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「東北が私の頑張る理由だった」被災地支援の顔だった元AKB48岩田華怜の葛藤

東北のためにとの思いで走り続けたアイドルの思い

震災とアイドル。元AKB48の岩田華怜(18)にとってはイコールで結ばれる。

AKB48が2011年から続ける東日本大震災、被災地支援のチャリティー活動「誰かのために」プロジェクト。唯一の被災者だった岩田は活動の顔として多くのメディアに登場してきた。

震災から6年。

「私にとっては最近の記憶。私を含め、東北の人たちはあの日から時計が止まっている。東京に暮らしていてもその感覚がある。ましてや被災地でなお、復興に勤しんでいる人たちからしたら」

アイドルと被災地のギャップが生んだ葛藤

「人生の分岐点の日」という2011年3月11日。小学6年生だった岩田は宮城県仙台市内のマンションで被災した。

父親の自動車で一夜を過ごし、その後は家族とともに避難所や親類宅に身を寄せた。

震災から3週間後にAKBの研究生オーディションがあった。

こんな状況で受けるべきか迷ったが、母からの「AKBになって故郷に戻れば力になるのでは」との言葉に後押しされ、東京に向かった。結果は合格だった。

慌ただしい中での上京。震災で延期された小学校の卒業式に出ることはなく、友人たちに、さようならも言えなかった。

ふるさとへの思いから進んだアイドルへの道。だが、きらびやかな服、自身に浴びせられる光と被災地のギャップから自己嫌悪に陥った。

ふるさとの人はきっと私の活動をよく思っていないのではないか。そう思って、苦しかった。

怖かった初めての被災地訪問

2011年11月13日、岩田は岩手県の陸前高田市にAKBとして初めて被災地訪問。

「怖かった。ふるさとを捨てたと言われてもおかしくないと思っていたし、みんなにどんな顔で会えばいいのかって」

被災地での最初のステージ。11月の冷たい雨の中、子供たちが傘もささず、ずぶ濡れになりながらAKBの登場を待っていた。

「私たちのその時期の活動をよく思ってない人もいるし、理解されないことももちろんあるけど、目をキラキラさせて、この子たちが待ってくれる。何時間も待ってくれる人が一人でもいる以上は、ここに来続けないといけないなと思った」

陸前高田で見た一本松は今も忘れない景色だ。AKBプロデューサーの秋元康氏からは「AKBの一本松になれ」と言われた。

強く立ってなきゃいけない。そう思った。

復興支援活動への批判

唯一の被災者だった岩田はAKBの中で、復興支援の顔になっていく。

2012年の東日本大震災復興支援チャリティーソング「花は咲く」には歌唱メンバーとして参加。カップリングではソロも歌った。

NHK「カレンの復興カレンダー」ではナビゲーターとして、ニュースで取り上げられない、被災地で暮らす人々の日々を伝えた。

これまで被災地訪問は80回を超える。

AKBとしても被災地を回ったが、震災から3年間は、復興も進んでおらず、ステージを見る人も少なかった。来た人もどこか一歩引いていた。

「歌なんて聞きたくない。夢や希望なんてどうでもいいと思っている人がたくさんいたから。そんな中で、私たちがマイクをもって会いに来ましたって、一方的な優しさの押し売りなんじゃ。被災者である私以上に、被災していないメンバーが何倍も考えていました」

