病床の樹木希林が「あまりに命がもったいない」と泣いた理由

    2018年9月にこの世を去った樹木希林さん。あれから1年。娘の内田也哉子さんは死の間際のメッセージと向き合い、1冊の本をまとめた。

    2018年9月1日、病床の樹木希林さんは窓から外をながめ、涙を流しながらこうつぶやいた。

    「死なないで、ね…どうか、生きてください…」
    「もったいない、あまりに命がもったいない…」

    例年、全国で自殺する子どもの数は9月1日前後に増加する。樹木さんは全身をガンに侵されてもなお、自分や家族のことではなく、今まさに消えようとしている命があることを気に病んでいた。

    その2週間後、女優・樹木希林は75年の生涯を終えた。

    娘の内田也哉子さんは、そんな母からの最期のバトンを受け取り、1冊の本をまとめた。こうして今年8月1日に出版された『9月1日 母からのバトン』は母との共著だ。

    あの時、母は一体何を伝えようとしていたのか。

    母は他の誰よりも身内との距離感に気を使う人だった。親子として過ごした42年間、どこか遠い母との関係に寂しさを覚えたのは一度や二度ではない。

    ベールに覆われた母を知る旅が、こうして始まった。

    生前、「本を出したくない」と語っていたが…

    「当時は母のことで世の中からあらゆる要求がたくさん届いていて、引きこもってしまいたいくらいの気持ちでいました」

    樹木希林さんが亡くなった翌日から、週刊誌やテレビ局、出版社、新聞社からの取材や執筆の依頼が殺到した。そうした依頼のあまりの多さに動揺してしまったと内田さんは明かす。

    数ヶ月後、今回の著作の編集者から不登校について生前語っていた内容をまとめた本を出版したいという手紙が届いた。その日初めて、内田さんは母が不登校について取材に応え、講演していたことを知る。

    しかし、生前、「本を出したくない」と語っていたこともあり、出版の依頼は断るつもりでいた。すでに母に関する本がかなりの数、出版されている。きっと母が意図していないであろう状況に申し訳なさを感じていたと静かにつぶやく。

    「母は自分の残す言葉に興味を持っていなかった。インタビューを受けても絶対にチェックをしないし、すでに世に出たものであれば何でも使ってくださいと言う人でした。留守電に『二次使用はどうぞご自由に』と一言添えていたほどです」

    だが、編集者と電話で話をしたとき、病室での一コマが脳裏に蘇った。それは死の間際、学校に通えないことを苦に命を断つ人がいる現実を憂いていた母の姿だった。この9月1日についてであれば、母ならきっと「おおいに使ってください」と言うのではないか。

    気付けば、本にするならば「不登校経験者や関係者、もしくはそうした現状をよく知っている人に話を聞き、この問題を深掘りしたい」と内田さんから編集者へと逆提案をしていた。母のバトンをしっかりとつなぐため、人に会って、話をしたいと考えた。

    「追い込まれていた時に、一筋の光として降り注いできたのがこのテーマだったんです」

    学校へ行くのが辛かった、小学6年生の日々

    「不登校新聞」の編集長を務める石井志昴さん、不登校経験者のEさん、バースセラピストで数多くの不登校経験者の相談を受けてきた志村季世恵さん、そして国文学者のロバート・キャンベルさん。不登校について知り、考える上でこの4人に話を聞いた。

    「どうしてもっと大人たちはこの問題を取り上げ、怒ってくれないのか」

    取材を通じて知り合った不登校経験者のEさんは内田さんの目をじっと見つめ、胸の内を吐露した。強く、まっすぐな目を見た時にこみ上げてきたのは、子どもたちが追いやられている理不尽で悲しい現実を知らずに生きてきた自分への恥じらいだった。

    「子どもにとって人生の大半は学校に行っている時間だから、そこで上手くいかないと、もう先はないって思ってしまう。長いスパンで考えることなんてできないし、経験が少ないからこそ見える世界も狭くなってしまうのはすごくわかるから」

    そう語る内田さん自身にも、小学校6年生でインターナショナルスクールから公立の小学校に編入し、「異物」として過ごした辛い日々の記憶がある。

    上手に意思疎通ができず、やがてクラスの中で浮きはじめ、そしていじめられた。家に帰ると涙が溢れる。学校に行くのは憂鬱で、朝になると身体が重く感じられて仕方がなかった。

    「そんなに辛いんだったら、やめればいいのに」、学校へ通うことが辛いと漏らすと母にはこんな言葉をかけられた。

    9歳でアメリカに1年間ホームステイをし、12歳で日本の公立学校に編入をした。どんな選択であれ、人の道を踏み外しさえしなければ母は常に後押しをしてくれる。だが、裏を返せばいつだって決めるのは自分自身だった。

