「右にどんどん行ってみろ。やがて左側に来ているのさ。地球は丸いからね」忌野清志郎が残したロックな名著を読む

    「瀕死の双六問屋」。芥川賞作家は激賞し、直木賞作家はその才能に嫉妬を隠さない。

    双六問屋に行ったことがあるか?

    稀代のロッカー、忌野清志郎が亡くなったのは2009年5月2日だった。その清志郎が、芥川賞作家に激賞され、直木賞作家に嫉妬されるトンデモない名著を残していることを知っているだろうか。

    タイトルを「瀕死の双六問屋」という。

    1998年から2001年にかけて「TV Bros.」の小さなコーナーで連載していたものをまとめた一冊で、曰く、ゴーストライターも立てず「俺が唯一というくらいまじめに自分で書いたもの」。

    その文章を一言であらわすのは難しい。各話ごとエッセイっぽい回もあるし、小説っぽく物語を展開する回もある。

    角田光代さん「その特異な手腕には、ちょっと嫉妬を覚えるほどだ」

    「双六問屋に行ったことがあるか?そこはみごとな世界だった」。

    ”名著”の第一話はこんな書き出しから始まる。

    双六問屋がなにかはよくわからないけど、そこは履歴書も学歴も職歴も関係ない世界であることが明かされる。とりあえず、理想郷らしい。

    そこに住んでいるらしい男がいきなり語り手として登場するのだが、連載の次の回では語り手が変わっている。

    ケンとメリーなるカップルが突如出てきてフジロックに行こうとするし、時事ネタも満載だし、いきなり社会に対して怒りはじめるし……。

    筋道はなく、言葉はわーっとページからあふれ出すように広がり、時々、世の中を批判したり、何回か前の話の続きをはじめたりする。

    語り手は、決められた枠のなかで言葉をどれだけ自由に転がすことができるのか挑戦しているようにも読める。

    『八日目の蝉』などで知られる直木賞作家、角田光代さんは文庫版のあとがきにこう書く。

    この人の言葉というのは本当に、この人にしか書けない言葉で、これらの一行ですら世界観を作るその特異な手腕には、ちょっと嫉妬を覚えるほどだ。

    「未来のことなら笑いながら話せる。だって夢のようなことを実現できると思うから」

    角田さんも指摘するように、著者はどうでもいい話を繰り返しているようで、いきなり一行で鋭いことを言いはじめる。

    いくつか抜き出してみよう。

    「(双六問屋の世界では)みんなが自分の本当の仕事を持っているのだ。だから当然流行に流されて右往左往してる者もいない」(第一話)

    「本当に必要なものだけが荷物だ」(第十五話)

    第十五話で「本当に〜」を二度繰り返している。語り手は、そこに何か深い意味があるという。まるでブルースの一節のようだ、と。

    語り手にとってブルースは20世紀に流行したあらゆる音楽の基本にあるものだ。

    だから「君が日常において何をしようと自由だ。でもブルースを忘れないで欲しいんだ」(第三十話)と語る。

    「俺は右でも左でもかまわないんだ。そんなことどーでもいいんだ。右にどんどん行ってみろ。やがて左側に来ているのさ。地球は丸いからね」(第二十三話)

    「昔のことなら笑いながら話せる。だって本当に楽しいことばかりだったから。未来のことなら笑いながら話せる。だって夢のようなことを実現できると思うから」

    「でも今の気持ちを聞かれたら、僕はつまらないことしか言えない。ずっとそうだった。現実に関してはつまらないことしか言えない。何も想い通りにいかない」(いずれも第二十四話)

    語り手は、自分が現実に対して「つまらない」ことしか言えないと認めている。そんな自分が何か現実の社会問題に対してものを言う。それ自体にどこか葛藤を抱えているのだろうか。

    まるで歌みたいじゃないか

    各話とも掌編小説のようでもあり、エッセイのようでもあり、その中にある一行が生み出す世界は詩であり、そのすべてを併せ持つような不思議な言葉の世界が双六問屋にはある。

    それは、何か良いことを言いたいという思いとはまったく違う。自分の言葉で世界を語るという、当たり前のようで実は難しいことに挑戦している。

    各話の締めで、語り手は「しばらくは君の近くにいるはずだ」といった具合に「君」に向けたメッセージを残していく。多くの言葉は、気持ちをわかってほしい「君」に届けられる。

    清志郎の歌のなかで、よく登場するのが主人公が「君」に語りかけるというパターンだ。双六問屋で提示される世界観は、2009年にどこか遠くへ旅立っていった彼の歌とまったく同じ構造である。

    パンクロッカーで、芥川賞作家の町田康さんは双六問屋の言葉が持つ凄みをこう解説する。

    どうです? この文章。まるで歌じゃないですか。(中略)歌が、音楽が文章という形を取ればこうした明らかな筋道がないにもかかわらず、人の心に響く形になると私はいってるのです。

    虚実がない交ぜになるその様は、歌手としての経験、すなわち、曲の中に登場する人物の感情や曲そのものの情感を声で表現してきた著者ならではのものといえ、当人にとっては当たり前のことかも知れぬが、こういうことは通常、文章だけ書いている者は絶対にできない離れ業である。(文庫版解説より)

    双六問屋は古びない。「瀕死状態で吐かれた言葉こそが、イエイ、切実なのである」

    この本には戦争や平和、政治について、一見すると教条的な言葉も並んでいる。しかし、と町田さんは続ける。

    しかしいろんな意味で間違えてはいけない。これは忌野清志郎の祈りであり切実な告白だ。彼は瀕死だ。でも瀕死状態で吐かれた言葉こそが、イエイ、切実なのである。(文庫版解説より)

    単なる時事ネタや社会批判なら、言葉はすぐに古びてしまう。かといって、必死に叫べば良いというものでもない。

    双六問屋の叫びは、上っ面な社会批判の言葉より、もっと深いところからでてきているから古びていない。根っこにあるのは、わかってもらえないかもしれないけれど、「君」に言葉を持って語りたいという切実さだ。

    「小説は情景を見せるが、詩は光景を見せる」(角田光代さん)。小説は場面を描くことで、人に何かを感じさせる。詩は言葉を通じて、なにか景色を見せてくれる。

    手法は一貫していないが、根底は一貫している。語り手は言葉を通じて自分に見えている理想郷をあの手、この手で読んだ人にも見せようとしている。

    だから「瀕死の双六問屋」は清志郎のことを何にも知らなくても、2017年でもおもしろく読める。

    とにもかくにも、そんな心の叫びをイエイ、きょうは読み返したいのである。