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相模原障害者施設殺傷事件 死刑判決と植松被告の「黒い部屋」

16回開かれた裁判のうち、8回を傍聴した作家の雨宮処凛さん。判決が出た今、ただモヤモヤが残る。

「遺族、被害者家族が望んだ結果になり、ほっとしている」

3月16日、記者会見で尾野剛志さんはそう言った。

2016年7月、知的障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた障害者殺傷事件にて重症を負った一矢さんの父親だ。

この日の午後2時すぎ、「意思疎通のできない障害者は安楽死させるべき」という主張から事件を起こした植松聖被告に、死刑判決が下された。

死刑だろうと思ってはいたが、まだなんと思っていいのか、心の整理がついていない。傍聴してきた植松被告の姿を振り返ってみたい。

最後に伝えたかった言葉と、結審の日の「タピオカ発言」

午前10時20分に始まった傍聴券の抽選には、1600人ほどが集まった。傍聴券の数はわずか10枚。普段は二十数枚あるのに、新型コロナウイルス感染拡大を受けて傍聴人が隣同士で座らないよう1席ずつ空けるために少なくなったらしい。倍率は160倍だ。

判決言い渡しのための開廷は午後1時30分。抽選は当然外れたので横浜地裁のロビーで終わるのを待っていると、午後2時15分、ぞろぞろと傍聴人が出てきた。

判決は、やはり死刑。その判決後、植松被告は証言台の前で手を上げて「すみません、最後にひとつだけいいですか?」と言ったという。しかし、発言は認められないまま、閉廷。

この日、閉廷後に横浜拘置所で植松被告と接見した神奈川新聞の記者に、最後に何を言いたかったのか問われると、植松被告はこう言ったという。

「『世界平和に一歩近づくにはマリファナが必要です』と言いたかった」

その意図について、「マリファナを使えば、意思疎通できなくなったら死ぬしかないと気付けるようになるから」と答えたという(神奈川新聞)。

結審の日の「タピオカ発言」といい、重大な場面で大真面目におかしなことを言う植松被告は、法廷で「冗談を言って友人を笑わせるのが好き」というようなことを言っていた。

が、彼は友人たちを「笑わせる」のではなく、友人たちに「笑われていた」のではないか?

裁判を傍聴していて、何度かそう思う瞬間があった。どこかが決定的に、ズレている。そして裁判でも、そのズレはしょっちゅう顔を出したのだった。

異例づくめの裁判 残るモヤモヤ

1月8日に始まった裁判員裁判は、被害者19人の数より少ない全16回の公判で終わった。

うち8回を、私は傍聴した。

事件から3年8ヶ月。何もかもが異例づくしの裁判だった。

まず、裁判がハイスピードすぎた。振り返れば、あっという間に終わっていた。

ほとんどの被害者が匿名であるということも異例だった。裁判の間、遺族や被害者家族が座る傍聴席の右半分が白い衝立で覆われているのも初めて見る光景だった。

そうして初公判で指を噛み切ろうとして休廷に。以来、法廷の植松被告にはずっと6人もの屈強な刑務官がつきっきりとなった。結審後、判決を前にして裁判員が二人やめたのも異例中の異例と言えよう。

判決日の会見で、尾野さんは「本当にスッキリしない。結局もやもやもしたまま結審し、判決に至った」と述べた。多くの人が同じ気持ちではないだろうか。

法廷では、やまゆり園で働き始めた頃は「障害者はかわいい」などと言っていたものの、事件前年くらいから「意思疎通のできない障害者は安楽死させた方がいい」などと言うようになったことが友人たちの供述調書から明らかになった。

それまではちょっとヤンチャなところもあるけれど、バーベキューやフットサルが好きな「チャラい若者」というのが私の中の「植松聖像」だった。

「障害者はいらない」という作文 、衝撃の続報

しかし、2月6日の 第11回公判で、そんな植松像はガラガラと崩れた。被害者弁護士に「あなたは小学生の頃、『障害者はいらない』という作文を書いていますね?」と問われ、それを認めたのだ。書いたのは低学年の頃だという。