活動に対してネットなどでバッシングを受けることもあった。

「当時はがむしゃらすぎて、何を言われても全然気にならないくらい。そんなことに私が気をとられている場合じゃない。その思いが一番にあった」

「必死すぎて、心の痛みすら、ちゃんと感じようとしていなかったなと今となっては思う。12歳で入って、そういう境遇でよくやっていたなって」

芸能人の活動は被災地を救うのか? その質問に岩田は言葉を選びながら答える。

「活力になる人もいれば、ならない人もいる。別に芸能人に興味のない人もいる。自分たちが信じてその活動を続けるしかない」

一番大きいと考えているのが、ブログなどを通しての有名人の発信力。そして周囲を笑顔にする力だ。

「こんな私ですら、一緒に撮った写真を待ち受けにしてくれる人、サインをずっと飾ってくれるお店もある。私でも喜んでもらえるんだったら。有名人はうれしいなと思う」

震災関連でコメントを求められ、少し暗いイメージもあった岩田だが、元来はお調子者。バラエティー番組で登場するときはうれしかったが、同時に葛藤もあった。

「震災関連で出るのは私。そんな私がクリームを浴びて、ぎゃーとなっているのはどうなんだろうと悩みました」

悩みを救ったのは被災地で会う笑顔だった。

「番組は宮城でも流れていて、見てますという人がめちゃ多くて。仙台から出て行った子が今こんなことしているんだって、笑ってくれたらいいかなって吹っ切れた。『(バラエティー番組で食べた)さそりってどんな味だったんですか』と聞かれて、半面、ちょっと複雑だった(笑)」

自分のことは二の次、三の次。とにかく東北の人に会いに行きたい。何かできることはないか、いつも探していた。前のめりだった。

東北のために頑張ることがつらくなったことはなかったのだろうか。

「なんなら、それが私の頑張る理由だったので。震災もなく、普通にAKBに入っていたら1年持っていなかった。この世界にもいないと思ってます」

どれだけつらいことがあっても、どれだけ辞めたいと思っても、東北のことを考えると頑張れる。

「頑張れる理由があって、守りたい人たちがいて、自分の帰る場所がある。それはすごく幸せなことだと思う。だから故郷のために頑張るのがつらいと思ったことは一度もないです」

5年間在籍したAKBからの卒業

岩田は2016年3月にAKBから卒業した。加入から5年という節目。根拠はないが、自分の中で今という思いがあった。

「自分を過大評価するわけじゃないし、やり残したことはあるけど、自分の青春をすべて、AKB、支援活動に捧げてきた。そろそろ自分のために頑張らなきゃいけないと思えたのかもしれない」

そこまではやりきろうと思っていた5年目の3・11の活動を終え、4日後の3月15日の卒業公演をもってAKBとしての活動を終えた。

公演で、母からのメッセージが代読された。文末にはこうあった。

「親馬鹿ですが、本当に世界一自慢の娘です」

AKBを離れても変わらぬ思い

古巣のAKBは4日、岩手、宮城、福島の被災地を訪問し、復興支援ライブを開いた。同期たちが被災地を訪れている姿を見て、行きたいなと思いがよぎり、少しつらく感じた。

けれど、今は目の前の仕事を頑張り、現地に行っただけで喜んでもらえる女優になりたい。ふるさとで見てもらえる映画や映像でも頑張りたいと考えている。

東北に関わる仕事もしたいという思いも変わらない。

3月に放送されたドキュメンタリー番組「高校生がつなぐ 東北の未来、私たちの夢」ではナレーションも務めた。録音の際、自分よりも年下の子たちが歯を食いしばって頑張る姿に、言葉が詰まった。

新たに見つけた写真という目標

現在の夢は女優だけではない。

ブログやSNSを通して、被災地の今を発信する中、復興の光だけでなく、復興の進んでいない日陰の部分を伝えたいと考えた。

だが、文章では誤解を生むことも少なくない。そんな時、写真ならば、今の東北の光も日陰も映し出せるかもしれないと思った。

「被災した建物をあえて残しているところもある。自分なりの表現でフレームに収め、発信することで、東北へ足を運んでくれる人が増えたらうれしい」

写真経験はゼロ。今は写真を学ぶため、知り合いのカメラマンの手伝いをしている。

「勉強させてくださいと頼みました。いい表情とか撮れるとすごくうれしいですね。東北の風景もそうですけど、現地で頑張っている人たちの写真も撮りたい」

未来へ

12歳からスタートしたAKB、そして復興支援の活動。青春をすべて捧げてきた。

「私は故郷が好きで。故郷の人が好きで。故郷の景色が好き。その景色が一日でも早く元通りになるように頑張ってきた。だからこそ、今の自分がいる」

女優と写真、今は、2つの夢に向かっている。その夢の先には故郷がある。

岩田華怜は今も、東北とともにいる。