原発事故を語る「小さな人間の声」の力とは? ノーベル賞作家が見いだしたこと

スベトラーナ・アレクシエービッチ、彼女は小さな声を聴く。

言葉を失うことがある。例えば、東日本大震災の被災地で、原発事故で人が消えた街でーー。何をどう書いても、目の前で起きていること、人が経験したことを、伝えられているような気がせず、言葉だけが浮いていく。

悲惨なできごとを伝える時、しばしば私たちは公式発表された数字に頼る。歴史の教科書も、まずは客観的な数字から始まる。

津波により何万人が亡くなった、原発事故では避難者が何人いた。だから悲惨なのだ、と印象づけられるように。ひとりの死や喪失感を数字に換えることで、こぼれ落ちる何かがあるにもかかわらず。

11月に来日したスベトラーナ・アレクシエービッチは、「数字」で語られる歴史に抗ってきた。2015年にノーベル文学賞を受賞。旧ソ連に生まれた、ベラルーシの作家だ。戦争、チェルノブイリ、ソ連崩壊……。歴史に残るできごとをテーマに選び、ノンフィクション作品を発表してきた。

手法は一貫している。人々のあいだで語られている言葉を探し、その声を聴く。当事者の小さな声を記録し、作家の声や評価を交えない聴き書きを綴る。

代表作「チェルノブイリの祈り」はこんな声から始まる。それは「孤独な人間の声」と題されている。

リュドミーラ・イグナチェンコ。消防士、故ワシーリイ・イグナチェンコの妻。

「なにをお話すればいいのかわかりません。死について、それとも愛について?それとも、これは同じことなんでしょうか。なんについてでしょう?」

チェルノブイリ原発事故で被曝した夫を見舞う妻の独白は続く。

会話の断片が記憶に残っています。だれかが忠告してくれた。『忘れないでください。あなたの目の前にいるのはご主人でも愛する人でもありません。高濃度に汚染された放射性物体なんですよ。あなた、自殺志願者じゃないんでしょ!冷静におなりなさい!』。私は気がふれたように『彼を愛しているの、愛しているの』とくりかえすばかり。

夫は間もなく、死を迎えた。

「私たちが体験したことや、死については、人々は耳を傾けるのをいやがる。恐ろしいことについては。でも……、私があなたにお話したのは愛について。私がどんなに愛していたか、お話ししたんです」

サマショール(強制避難後、法令を破り、立ち入り禁止区域内にある自分たちの家に自主的に帰還した人たち)、ジナイーダ・エフドキモブナ・コワレンカの声。

「住んでいるのは私とネコだけ。(中略)さびしくなると、ちょっと泣きます。墓地に行くんですよ。(中略)みんなのそばにちょっと腰をおろして、ちょっとため息をつくんです。この世にいる人間とも、いない人間ともおしゃべりはできるよ。ひとりでいるとき、悲しいとき、とても悲しいときには、どちらの声も聞こえるんですよ」

作家は、チェルノブイリ原発事故について、数字に頼るのでもなく、大きな視点で語るのでもなく、死者とともに生きる人、土地で暮らす人たちの声に耳を澄ます。

大きな物語からこぼれ落ちる声を拾う。だから「チェルノブイリ原発事故をテーマにしたノンフィクション」のイメージから、およそかけ離れた「愛」や「死者との対話」が人間の声として、そこに登場する。

アレクシエービッチは著作の中で彼らの声をジャッジせず、優劣をつけることもしない。移住した人、科学者、ジャーナリスト……。チェルノブイリ事故に衝撃を受け、「じっくり」と考えている人たちの声が並べられるだけだ。

多くの声が登場する。それはなぜか。作家自身の言葉に、その答えがある。

真実は一つなのか?

