活字離れ?いやいや、今の日本人は漢字に詳しいですよ

    時には完成までに数十年。壮大な辞書の世界に魅せられた人のお話。

    累計570万部を誇る、角川書店の漢和辞典「角川新字源」が1994年以来、23年ぶりに全面改訂するらしい。

    いや、さらっと言いましたが、23年って何事!? 辞書業界、時の流れが壮大すぎる。

    改訂新版の編集作業を取りまとめる坂倉基さんは36歳。2008年、辞書編集部に来た頃はまだ20代半ばでした。

    「当時は、日本の漢和辞典編集者の中でもかなり若い方だった」という坂倉さん。就職した当初は辞書とは無縁だったという彼は、一体なぜこの仕事に?

    20代で「角川新字源」のリニューアルに奮闘してきた壮大な道のりを聞きました。いや、ほんとにスケールがすごくてびっくりしますよ……!

    漢和辞典ってどんな辞書?

    ――そもそも、漢和辞典って一体どういうものなんでしょうか? 触ったことはあるけど使った覚えは正直あんまりない、です……。

    正直にありがとうございます(笑)。漢和辞典は国語辞典と違って、字そのものにフォーカスした辞典ですね。

    漢字の歴史的ななりたち、字形、意味、字音、熟語などが載っています。中国の古典の読解などにも使われるので、すこし難しい印象があるかもしれません。

    ――今回の改訂は、どんな部分が変わったんでしょうか。漢字の意味ってそんなに変わることもないような…?

    わかりやすいところで言うと、収録漢字が約1万字から約1万3500字に増えました。コンピュータで使われるJIS漢字のうち未収録のものや、これまで入っていなかった日本生まれの漢字「国字」などを追加しています。

    おっしゃるとおり、漢字の意味自体は時代を経てもあまり変化しないのですが、PCやスマートフォンの変換機能のおかげで使える字は増えているんです。

    国字というのは、例えば、お寿司屋さんの湯呑みに書いてあるような魚へんが付く漢字。この中にも中国では使われていないものがたくさんあります。

    ――へえ〜! 全然知らなかったです。

    日本から中国へ逆輸入されるケースもあるんですよ。労働を示す「働」は日本で生まれたといわれる漢字ですが、今は中国でも使われています。

    各字の意味やなりたちの解説、字の読み方も、編者の先生方にすべてチェックしなおしてもらいました。日々専門家のあいだで議論されている最新の研究成果を反映したところも多くあります。何しろ初版から50年近く経っているので……。

    ガンダムから辞書の世界へ

    ――坂倉さんはどういう経緯でこの辞書の担当になったんでしょうか。

    ええと、新卒で入社したのはメディアワークスという別の子会社(現在のアスキー・メディアワークス)で、ホビー誌の編集部でした。ガンダムのムックなんかを作ってました。

    ――ガンダムから漢和辞典へ!? 落差がすごい!

    ある日いきなり「君だ!」と任命されまして……じゃなく、直接のきっかけは、社内で「辞書編集部員募集」の募集を見たことです。グループ内の人材交流を促すために、まったく別部署への異動の募集がたまにあったんです。

    学生時代に使っていたので、もともと「角川新字源」には愛着がありました。それから、編集という仕事そのものを突き詰めていくと、文字や漢字の成り立ち、起源にいつか興味が向くだろうと予感していたんです。

    そんなことを考えていたタイミングでその募集を見て、なるほど辞書か、そういう世界を一度覗いてみたいな、と。

    で、おずおずと手を上げてみたら、人事部にすぐに捕まりまして……。「若くて知識もあってぴったり!こいつだ!」という感じだったんでしょうか。話はトントン進んでいきました。

    ――まるで「舟を編む」みたいですね(※三浦しをんさんの小説。営業マンの主人公が辞書編集者としての才能を見出される)。

    本当にあんな感じです、新人の僕だけ20代で、みなさん大ベテランでしたからね。最初は「辞書に入った若いヤツ」と認識されていたと思います(笑)。

    転籍初日のこと、今もよく覚えています。当時は角川学芸出版という別会社で、社屋も違ったんです。

    当時の社長に、上司になるお二人を紹介してもらったんですが、「今日からよろしく、この人を父、この人を母と思ってお仕えしなさい」と言われまして……。

    ――お、お仕え!?

    当時の僕と同じ反応ですね!

