「男らしさ」が苦しい男たち。なぜ男性は自分の弱さを語れないのか?

    男らしさ、父親らしさに苦しむ男たちは、自分を語る言葉をもっていない。「らしさ」から逃れ、自身の弱さと向き合うために何が必要なのか?

    「男らしさ」が苦しい

    男の生きづらさを語るーー。ひと昔前なら見向きもされなかったような、議論が注目されている。

    卒業、正社員として就職、結婚、育児……。長引くデフレ不況の影響もあってこれまでなら「普通」とされていた生き方はむしろ、恵まれている生き方になってしまった。

    「普通」=これまでの「男らしい」生き方こそ、男を苦しめているのではないか。育児、アルコール、ジェンダー論や当事者研究の積み上げ……。男の弱さを認められない、語る言葉を持たない「生きづらい」男たちと考えたい。

    「男性問題」ってなんだ?

    「男性問題とは男の弱さの問題であり、男の弱さとは自分自身の弱さを認められない弱さ」

    「男だから×××してはいけない」。×××の中に何を思い浮かべるだろう。

    男は泣いてはいけない、弱音を吐いてはいけない、強くなくてはいけない、×歳までに結婚して妻と子供を養わなければいけない、父親として……。

    「男らしい男」を理想とする幻想が、この社会には厳然としてある。理想どおりになれない男たちが抱えこんでしまう問題、これを男性問題と呼ぼう。

    非モテの品格—男にとって「弱さ」とは何か』で男性問題を考察した批評家の杉田俊介さん(42歳)はこう語る。

    「男性問題とは男の弱さの問題であり、男の弱さとは自分自身の弱さを認められない弱さ。ねじれたややこしい弱さなのです」

    子育てで直面した「弱さ」

    「男の弱さ」を考えるために一つのエピソードから入る。杉田さんの子育て体験だ。

    杉田さんは批評家デビュー前から、介護現場、とりわけ障害者介護の現場に身を置いた。同じく介護現場で働く妻と結婚し、息子も生まれた。大変だったのはここからだ。

    子供は超未熟児(超低出生体重児)に近い体重で生まれた。

    批評家としての評価が固まっていくタイミングだったこともあり、共働きの妻がフルタイムで働くことに。杉田さんはパートタイマーとして介護にかかわりながら、家に残り育児と物書き生活の両立を目指すことになった。

    子供は頻繁に高熱を出す。高熱によるけいれんも起こし、半日意識が戻らないこともあった。アレルギー、アトピー、ぜんそく……。つぎからつぎに起きる身体の異変に右往左往する日々が始まった。

    ほどなく、杉田さんは育児ノイローゼになった。

    まず不安で眠れない。「寝ている間にけいれんを起こしたら、なにか起きたら……」。考えれば考えるほど、強まっていく感情は不安ではなく、恐怖と呼ぶほうが適切かもしれないと今は思う。

    すがるように子育て本を読んでも、読んでも、そこに描かれているのは、ダメな男の姿ばかりだ。

    男は育児を手伝わないを前提に、どうすれば男を手伝わせることができるかというノウハウは書かれているが、自分にとって大事なことは書いていない。

    結局、男は役に立たないということかと気落ちした。だからといって弱音を吐いたらどうなるか。

    「父親らしくあらねば」という重圧

    自分の内側から聞こえてくる声はこうだ。

    「家事労働は歴史的に女性に押し付けられてきたものだから、男性がそれくらいやるのは当然ではないか」

    「世の中にはイクメンと呼ばれる人たちがいて、仕事も育児も両立しているではないか」

    自分はもっとしっかりと父親らしくあらねばならない。家庭内で男の役割を果たさないといけない。そう思えば思うほど、気づくのは自分の情けなさであり、いきつくのは役割を果たせない自分の否定だ。

    子供のそばを離れてはいけない、苦しい子供の前で父親として弱音を吐いてはいけない。でも、いくら頑張っても、子供は思いとは裏腹に体調を崩す。杉田さんの心身のバランスも崩れていった。

    ケアされる「弱者」のはずの子供が教えてくれたこと

    直面したのは、決意していたことがまったくなにもできない自分の弱さだ。それを救ってくれたのはケアをしているはずの子供だった。

    高熱にうなされる子供が、添い寝をする杉田さんの頭をそっと撫でた。苦しいはずの子供が差し伸べた手が、弱った父親を慰撫する。

    そうか、と杉田さんは気づく。子供が弱い存在なのではなく、自分こそが弱い存在だったのだ。

    自分は一人では生きられないし、支えることもできない。そして誰かを思い通りにすることはできない。だからこそ、他者とともに生きていく。

    弱さ、強さとはなんだろう。

    いまの男の「弱さ」は、自分は強くなければならないと思い込むところにある。誰かとともに生きていること。上下関係ではなく、一緒にいるということ。そこに気づけないこと、それ自体にあるのではないか。