それは、「真実」は一つではない、と彼女が考えているからだ。

「真実とは何かばらばらにたくさんあって多様で世界にばらまかれているということです」(『世界』2016年3月号)

登場する人たちそれぞれに人生があり、彼らは生きながら、原発事故の意味を、その後の人生の意味を語る。

なんだ、ただ聞いたことをそのまま書いているだけではないか。客観性もない、人の声がなんで歴史なのかといった批判もある。アレクシエービッチはそれこそが自分の「文学」なのだ、と記している。デビュー作「戦争は女の顔をしていない」を開く。

「思い出話は歴史ではない、文学ではないと言われる。(中略)しかし、わたしにとっては全てが違っている。まさにそこにこそ、まだ温もりが冷めぬ人間の声に、過去の生々しい再現にこそ、原初の悦びが隠されており、人間の生の癒しがたい悲劇性もむきだしになる」

11月28日、東京外国語大学での講演「とあるユートピアの物語」でもこう語っている。

「生きた人間の声に、現実の生きた反映の中に、私たちがここに存在することの神秘があり、避けがたい人生の悲劇が眠っているのです。泣き声も叫び声も加工してはいけないのです。そうでないと、泣き声や叫び声よりも、加工手段のほうが重要になってしまう」

悲惨なできごとと向き合い、それでもなお、生きる人の声、感情を追い、それを集める。最後の最後で、歴史に耐えうる強さを持っているのは、結局は生活を営む人間の声だとアレクシエービッチは信じているように思える。それこそが、時代を追うことなのだ、と。

「時代を追うこと、それは人間を追うことです。人間とその理念の変化を追うこと。ひとりの話は個人の運命だが、100人の話は歴史になる」(「とあるユートピアの物語」より)

揺るがない哲学を介して、「チェルノブイリ原発事故でX人の消防士が犠牲になった」という情報だけではおよそ伝わらない遠いソ連の歴史的な悲劇は、「そこに生きる人間」の多くの声となって響く。

福島を訪れたアクレシエービッチ

アレクシエービッチは今回の来日で、講演だけでなく原発事故が起きた福島も訪問した。会場の学生から福島訪問の感想を問われたアクレシエービッチはこう語った。

「『チェルノブイリの祈り』に書いたことのすべてを見ました。荒廃しきったいくつもの村、人々に捨てられたいくつもの家を見ました。国というものは、人の命に全責任を負うことはしないのです」

「私が福島で目にしたのは、日本社会に『抵抗』がないのだということです。 人々が団結をして国に対して、自分たちの悲劇を尊敬すべきだという形での『抵抗』が日本の社会にはない。『抵抗の文化』がないのです」

ここだけ切り取れば、「ノーベル賞もとった作家が日本には抵抗の文化がないと言った。その通りだ」という賞賛、あるいは「福島の現実を知らないようだ」といった反論が起こるだろう。事実、ネット上の反応を見ていると、かなり強い反発も起きている。

この言葉は、チェルノブイリ事故を3年取材して聴き書きをまとめる作家が、3度目の来日で1日、2日ほど福島をみて感じた第一印象といったところである。

それより大事なのは、ときとして作品に綴られた言葉は、作家以上に時代へ、雄弁に問いかけるということだ。

彼女の作品から問われているのは、東日本大震災そして原発事故後という歴史を生きている「私たち」に、被災者の言葉、津波の被害にあった人たちの言葉、原発事故で避難した人の言葉、福島に住む人たちの言葉が、ほんとうに聴こえているのか、ということではないか。

表面的な言葉ではなく、「人間の声」として聴いているだろうか。もう言葉は十分に出尽くしたのだろうか。問いは、取材を続ける私にも返ってくる。人の言葉を聴くとは、どういうことなのだろう。

人の言葉を聴くということ

アレクシエービッチはこんなことを言っていた。訥々とした言葉に、彼女の信念を込めるように。

「命、人生、日々について、その人(取材相手)と話をするのです。人のことは全体をとらえないといけない。その人の日々、生活。そっくりそのまま受け止めないといけない。ノーベル文学賞という肩書きも持ち込まず、あくまで人が人と話をするのです」

「人の人生には、文学がまだ思い当たっていないようなことが、とてもたくさんあるのです。その人には信じられないくらい面白い、興味深い問題がある」、と。

バズフィード・ジャパン ニュース記者

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