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「いずれ自分の言葉で福島を語らなければならない」 高校生に、科学者が託した思い

科学者・早野龍五さんが「東電のドアを叩き続けて」廃炉を見届ける若い世代に託したもの。なぜ高校生とともに福島第一原発を視察したのか?

早野さんが若い世代に託す理由

1月9日公開の前編に続いて、科学者・早野龍五さん(65歳)の聞き書きを公開する。東京大学教授にして、福島第一原発事故後、その言動がもっとも注目された科学者の1人が早野さんだ。

事故直後、あらゆる憶測、流言、デマがインターネット上を飛び交った。その中にあって、早野さんは「事実」を分析し、ツイッターで発信を続けてきた。

後編は給食まるごと検査の役割から、高校生とともに福島第1原発を訪れた理由まで。若い世代に託した思いを語る。


「科学的に合理的なことが、社会的には合理的ではない。こんなことは現場に山ほどあるわけです」

いま、流通している福島県産の食材を避ける理由は科学的にはまったくない。しかし、どんなに微量であっても、事故前には存在していなかったはずの放射性物質を食べたくない、放射線を浴びたくないという人たちの気持ちもよくわかります。

内部被曝の問題は、リスクと生活の兼ね合いというのをもう考えてもいい時期に入っていると思います。大事なのは、バランスです。

例えば、個人的には、放射線量が高い傾向にある山菜だって、食べても構わないと思うんです。出荷制限がかかっているので当然、出荷はダメだけど、個人でとってきて、責任をもって食べるならいいんじゃないかと。

(※前編参照「出荷制限がかかるような食品を食べたからといって、実は心配されるような線量には達していないんです。これが重要なことです」)

住民の方と話していると、山菜を食べることで得られる生活の充足感ってすごくあるんですよね。

飯館村のある区長さんから、食べてもいいのか、と聞かれたから「山菜を食べることは積極的には勧めないけど、自分の生活で山菜を食べることが大事なんだという人を止めることはしない」と答えました。そしたら、「そんな大事なことはもっと早くいってくれ」と叱られたんです。

「科学的に正しいから、でみんなが納得するとは限らないんですよね」

震災からもうすぐ6年ですね。事故後初期には必要な警戒だったけど、役割を終えたものもたくさんあると思います。

個人的には、僕自身が提言したことなので、なかなか言いづらいことではあるのですが、給食のまるごと検査(実際に児童が食べる給食の放射性物質を1食分丸ごと測るという取り組みです)も、もう役割を終えてもいいと思っています。

2016年4月から、最初期に給食まるごと検査を導入した神奈川県横須賀市がやめました。決断に敬意を払いたいと思います。日常に戻れると判断したら、戻っていいんですよ。

福島市は給食に地元産の米を使っていますが、常に検出限界値以下です。1ベクレル未満の食事が食べたいなら、福島市で給食を食べるのが一番いい。そう言えるくらい、データが集まっている。

用心することは重要だというなら、両論併記が大事だというなら、こうしたデータも両論併記で伝えるべきだと思うのですが、こういうことを書かないメディアもたくさんあるんです……。

どういう条件が整ったら、やめるか。もうオープンな議論を始めてもいいころでしょう。そこで行政がいきなり決定するのはではなく、議論を通じて、みんなが納得できる落とし所を探ること。大事なのはコミュニケーションそのものです。

科学的に合理的なことが、社会的には合理的ではない。こんなことは現場に山ほどあるわけです。

例えば除染。必要な家と必要じゃない家をわけることは科学的には可能ですよ。でも、必要な家だけ優先したらどうなるか。あそこは線量が高い家だ、となってコミュニティを分断するんですよ。それはやっちゃいけないんです。

科学的に正しいから、でみんなが納得するとは限らないんですよね。

「現場の彼らを知らなかったら、僕は東京にいて自分の研究室で、これいいアイデアだなぁと思って突っ走って、実現させようとして、失敗していたと思う」

そんな話を僕が考えるようになったのは、地域住民の方々とお話をしたり、現場の先生方と議論を重ねたり、なによりツイートを読むことが大きかった。特に心配だという人、放射能が怖いという人のツイートですね。

中には僕への批判もありますが、かなり時間をかけて今でも読むようにしています。ツイッターで情報を発信するだけでなく、何を不安に思っているのかを感じたいんですよね。

10年前、50代半ばの早野ならこんなことは思わないでしょう。科学的なデータだけを突きつければいいと考えたと思う。

でも2011年以降は、失敗をしながらコミュニケーションについて考え、学んできました。言わなきゃよかったというツイートなんて山ほどあるしね。

現場にいる坪倉正治さん(医師、南相馬市などで診療活動を続けている)や福島県立医大の宮崎真さんといった医師の人たちとコミュニケーションをとらなかったら、失敗はもっと多かったんだろうなぁと思います。

僕はなにか言うからには行動が大事だと思っているんです。これは前から変わらない。他人がやらないことで、自分ができるなら、僕がやるしかない。

でも、現場の彼らを知らなかったら、僕は東京にいて自分の研究室で、これいいアイディアだなぁと思って突っ走って、実現させようとして、失敗していたと思う。変なツイートで現場を混乱させることもあったでしょう。

今でもその危険性はありますが、何かを発言するときにすぐ思い浮かべるのは、現場の人たちです。現場で頑張っている人たちが困るかどうかを一つの判断基準にして、まずは彼らの顔を思い浮かべて考えるんです。

そして、やっぱり高校生ですよね。彼らの未来にとってどうかというのも一つの基準です。高校生と出会わなかったら、こんなに教育が大事だと思うこともなかったでしょう。面白いことに、年を重ねていけばいくほど、若い人と接する時間が増えてきたんですよ。