    「自由」と言えば聞こえはいい。でも、自由であればあるほど、その責任もまた子どもだった内田さんの両肩に重くのしかかった。父も母も奔放に生きていたからこそ、「どんな人間になりたいのか」を常に自問自答せざるを得なかったと振り返る。いつでも胸の内には不安があった。

    学校をやめたとして、その先に何があるのか。そんな不安が学校へ通い続ける辛さに勝り、公立小学校での生活を続けることを決めた。

    あの頃、内田さんはどれだけ辛くとも、「この半年さえ乗り切れば」と自分に言い聞かせ続けていた。学校へ行くことを苦に死を選ぶ人がいるという現実を知った今、その先で環境が変わることが目に見えていた自分はラッキーだったと強調する。

    「やっぱりね、今は大人になったから、冷静にこうだった、ああだったと分析できるけど…子どもの時に孤立して、存在を否定されていると感じたときは自分の何が悪いんだろうって考えてしまうと思うんです」

    「あの状況が、もしあと数年続いていたら…どうなっていたかわかりませんね」

    闇を知ることは無駄ではない

    「不登校というのは一つの大きな問題なんだけれども、この本で語られていることが子どものいない家庭にとっては全く関係のないことかと言われたら、そうではない。むしろ、もっともっと深くて大きな問題につながっている」

    そこにあるのは学校に行けなくなり、引きこもってしまった人の問題だけではないと内田さんは強調する。この問題は社会の「縮図」なのだ、と。

    「一歩ひいて見れば、会社に行けなくなってしまう人もたくさんいますよね?こうした社会の歪みというのは、どんな立場にいる人でも生きていれば必ず影響を受けるものだと思うんです」

    だからこそ、「どうすれば社会全体が立ち止まってしまった人の心の奥まで寄り添うことができるのか」を必死に考えた。自身も3人の子を育てる母。「もしも、我が子に明日学校へ行きたくないと言われたら?」と自分に問いかけた。

    「何かにならねばならない、という見えないプレッシャーを感じている人もいるかもしれない。そういう空気が社会にはあると思うし、それを子どもも大人も感じていると思うんです」

    それでも、学校に行けないことは決して「絶望」を意味するわけではないと断言できる。不登校の経験を持つ人々は口々に、引きこもりの生活を続けた先に「底をつき」、再び外の世界へ出て行くことを選ぶまでの体験を内田さんに語ってくれた。

    「周りの大人が忍耐を持って、急がせない。いまいる闇から引っ張り出したら元も子もない」

    「本を書くために取材した人たちから受け取ったもの、それは『闇を知ったことは決して無駄ではなく、財産なんだ』ということだったんです」

    「いいのよ、てきとうで」

    「絶対に学校へ行って、絶対にこの年齢で卒業して、絶対に会社へ入ってお金を稼ぐ。それは理想ではあるのかもしれないけど、『絶対』って言葉を口にした瞬間に自分をがんじがらめにしてしまう」

    だから、「いいのよ、てきとうで」。そう、いつだって母はこんな風に誰かを励ましていた。

    "必ず必要とされるものに出会うから。そこまでは、ずーっといてよ。ぷらぷらと"
    (『9月1日 母からのバトン』)

    今年3月、父親の内田裕也さんも母の後を追うようにこの世を去った。「常に緊張感を持っていて、身内なんだけどあまりリラックスする関係ではなかったから」と両親との関係を振り返り、微笑む。まさか亡くなった後にこうして母との対話が続くなんて思ってもみなかった。

    「生きているときは2人ともすごく強烈、too muchだったので…母も父もいなくなって初めて、彼らが残したメッセージが自然と私の中に入ってきました」

    芸能人の父と母、生まれた時からプライベートはあってないようなもの。そんな2人の一人娘であることをコンプレックスとして抱え、生きてきた。「有名人の両親を持っていたことで損をしたことの方が多かった」とも感じる。だが、一つひとつ乗り越えてきた隔たりやすれ違いが無駄だったとは思わない。

    生前、樹木さんが不登校新聞の取材に対して語ったのは「難のある人生は、ありがたい」というメッセージだった。今なら、母が言わんとしていたことが少しだけわかる気がする。

    「母はどんな失敗をしてもそれは無駄ではないんだと、そういう生き方をしていた。そこにはとても大きなヒントがありますよね」

    「それこそ疎ましかったいろんなことがギフトになってきている。というか、そうしたことをギフトだったと思って生きていきたい。だって、無駄だったと思うことほど悲しいことってないでしょう?」