    杉田さんは子育て経験から、自分の弱さに正面から向き合うことになり、弱い自分の存在を受け入れる道があることに気がつく。

    「男らしくなれない自分から逃れたいと思っているのに、男らしくなれないことにも嫌悪感を感じる。結果的に、どうあっても自分を否定してしまう。『弱さ』を吐露してはいけない、という強迫観念から自己否定を続ける」

    つまり、「男性問題は弱さを語る言葉そのものが、男にはないという問題」なのだ。

    「男性問題」としての自殺問題

    自分たちが何に苦しんでいるのか、言葉にできない。生きづらさを抱えているのに、男の悩みはねじれ続ける。

    男性問題が極端な形であらわれているのが、自殺問題だ。

    自殺予防に取り組んできた精神科医、松本俊彦さんの著書『アルコールとうつ・自殺』にはこうある。

    男女別の自殺死亡率をみると、高いのは男性の死亡率だ(下グラフ参照)。

    国際的にみても、自殺で死亡しているのは男性のほうが多い。その比率は概ね2:1〜3:1だ。これは日本も例外ではない。

    自殺対策としてうつ病対策がとられるが、はたして、それだけで男性の自殺は防げるのか。

    日本で統計をとると、男性と女性では、女性のほうがうつ病になっている割合が高い、というデータがでてくる。

    しかし、と松本さんは注意を促す。臨床経験からいえば、男性は重篤にならないと精神科を受診しない傾向がある。

    受診が遅れる理由は、男性の多くが「男は泣いたらいけない、弱音を吐いたらいけない。強くなければいけない」という文化的、社会的プレッシャーとともに成育してきたからではないか、と問う。

    男は傷ついている自分の心や、心の疲れそのものを否認し、無視することが習性になっている可能性があり、アルコール摂取、つまり酒に逃げることが男性の自殺と結びつくと指摘する。

    人に助けを求められない弱さ

    「悩んでるんだよね」「まぁまぁ一杯飲んで忘れよう」。

    男性社会で普通に繰り交わされる、こんな会話にこそ落とし穴がある。弱さと向き合う前に、お互いの苦労話やグチをかわし、残るのはどうしようもないむなしさだけだったりする。

    アルコールはその場限りの高揚をもたらすが、高揚の先には急激な落ち込みが待っている。

    自己実現の夢を追い求め、働き盛りだと思われていた男が、ある日なんの兆候もなく自殺をする。

    借金苦だといわれる自殺も、よくよく調べれば、冷静に考えることさえできていれば、なんとか対策がとれる額だったりする。そんな自殺は決して珍しくない。

    松本さんが強調するのは、借金そのものよりも大きな問題、つまり彼らに共通する、人に助けを求められない、弱音を吐けないという心性だ。

    本当は問題を抱えているのに、傷ついているのに、ときにアルコールでそんなものは無いと自分の心にふたをする。弱さを否認し続け、結果的に、自分で自分を追い込み、最後は死を選ばざるをえないと思い込んでしまうのだ。

    男は圧倒的に優位だけど……

    杉田さんの話に戻る。

    杉田さんは男性問題には語りにくさがあるという。まず確認しないといけないのは「男」(それも異性愛者の男)は圧倒的にマジョリティ(多数派)であり、既得権益を持っていることを忘れてはいけない、ということだ。

    政治でも経済でも、女性が重要なポストにつくときは大きなニュースになるが、男が同じポストにつくことは「当たり前」であり、騒がれることはない。

    「この社会は男性優位にできています。それは労働市場が変化したからといっても変わらない。これは否定しがたい事実です。女性やLGBTと比べて『男は』つらいというなら、それはアンフェアですよね」

