もはや回復が見込めない終末期にある人が、人生の最後にどこかに行きたい。そんな願いを叶えたいという活動が、関東で始まっている。
埼玉県川口市の越川正子さんは2018年4月、末期の大腸がんと診断された。余命はいくばくもない。手術などの治療をしても、84歳の体には負担となり大幅な延命も望めない状況だった。
今後の方針を尋ねる医師に、正子さんは「もう治療はいらない」「薬も点滴もいらない」と言った。長男の博さんは母の思いを尊重してホスピスを探し、家族で静かに過ごすことにした。
博さんは社会人を中心とする吹奏楽団「アンサンブルリベルテ」(川口市)の団長だ。70人を超える団員をまとめている。5月20日に、その定期演奏会が予定されていた。
息子の晴れ舞台を見たい
正子さんの体力が日々衰えていくことは、みてとれた。口数も減った。それでも正子さんは「演奏会を見たい」と言った。
息子の晴れの日を見る人生最後の機会になることは、間違いなかった。施設の人が、「こんなのがありますよ」とパンフレットを差し出した。
「願いのくるま」という新たな団体で、人生の終末期にある人が、最後に行きたい場所に、看護体制を整えた特別な車で無料で連れて行き、願いを叶える、というボランティア活動をしていた。
「これだ」と思い、応募した。いわゆる「介護タクシー」よりも、万全な体制だと思えた。
母子は「演奏会までは頑張ろうね」と誓い合った。
「ど根性ガエル」な家庭
「僕の名前は『ひろし』で、豊かとはいえない家庭で育った。まるで『ど根性ガエル』のような少年時代でした」と博さんはいう。
「ど根性ガエル」は、下町の家族や子どもたちの姿を描いた名作。主人公の名は「ひろし」だ。
1961年(昭和36年)生まれの博さんが物心ついたころ、日本はまだ貧しかった。正子さんは土日も朝から晩までミシンを踏んで洋裁の内職を続け、運送会社員で高給とはいえない夫の収入を補った。
裏にすぐ隣家が迫る狭い下町。深夜まで響くミシンの音に、苦情が持ち込まれたり、裏のアパートから物を投げられたりすることもあった。
今も博さんの脳裏には、母が踏むミシンの音が残っている。
夫婦はコツコツとお金をため、博さんの姉のためにピアノを買った。博さんも少しずつ弾き始めた。「まったく音楽を身につける余裕もなかった両親だからこそ、そうしてくれたのだと思う」。
博さんは中学校に入ると、吹奏楽部に入った。運動部のしごきは苦手だったし、吹奏楽というものがかっこよく見えた。
大学まで吹奏楽部員として活動を続け、社会人になっても吹奏楽に関わり続けてきた。「アンサンブルリベルテ」の団長になり30年を超える。
その間、全国大会に22回出場し、金賞を18回受賞した。演奏家からマネジャーに立場を変え、楽団をまとめて「日本のトップバンドの一つ」と呼ばれる存在に育てたことを、博さんは誇りにしている。
だからこそ、正子さんも演奏会を見たかったのだろう。「最後の親孝行だ」と博さんは思った。
民間救急車で演奏会に
演奏会当日、正子さんは「願いのくるま」が手配した民間救急車で、施設からさいたま市のホールにやってきた。常に医療の手助けが必要な状態の正子さんのため、車には看護師が同乗し、酸素ボンベなどを備え付けていた。
正子さんは「ほっておくとだんだん体が沈み、眠っているように見える状態」(博さん)だった。それでも、博さんがあいさつのためステージに立つと、パッと顔を上げた。
第一部だけで帰るはずが、「もう少し残りたい」と正子さんは言った。第二部の途中まで1時間半ほど、博さんがまとめ上げた演奏会を聴き続けた。
博さんの姿を見届けた正子さんは、演奏会の5日後に息を引き取った。
苦しむこともなく、炎が次第に小さくなって消えていくような、静かな最期だったという。
「願いのくるま」はさいたま市の「タウ」という企業が中心になり、協賛を集めて立ち上げた社団法人だ。
「タウ」は、事故車を買い取り、海外に輸出する事業をしている。社会貢献の新しいかたちを模索していた時、ドイツやオランダなどで、終末期にある人の「出かけたい」という願いを、特別な体制を組んだ車を用意して叶える活動があることを知ったという。
これを日本で展開するため、2018年1月に社団法人として発足した。これまでに、終末期にある人や、移動が難しい身体障がいのある人からの申し込みを受けてきた。越川さん母子は3例目となる。
いまは立ち上がったばかりで体制の制約もあり、関東の1都6県限定の事業だが、いずれは拡げていきたいという。
「願いのくるま」理事でタウ社長の宮本明岳さんは「体制を整え、賛同団体や個人との連携を広げ、活動の輪を広げていきたい」と語る。
UPDATE
表記を一部改めました。