これは非常に重要な事実だと思う。が、法廷でそのことがそれ以上掘り下げられることはなかった。

一方、重要と思いつつも、そのような作文を書いたのは子どもの無知ゆえで、それほど深読みするものでもないかもしれないとも思っていた。

しかし、そんな思いを覆す記事が判決前日の3月15日、神奈川新聞に掲載された。13日、接見に行った記者がその作文の内容について尋ねると、植松被告は以下のように語ったという。

「戦争をするなら障害者に爆弾を付けて突っ込ませたらいいというもの。戦争に行く人が減るし、家族にとってもいいアイデアだと思った」

作文を書いたのは、小学校2、3年の頃だという。

子どもゆえの無知などではなく、小学校低学年にして「障害者の軍事利用」を思いつき、作文に書いていたのである。

もちろん、私たちはこれまでの戦争の中で、「対戦車犬」などの形で動物が兵器として使われてきた歴史を知っている。小学生だった植松被告はそのようなものをどこかで見聞きしたのだろうか。

しかし、それを「人間」が担うなんて、どう考えてもおかしすぎる。と思いながらも、この国では70数年前、「特攻隊」という形で人間を「自爆攻撃」に使ってきた歴史があるのだった。

このように、植松被告の「おかしさ」を否定しようと思えば思うほど、「実は国を挙げてやっていた」みたいなことが出てくるのもこの事件の特徴である。ナチスの障害者虐殺は言うまでもないが、この国は1990年代まで障害者に対して強制不妊手術をしていたという歴史も持っている。

「殺す」に飛躍した施設での経験は?

また、掘り下げてほしかったのは施設で働く中でなぜ「殺す」に突然飛躍したか、だ。

ある時期から、植松被告は障害者をしきりに「かわいそう」と言うようになる。食事がドロドロ、車椅子に縛り付けられている等。

日々障害者と接する中で、様々な葛藤が生まれることは理解できる。その葛藤については多くの人が共感するものだろう。が、それが「殺す」に飛躍し、頭で考えるだけでなく、本当に殺害行為をするにはとてつもなく高い壁を越えることが必要だ。

判決後の記者会見では、やまゆり園の入倉かおる園長が植松被告の変化について話した。事件を起こす2016年の年明けくらいから障害者を「ヤバいですよね」「いらないですよね」と軽い感じで言うようになり、そこから「障害者はいらない」と話すようになったという。

それまでは、「やんちゃな兄ちゃんだけど悪い印象はなかった」。雑なところもあるが、まだ若いから育てていこうという気持ちもあった。

しかし、遅刻をしたり退勤時間でないのに勝手に帰ったりするようになり、足が悪い利用者を誘導しながら自身はポケットに手を突っ込んでいたりする。注意してもなかなか変わらない。が、そんな植松被告に対して、先輩職員たちは「できると褒める」なども繰り返していたそうだ。

法廷では、施設の問題についても触れられた。

第9回の公判で植松被告は差別的な考えを持つようになった経緯について、他の職員の言動を挙げたのだ。入所者に命令口調で話す職員。また、暴力をふるっている者もいると耳にしたという。

職員の暴力については良くないと思ったが、「2、3年やればわかるよ」と言われたという。2、3年経てば、暴力をふるう気持ちがお前にも理解できるよ、ということだろう。

それを受け、植松被告は食事を食べない入所者の鼻先を小突いたりするようになったという。

ここは、事件につながる大きなポイントだと思う。

しかし、裁判では施設の問題にはこの部分くらいしか触れられていない。また、入倉園長はこの日の植松被告の発言を受け、「暴力はない。流動食などの食事形態は医師の指示を受け、家族とも相談して決めている」と述べている

判決後の会見でも、園長はあらためてこのことに触れ、聞き取りをした結果、そのような事実は確認されなかったと話した。

真っ黒な「植松被告の部屋」

掘り下げられなかったことはまだある。

例えば私が妙に印象に残っているもののひとつに「植松被告の部屋」がある。

2月5日の裁判で、裁判員からの質問がされた日、裁判員の2人がこの「部屋」について、触れた。

裁判員「あなたの部屋には黒い紙が貼られていますが、あれはなんですか?」

植松被告「友人が遊びに来るので、騒がしいので防音シートを貼りました」

別の裁判員「黒い防音シートに白い線が描かれてますが?」

植松被告「友人と落書きしました。部屋に絵を描いたらかっこいいかなと思っただけで何か見ながら描いたかもしれません」


裁判員が見た「植松被告の部屋の写真」を、傍聴人である私たちは見ることができない。が、異様な様子だったようだ。

そうして結審の日、植松被告の弁護人はこの「部屋」に触れている。弁護人はこの日、被告が大麻の影響で心神喪失と訴え、その流れで、植松被告が「うざいきもい」と幻聴が聞こえると、面会した精神科医に言ったと述べて続けた。