    もちろん言葉の綾で、それくらいの気持ちで教えてもらわなければならないぞ、という意味合いなんですが、そのときは「お、お仕え〜〜!?」って叫びそうになりました(笑)。なんだかすごいところに来てしまったな、と。

    1万字超の漢字リストがオール手書きな理由

    ――同じ編集者といっても、雑誌とはずいぶん勝手が違いますよね。

    そうですね。ある時、洗礼のように1万3500字分の手書きの漢字の一覧表……「親字表」と呼ばれる項目リストをドサッと渡されまして。

    なぜ印刷じゃなくて手書きなのかというと、漢和辞典に載っている漢字の中にはWindowsなど一般的なコンピュータで出せないものが多くあるからです。手書きで1万字もある漢字の一覧表なんか、それまで見たこともありませんでした。

    ――かなり分厚いですね。そして全然読めない……。

    改訂作業と並行して辞書データのデータベース化も進めていきました。デジタルに一番詳しいのが自分だったので……若いですからね。

    「角川新字源」の初版は1968年発行なのですが、ずっと活版印刷で刷り続けていました。改訂作業も初版のフィルムを切り貼りして修正していたんです。レトロでしょ? 今やもうボロボロのフィルムが、ラーメン屋の秘伝のスープみたいに連綿と受け継がれてきたんです。

    当然ですが、データベースにするには、フィルムの上の情報をまずデジタルデータに変換しなければなりません。大事件ですよ!

    当時の社内には全然事例がなくて試行錯誤でしたね。まずは漢字を「作る」ところからスタートでした。

    ――漢字を作る?

    さっきもありましたが「コンピュータで入力できるようにする」ということですね。先ほどの手書きの一覧表を元にして、凸版印刷さんと一緒にこの辞書のためのオリジナルのフォントを作りました。

    ――なるほど、フォント作り! 辞書編集者、と聞くと、部屋の中で黙々と大学教授のように作業しているイメージでした。

    いやぁ、でもそういう根気の必要な仕事がほとんどですよ。編者の先生たちから赤を入れてお戻しいただいた原稿とにらめっこしながら黙々と作業することが多い。

    雑誌編集部ではいつも取材や打ち合わせに飛び回っていたので、当時は慣れるまでに時間がかかりました。

    ――辞書編集者に向いているのはどんな人ですか?

    そうですね……、毎日たゆまず考え続けられる人。

    辞書作りは、ルール作りなんです。たくさんの学説や仮説、研究成果がある中でどの学説を指針にして解説していくか、表記をどう規定するか。決めなくてはならないことがたくさんありますし、ぶれないのが理想です。

    編者の先生それぞれにこだわりがある中で、常に最初に決めたルールに立ち返りながら、何度も何度も校正を重ね、何年もかけて一冊の形に整えていくのが辞書における“編集”です。

    「角川新字源」の歴史や存在意義も意識します。この辞書は誰のために、どんな目的のために誕生したのか、どうあるべきか。初版の編者も亡くなっているので、そこは常に想像力を働かせるしかありません。

    70年の時を超えて…辞書がつなぐ研究者の情熱

    ――当たり前のように世代を超えていく、時間感覚の長さがすごいです。

    今お願いしている先生は、初版の編者の薫陶を受けた方なので、その意味でもわかりやすく「次世代」ですよね。

    辞書の仕事には、まれにそういうものがあります。時を超えるという意味では「江戸時代語辞典」(2008年)が印象的でした。担当編集者も次々と変わり、僕が入ったときに、70年の時を経てようやく発行に至ったんです。

    ――70年? 一体何が!

    単語の収集が始まったのは戦前。戦時中は防空壕で保管されていたそうです。心血を注いだ初代編者の潁原退蔵先生は亡くなりましたが、その後、娘婿の尾形仂先生が引き継がれることになり、ようやく出版にこぎつけた一冊でした。戦火に巻き込まれ、出版社も転々として、ついに……。

    刊行間際、尾形先生のご自宅に完成した本をお持ちした時、それを手にした先生は、言葉もなくはらはらと涙をこぼされたんです。

    まさか、自分の人生にこんな瞬間があるとは。先代から編纂を受け継ぎ、この一冊に込めた思いを感じました。

    こういう、人生を懸けたドラマのような一瞬が、辞書作りの現場には本当にあるんですよ。時間を超えてたくさんの人の知恵と想いを届けられるのは、この仕事の醍醐味だと思います。

    今の日本人は漢字に詳しい

    ――今この時代に漢和辞典を改訂する意義を、坂倉さんはどう考えていますか?

    活字離れなんて言われますが、今の日本人は数十年前と比べて格段に漢字に詳しいのではないでしょうか。

    先ほども述べたとおり、PCやスマホが普及して、日常的に変換機能を使いますよね。漢字を書けなくても、使ったり読んだりする頻度はすごく増えた。

    例えば、常用漢字に「鬱」が入った時、かなり話題になりました。書けないけど、読めるし意味はわかる。そして、適切に変換できますよね。現代において「一般の社会生活において使うべき目安」の基準は確かにそこにある。

    日本人と漢字と距離が近づいている今、一文字ずつの意味や使い方にあらためて興味を持ってもらえたらという思いはあります。

    現状、世の中の多くの本は、増刷もかからず書店から消えていく運命です。でも辞書は、10年20年――そしてもっと長く、誰かの手に届き続ける。それって本当にすごいことだと、最近あらためて思うんです。

    BuzzFeed JapanNews