「そこで大事なのは、ドアを叩き続けることです。ドアは叩き続ければいつかは開く」

さてここで、僕がなぜ、福島第一原発に福島高校の生徒たちを連れて行ったのかという話もしておきましょう(※日経新聞によると、生徒たちの被曝量は全員が0.01ミリシーベルト以下)。

絶対に確認しておかないといけないのは、廃炉をブラックボックスにしてはいけないということです。

次に、誰が廃炉を最後まで担うのかということ。それは僕たちの世代ではないし、現役の東京電力の幹部でもないということです。

見届けるのは、いまの高校生たちの世代です。僕になにができるのかを考えたとき、一番大事なのは、彼らが自分たちの言葉で福島を語れるようになることです。それには、廃炉も含まれます。

もちろん、なにをどうやっても連れて行くことに批判が出ることは想定していました。まず、メディアも連れて行ったことですね。

メディアを連れて行くことは、絶対に必要だったと思っています。それは、いまも変わりません。仮にひっそりと行ったらどうなるか。いずれ、表にでて今度は「なぜこっそりと行ったのか」「ブラックボックスだ」と福島高校や生徒も含めて批判されることが目に見えています。

当然ながら、こうした動きは必ず表にでます。そのリスクと比較して、メディアを同行させたほうがいい、というのが僕の判断です。クローズドよりも、オープンにしておいたほうがいいということです。

福島高校の生徒たちは、遅かれ早かれ、自分の言葉で福島を説明しなければいけなくなる。それならば、ここで勉強しておくことは決して無駄にはならない。

東電の意見を代弁する存在ではなく、彼らは自分の言葉で語らないといけない。メディアをいれたときに一番気をつけたのは、彼らが東電を「代弁」しているかのように切り取られることでした。

不本意な取り上げられ方もなかったとはいいません。しかし、それがあったとしてもなお、僕はメディアとともに行ってよかったと思います。

地元の人にも簡単には認められない廃炉の現場に高校生が入れたのは、僕が東大教授だからだとか、ツイッター上で影響力があるからだ、ともいわれました。

それはあるでしょう。だからこそ、そこで大事なのは、ドアを叩き続けることでした。ドアは叩き続ければいつかは開く、ということを示したかった。

「ともすれば、東電はすぐに閉じようとする。見えなくなることのデメリットのほうが大きい」

見学を認めるか、認めないかは東電の一存です。そもそも、手続きやルールだってどこまで明確に定まっているのかどうか、わからないままなんです。

だから、僕は東電のドアを叩いたんだと思っています。ドアはもう開いたんです。

今後、もし他の高校から申請があったらどうするのか。県内の高校から依頼があったらどうするのか、東電は答える義務がある。廃炉作業は壁の向こう側の話にしてはいけないのです。

ともすれば、東電はすぐに閉じようとする。見えなくなることのデメリットのほうが大きい、ということは何度でも強調したいと思います。

「学術的に福島に貢献できる最後の論文」

研究者だし、最後まで、誰もやったことのないことをやりたい、とは思っています。ですが、もう僕に残された時間はそんなに多くありません。2017年で東京大学も定年です。

もう次にバトンを渡すことを考えないといけません。

伊達市のガラスバッジ(個人線量計)のデータ、内部被曝検査の解析をしました。これが、僕が学術的に福島に貢献できる最後の論文になるでしょう。

伊達市は全村避難した飯館村に隣接した地域です。福島市の中で比較的、線量が高いところとも接しています。そこに住み続けて普通の生活をした人たちがいるのです。

関わるようになったきっかけは、2014年10月17日の夜、パリで開かれたセミナーでした。宮崎さんが、伊達市の市長に、市のデータを僕に預けて分析をしてもらおうと提案してくれました。伊達市とは、除染に関わった職員とよく話をしていて、信頼関係も築けていた。

彼らの後押しもあり、市から持っているデータの分析を正式に依頼されました。行政が持っているデータをもとに、学術論文を書くなんてことは普通はありえません。これもつながりです。

僕にとっては、最後にして、とても思い入れのある論文になりました。

いま論文の投稿は完了しました。わかった結果だけ、説明しておきましょう。いままで空間線量をベースに住民の外部被曝を試算していました。ところが実測すると、平均で3倍〜4倍、試算が過剰評価になると言えるようになったんです。

つまり、実際に住民が被曝している量は、空間線量から試算するよりもぐっと低くなる。住宅の中にいたり、会社にいったり、働いたり……。人間は移動し、同じ場所にじっとしていないからです。

これから住民帰還を目指す自治体は、伊達市の実測データをベースに十分、合理的な推測をもとに政策を組み立てることが可能になる。とても重要なデータになると思います。

「事故から5年は乗り切ることができました。でも、それだけでは足りないんです」

少し振り返ると、結局、いままでやってきたことは全部、属人的なものなんですよね。たまたま、適任な誰かがそこにいて、つながりができた。それぞれが重要な役割を担ってくれて、事故から5年は乗り切ることができました。

でも、それだけでは足りないんです。次を考えないといけない。

測ること、伝えること、被曝について……。最初は、僕でないとできないことがあったと思います。でも、いまはそんなことはもうないでしょう。僕でなくても、できる人はずいぶんと多くなりました。

そう考えるとね、なるべく若い人に託したいと思うんです。高校生との時間がなかったら、僕はこんなに福島に関わることもなかった。何度も繰り返しますが、目標は「自分たちの言葉で福島を語ること」。だから、彼らに託せるものは、託したい。いまはそう思っています。

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