    「(男も)性別役割分業で果たす役割があるから『男こそ』『男も』つらい、と言うなら、これも実は高い下駄を履いていることを自覚していない言葉になる」

    杉田さんの育児と同じ問題がここでも起きる。

    「そもそも有利な立場にいる男がなにをいっているのか」「女性の問題を考えずに、有利な立場にいる側がつらいなんておかしくないか」と投げかけられるだろう。

    既得権を持っているから、多少つらくても、理不尽であっても受け入れるのが当たり前だ。そう思ってしまわないか。

    言いかたのヒントは女性学の影響をうけてはじまった、男性学の蓄積にある。例えば武蔵大の男性学研究者、田中俊之さんの『男がつらいよー絶望の時代の希望の男性学』。

    「僕は(田中さんの著作を踏まえて)『男が』つらいと言うようにしています。女性やLGBT、性的少数者との比較ではなく、この社会で男であることがつらい、という意味を込めています」

    イクメンのつらさ

    「男らしさ」の概念を変えるはずだった、イクメンにだってつらさがある、と杉田さんは続ける。

    「イクメンは、これまでの性別役割分業から半分、降りようという意味合いをもった言葉だと思います。でも、そこで想定されているのは、会社でもちゃんと働いて、きっちり家に帰る。そしてスマートに育児も家事もこなす父親ですよね」

    さらに、ついてまわるイメージはこんな感じだ。休日には野球やサッカーを子供と楽しんで、常に笑顔を欠かさない。これはこれで、一つの「男らしさ」だ。

    「だから、あくまで半分なんです。半分はこれまでの男らしさを降りているけど、弱音を吐けないという本当の問題をどこか捉えてない言葉になっているように思います」

    この先にいく思考はどこにあるのだろう。

    「弱さ」を語ってきた当事者研究

    杉田さんは障害者や依存症患者が積み上げてきた当事者研究の知見を参照する。

    障害を持つ当事者が、自分の障害を自分で語り合い、困難を解決していく当事者研究がたどり着いた地点を端的にあらわした言葉がある。

    脳性まひの医師、熊谷晋一郎さんは以前、私の取材にこんなふうに語っていた。

    当事者研究を通して、わかったことは、人は一人一人に弱さがある、弱さをシェアしてつながれるし、依存できるということです。依存先が少なければ、少ないほど生きづらい。これは多くの人がそうではないですか?(【相模原19人刺殺】それでも、他者とつながり生きる。脳性まひの医師の思い

    「男には弱さをシェアする場、語り合う場がないんです」と杉田さんは続ける。

    飲み会は、ほぼ単なる愚痴の場。男性社会のなかで、うっかり弱さをみせてバカにされたり、低くみられたりするのは致命的だ。こうした思いをもっている男は少なくないだろう。

    「受け入れられないと、妙な被害者意識をこじらせる。結果、自分が被害者だと思い込んで、他者に対して攻撃的にもなる。僕自身にもこうした心性がないとはいいません。どこか、体感的にわかるんですよね」

    語り合う場もないのに、被害者感情を爆発させる場だけはある。

    インターネット上に、そこを媒介して路上に。こじらせた男性問題を放置することは、他者への攻撃感情を募らせている「この社会」の問題を放置することと同じ意味になる。

    「他者に対して攻撃的になるのも、結局は自己否定であり、自己嫌悪なんですよね」

    「弱さってそれを否定するのでもなく、『弱さを認めることで本当の強さを獲得できる』といった自己啓発的な開き直りでもなく、付き合っていくものだろうって思うんです」

    「弱さ」と付き合う言葉はどこに?

    弱さを抱えて葛藤しながら、自己否定でも、嫌悪でも、受容でもない状態でいること。他者とのつながりのなかで、弱さを肯定できること。

    結局、残るのは言葉の問題だ。「それ」をなんと呼んだらいいのだろう。

    男らしさから逃れようとしたところで、次のカテゴリーにいく言葉がない。草食系男子でもイクメンでもない言葉。押しつけられる「××らしさ」から抜け出す言葉はどこにあるのだろう。

    言葉を探しながら、次を模索したい。

    「僕にもうまく名付けることができないんですけどね、熟成とか遊びって呼びたいなぁと思っています。弱さを自分のなかで熟成させる。こじらせずに味わい深く熟成させながら向き合う」

    「遊び」といっても、いわゆる「遊び人」とは違う。

    「遊びって余白やゆとりがある状態にも使いますよね。心に遊びの部分をもっておくとか、そういう意味合いにすりかえて使ってみたい」

    もっと緩やかに弱さを自覚して、ひとりで生きない男、依存先がたくさんある男……。「らしさ」から逃れる言葉がないから、極端な行動に走るリスクをひとりで抱えこんでしまう男たち。

    あればだいぶ楽になるであろう、男らしさから逃げたい「僕たち」を指す言葉はまだ見つかっていない。