』ってザワつくんですよ(笑)。 親以外の人が見に来ていることを気にしたことはありませんでしたね。気が強い性格なので、いじめられることもなかったんです」

    本当の親との幸せな思い出がある子ほど、その幸せだったときの面影を追いかける傾向があるようだ、と彼女はつぶやく。

    「でも、私はそういう幸せを欲しいと思ったことはありません。良くも悪くも、私は血のつながった家族と過ごす幸せを知らないので」

    いまでも、困ったときに頭に浮かぶのは「育ての親」の顔。

    彼女はある元施設職員の女性を「育ての親」と呼んでいる。山本さんが高校に入った年に体調を崩して施設を去ったが、いまでも誕生日には必ず彼女に会いに行く。相談ごとがあるとき、真っ先に頭に浮かぶのはそんな育ての親の顔だ。

    「基本的にはすごく厳しい人なんですよ。マナーとか、宿題とか、門限とか。相談すると、返ってくる言葉はいつだって痛いところを突いてくる。笑 でも、この人は最後まで責任を持つって決めて育ててくれたと話していると感じるんです」

    いつもは厳しいが、クリスマスのようなイベントは誰よりも盛り上げてくれる彼女のことが山本さんは大好きだった。高校時代に施設に帰りたくない日々が続き、無断で外泊を続けたときも、そばにいてくれたのは育ての親だ。

    とても明るい性格の山本さん。いつも笑いが絶えないグループホームでの日々があったから、明るい性格でいられるのだと教えてくれた。

    山本さんの育った児童養護施設では育ての親の強い意向もあり、家庭に近い環境で育つことができるように子ども、そして職員の入れ替えは極力避けられていた。しかし、小学校4年生に上がったタイミングで同じグループホームで育ったお兄ちゃん、お姉ちゃんや職員と散り散りになってしまう。

    「悲しくて、すごく泣いたのを覚えています。何でなんだろう?と不思議でしょうがなかったんです。施設での暮らしは、たとえ職員にとっては仕事でも私にとっては生活なんです。だから職員の人に対して強く当たってしまうこともありました。どうせ仕事なんでしょ?って」

    育った児童養護施設には、山本さんの顔見知りの職員はもうほとんど残っていない。

    一度は絶たれた夢。それでも、生きなくていけないと思えた理由。

    児童養護施設で育つ子どもには、必ず卒園の日がやってくる。グループホームのみんなが大好きだった山本さんは、18歳になって卒園を目前に控えたときに初めて孤独を感じた。

    「それまでは、周りの人たちにかわいそうって言われても、え?何が?って思っていました。でも、そのとき初めて自分ってかわいそうな人間だと感じたんです。帰る場所も、頼れる場所も、居場所もない。結局、自分も職員の人にとってはたくさんいる児童養護施設の子どもの1人だったんだって」

    当時、山本さんは父親のもとへ帰り、児童福祉について学ぶために専門学校へ入ることが決まっていた。しかし、高校を卒業する直前に父親の都合で帰ることができなくなった。専門学校への入学も辞退。しかし、父親を責める気にはなれなかった。

    「私の父ってずっと嘘つきだったんです。私のことを引き取るって言い続けていたけど、結局引き取られることはなかったし、何かを期待させては裏切ってきた。だから、あのときも正直、またかって思いましたね」

    卒園した途端に、生きている意味がわからなくなったと当時を振り返る。それでも生きることを選んだのは自分を必死に育ててくれた人たちの顔が思い浮かんだからだった。

    「私はどんなに辛くても、育ての親のために生きなきゃいけないと思ったんです。恩を仇で返しちゃいけないって。お父さん、お母さんと過ごした時間はないけど、それと引き換えに得た育ての親との時間は何にも代えがたい宝物なんです」

    いつだって追い続けたのは、「あの人」の背中だった。

    どんな壁が立ちはだかっても、専門学校へ行って児童福祉を学ぶという夢を手放すことはなかった。中学時代から追い続けていたのは児童養護の世界で働く育ての親の背中だった。

    自立援助ホームに入所し、アルバイトをしてお金を貯める生活を1年続けた。夜遅くまで必死に働く日々。そんななかで、専門学校へ進学するという目標を自立援助ホームの職員に伝えると、返ってきたのはネガティブな反応だった。

    「専門学校に入るのにもお金がかかるし、入ったところで続くわけがない。どうするの?って最初は反対されました。その頃は、まだまだ奨学金も少なくて、就職以外の選択肢が少なくて」

    それでも専門学校へ入学し、懸命に働きながら卒業。保育士の免許を手にした彼女が選んだのは、児童養護施設の職員として働く道ではなかった。その選択の裏側にあるのは、育ての親の一言だ。

    「児童養護施設で働きたいって伝えたら、『それって自分の居場所を求めているだけじゃないの?』と言われてしまったんですよね。『あなたは子どものために働きたいの?それともあなたのために働きたいの?』って」

    気付けばそこには、児童養護施設で働くことで自分の居場所へ帰ろうとする自分がいた。当時は児童福祉のプロとしてではなく、社会的養護出身の当事者の1人として児童養護施設を見ていたと振り返る。

    子どもと向き合うとき、常に基準としてしまうのは自身がどのように施設で育ってきたか。自分の体験を思い返しながら、子どもの目線に立つことができる一方で、「児童養護施設はこうあるべきだ」という自分の価値観の押し付けにもなりかねないと、いまならわかる。

    山本さんはいま、新宿区にある児童館の職員として働いている。

    誰かに頼ることも1つの選択肢。だから、迷わず頼っていい。

    仕事を続けながら、山本さんは社会的養護を受けている子どものために自分なりの一歩を踏み出した。

    2016年、全国の児童養護施設出身の女性たちに、振袖を着て成人式の前撮りを撮影する体験を届ける「ACHA project」をスタート。

    学費と生活費を稼ぐことで精一杯で高額な振袖を着ることを諦め、成人式にも参加しなかった20歳の頃の山本さん。それでも、1人の知人がお金を払って彼女に振袖を着せてくれた体験がこの活動の原点にはある。

    撮影を希望する女性たちは、その多くが集団生活を経験し、自分だけの物や時間が欲しいという思いを押し殺した体験を持っている。だからこそ、自分の成人を祝うその日くらいはその子のためだけの時間を作りたいと山本さんは語る。だからこそ、1回の日程では基本的に1人の撮影しか行わない。

    社会的養護のもとで育った若者は、児童養護施設の場合は原則18歳で、自立援助ホームであっても原則20歳になると自立することを社会から求められる。後ろ盾のない中で、一度つまづくと仕事を失い、住む場所を失ってしまうこともある。そうした状況から立ち直ることは容易ではない。

    「児童養護施設出身者は努力していないという声を耳にすることもあります。でも、私からすれば生きているだけで十分頑張っているんです。18歳〜22歳の時期に命をつなぎとめたいと思って、ACHA projectに取り組んでいます。生きたいと思えるきっかけを少しでも届けたいんです」

    山本さんには育ての親やグループホームで一緒に過ごした仲間をはじめ、頼ることのできる人々がいた。仕事もACHA projectも、育ての親は応援してくれている。そんな彼女にとって「自立する」とはどういうことだろう?

    「依存してはダメだと言う人もいますが、その人は誰か1人にだけ寄りかかってしまうことが怖いのだと思います。人に頼っても良いんですよ。誰かに頼ることだって1つの選択肢ですから。その選択肢を自分の意志で選ぶことができていれば、それは自分の人生を生きていると言えるのではないでしょうか」


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