「詐病ではないかと思うでしょうが、被告は正常と見られたがっています。被告の部屋には黒いものが一面に貼られていました。防音シートと被告は言いますが、幻聴があり、また『盗聴器がある』と思っていたと考えると理解できます」

植松被告は、幻聴を遮るために、また部屋に盗聴器がつけられているという妄想があったために、部屋を黒いもので覆っていたのだろうか。絵は、何か儀式めいたものだったのだろうか。

ヤフコメの影響? ネットのツギハギのようなことしか言わない姿

また、植松被告の弁護団は、彼が事件前年の2016年に急激に人格が変化したと法廷で述べている。そこに大麻の影響があったと主張していたのだが、その頃から、障害者差別的な言動を繰り返すだけでなく、暴走行為をしたり、また自分の彼女をAVに出そうともしたという。

この辺りのことも、掘り下げられることはなかった。

なぜ、植松被告はあんな凄惨な事件を起こしたのか。

判決が出た今、それが解明されたとはまったく言えない状況にもやもやは募るばかりだ。

事件について書かれた『開けられたパンドラの箱 やまゆり園障害者施設殺傷事件』(月刊『創』編集部編)で、精神科医の松本俊彦氏は植松被告について、こう語っている。

「とにかく彼のドロッとした部分が見えてこないんです。少なくとも自己愛性パーソナリティ障害の人が胸に隠し持っている劣等感とか羨望の気持ちとか、怒りのようなものがどこかでポロポロっと見えてくるかと思ったら、そうでもない。いろんなものがあっさりしすぎていて......」

裁判が始まる前、『創』(2018年8月号)に掲載された香山リカ氏との対談での発言だが、裁判傍聴を重ね、植松被告と面会した私の印象もまさにそうだ。

暗い「情念」どころか「闇」のようなものさえ植松被告にはまったくと言っていいほど感じない。それは彼が何か言っても、必ず「こういう本に書いてありました」「起業家の人が言ってました」という感じで、ネットで無料で見られるものの上澄みを集めてそれをつぎはぎしたみたいなことしか言わないからだ。

そんな植松被告は以前、ヤフーニュース等のコメント欄にたくさんの書き込みをしていたという。前述した対談で、香山リカ氏は以下のように言う。

「ヤフーニュースに自由につけられるコメント、いわゆるヤフコメもひどいですよね。差別的なコメントが多い。『このくらいのことをやっても許されるだろう』というのはヤフコメを見て学んだ可能性もあるのでしょうか」。

異常な言動が招いた友人からの孤立

また、同書で精神科医の斎藤環氏は、措置入院後の孤立が彼を追い詰めたのではないかと指摘している。事件前年頃から「障害者を殺す」と口にするようになり、16年2月に衆院議長に「障害者470人を殺せる」などの犯行予告の手紙を出し、それが原因で2月19日に措置入院となった植松被告。

結局3月2日に退院するわけだが、「障害者を殺す」などと口にするようになってからの植松被告からは人がどんどん離れていく。

衆院議長への手紙の代筆を「字が汚いから」と友人に頼んだり、「手紙が完成したらから読んで」と何人もの友人に電話で読み上げたりしていたからだ。

友人たちの間では、「さとくん、変な宗教にハマったんじゃないの?」と言われ、「仕事をやめて警察に連れていかれたらしい」という噂(事実だったが)も仲間内で広がっていた。

ある友人は、植松被告の母親から措置入院したことを知らされ、退院後、大麻をやめるよう見守ってほしいとお願いされている。そうして退院の日、「さとくん」と会うが、「まったく変わらない様子で、退院は早すぎると思った」そうだ。

その3日後の友人の結婚式にも「さとくん」は来た。

が、トランプ大統領をイメージしたという黒いスーツに真っ赤なネクタイをし、「障害者はいらない」と話し、人目も気にせず大麻を吸うのでみんなドン引きしたという。

その翌日には別の友人の結婚式の余興の撮影があったが、「さとくん」は自分の意見が採用されないと、拗ねたり一人でイライラしたり。「結婚式に来たらぶち壊しになる」「呼ばない方がいい」ということになり、招待客から外された。

法廷では始終冷静だった植松被告だが、この供述調書を聞いている時はしきりに首を傾げたりと、バツが悪そうな顔をしていたことが印象に残っている。この頃、多くの友人が「さとくん」と縁を切ったりフェードアウトしていったりした。

困窮への不安、孤立、そして「日本は滅びる」という”希望”

その後、植松被告は生活保護を受けるようになる。

しかし、事件当時は彼女もいたし、事件前日には友人と大麻を吸い、事件前々日には友人4人とボーリングに行きラーメンを食べ、植松被告が通っていたムエタイジムに行っている。

「さとくん」がとんでもないことを起こさないよう月に1、2度会うようにしていたという友達もいる。

事件前には失業保険を受けるようになり生活保護は停止となったようだが、その間もジムに行き大麻を吸い美容外科に行っている。

この時期の生活費について、「生活困窮するのではという不安は?」と裁判員に聞かれた植松被告は、「事件起こすつもりだったので不安はなかった」と答えている。

また、弁護士の「いつ頃この事件の計画を立てたか」という質問には、「10月までには事件を起こそうと思いました。自分の貯金残高もあるし」と述べている。

失業保険が切れたら立ち行かなくなるだろう生活と、残り少ない貯金残高と、措置入院という負の烙印と、表面的には仲良くしてくれる友人や親に対して「もてあまされている」感覚を持っていたかもしれない植松被告。

部屋の壁に張り巡らせた黒い紙。

未来の出来事が書かれているというイルミナティカードの「日本は滅びる」という予言。

いろいろとうまくいかない植松被告にとって、「日本は滅びる」という予言は、もしかしたら唯一の希望だったのではないだろうか。そして今も、植松被告はそのストーリーを頑なに信じようとしている気がする。

法廷で、植松被告はイルミナティカードにどんなことが書かれているか聞かれ、得意げに答えている。

「日本は滅びる。たぶん今年滅びます。首都直下型地震からいろいろと問題が起きます」

横浜でも何か起きるかと聞かれて「原子爆弾落ちてました。6月7日か9月7日」。

また、イルミナティカードはこれまでも911テロやビットコイン、トランプ大統領、3・11などを予言してきたと熱弁した。

死刑判決と重なる植松被告の主張

1月30日、接見した植松被告は、死刑について聞かれると、「死刑になるつもりはないですが、死刑判決が出る可能性はあると思っています」と淡々と述べた。

もし死刑判決が出たら受け入れるのか?という問いには一切の動揺を見せず「はい」と答えた。

どうせ日本は滅びるんだから、自分の死刑判決など大したことはない、ということなのだろうか?

死刑判決を受けて、「あんな奴早く殺せ」という意見も当然ある。「あんな人間は生きてても税金の無駄」という声も聞こえる。

が、その主張は突き詰めると「障害者は時間と金を奪う」と殺害した植松被告と重なってきてしまう。

一方で、遺族や被害者家族らが極刑を望んだのも当然だろう。そして死刑判決が出ても、植松被告に死刑が執行されても、奪われた19人の命が戻ってくることはないのだ。

あの日、植松被告は無防備に寝ている43人を刺し、うち19人の命を奪った。最初に襲った人から最後の人まで、刺し傷は100箇所以上。

事件当時26歳だった植松被告は裁判中に30歳の誕生日を迎えた。そしてこのまま控訴しなければ、あと少しで確定死刑囚となる。

【雨宮処凛(あまみや・かりん)】作家・活動家

1975年、北海道生まれ。フリーターなどを経て、2000年、自伝的エッセイ『生き地獄天国 雨宮処凛自伝』(太田出版、ちくま文庫)でデビュー。2006年から貧困・格差の問題に取り組み、『生きさせろ! 難民化する若者たち』(同)でJCJ賞受賞。

著書に『非正規・単身・アラフォー女性』(光文社新書)、『1995年 未了の問題圏』(大月書店)など。相模原事件を扱った対談集に『この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代』(大月書店)。最新刊は『ロスジェネのすべて 格差、貧困、「戦争論」』(あけび書房)