障害者は“笑い”でしか描けないのか? 注目のNHK障害者バラエティ 義足の女優の問いかけ

    12月21日、NHKの障害者バラエティ「バリバラ」から生まれた特番が放映される。この夏の24時間テレビに続いて、障害者の描き方が注目を集めている。

    12月21日、バリバラ「ココがズレてる健常者 障害者100人がモノ申す」が放送される。

    2016年は障害者の描き方が話題になった年だった。中心にいたのは、NHKの障害者をテーマにしたバラエティ番組「バリバラ」だ。

    8月に「検証!『障害者×感動』の方程式」と題し、感動的な障害者の描き方が多く見られる「24時間テレビ」の裏に放送をぶつけた

    24時間テレビの「愛は地球を救う」に対し、バリバラは「笑いは地球を救う」。老舗を意識した放送内容に、ネットは盛り上がった。その多くはバリバラ的なバラエティ路線がいいもので、感動的な描き方は良くないという声だった。

    今回放送される「ここがズレてる健常者 障害者100人がモノ申す」は、この放送から生まれた企画だ。

    放送作家の鈴木おさむさんが番組内で提案したもので、障害者100人をスタジオに集め、生活の中で直面する様々な不満や疑問を健常者にぶつけていく。

    健常者は千原ジュニアさんやカンニング竹山さん、中川翔子さんなどの芸人やタレントたち。

    健常者たちの回答、対応を障害者が採点し、最後に「MZK(もっともズレている健常者)」を決定する。

    BuzzFeed Newsは、収録のもようを取材した。

    収録では、障害者がパネルに「健常者に対する違和感」を書き出し、健常者に意見をぶつけた。

    「こっちが悪いのに相手が先に謝る」

    「本を読んでいるだけで『偉いですね!』と褒められる(視覚障害者)」

    「買い物をしているだけで、物をもらう」

    不満、疑問が出され、健常者とのディスカッションが行われる。

    ドッキリ企画のVTRも流れた。「カフェの店員が障害者だったら、健常者はどうするのか?」と隠しカメラでモニタリングするもの(※収録内容と放送内容は変更の可能性あり)。

    スタジオには笑いが溢れ、収録は終わった。

    障害者の描き方、正解はひとつ?

    障害者の描き方を巡る、2016年の論争でなにか見落としている点はないのか。

    この夏に引き続き、バリバラ、24時間テレビに出演した経験を持つ、女優にしてダンサーの森田かずよさん(39)に取材した。

    森田さんは大阪を拠点に活動。先天性の身体障害があり、ある時は義足で、ある時は車椅子に乗って、舞台に立つ。自分の身体と向き合い、表現活動を続けている。

    森田さんは、バリバラのような障害者が出演するバラエティ路線を「新しいタイプの障害者運動」と話す。確かに「笑い」というクッションをいれて当事者の声を紹介するスタイルは、これまでの、頑張っている障害者を紹介する「感動」路線とは一線を画した新しさがある。

    「地方で障害を抱えて生きている人たちとお話をすると、『(バリバラのなかで)ああ自分の気持ちをやっと言ってくれた』という声を聞くことがあります」

    「障害者」「健常者」という構図への違和感

    それでも森田さんは障害者の描き方には、いちばん重要な視点がまだ足りない、と考えている。それは何か?

    「『障害者』と『健常者』という構図、カテゴライズそのものに違和感があります。障害者、といってもお互いの障害のことを理解することはできないと思います。車椅子や義足といった身体障害、視覚や聴覚、それに発達障害や精神障害……」

    「それぞれまったく異なる障害です。個人によって程度も違う。『障害者』という人がいるのではなく、ひとりひとり、まったく違う人がそこにいるのです」

    森田さんは取材中に何度も、自身が障害を持つ当事者というだけで、他の障害者を理解することはできない、と繰り返した。

    「障害者」という人はいない。サポートの仕方だって違う

    ひとりひとりが違う個人として生きている。しかし、その当たり前のことがなかなか伝わらない。森田さんは劇場を例にあげながら、こんな事例を話してくれた。

    「例えば劇場で障害者に適切なサポートをしましょう、と。このときの障害者って誰でしょう。盲導犬と生活している視覚障害者の方に最前列の席を用意したとします。盲導犬のスペースもあるし、見えやすいからですね」

    「ここに車椅子ユーザーがいたらどうですか?彼らにもスペースは必要ですが前方は埋まっているので、後方の席を用意することになります。車椅子ユーザーから、本当は前で見たかったという不満がでるかもしれません」

    良かれと思った配慮が、別の障害者にとっては不満の種になりかねない。もっと日常的な問題もある。

    点字ブロックで考える

    「点字ブロックだって視覚障害者には必要だけど、車椅子ユーザーには道にでこぼこができて不便なものです。障害者のサポートひとつ取っても、個々人の利害がぶつかりあうこともあります。障害者だから、すべての障害者のことを知っていたり、気持ちがわかったりするわけではない。そこで必要なのはいい意味での妥協です」

    「みんなを個人としてみることで、なぜ配慮が必要なのかを考える。大事なのは、私以外の他者とどう共存するかを考えることです。個々人の違いを知ろうとすることで、見えてくることがあります」

    「点字ブロックだって、劇場の配慮だって、ある人にとっては重要なのだと知れば、私にとっては不便でも許容できる。合理的な配慮だとわかるのです」

    「障害者」とカテゴライズするだけでは、みえてこない視点がある。メディアの描き方は、まだ「障害者」というカテゴリーを中心にクローズアップしているし、取り上げ方によっては弊害もあると森田さんは考えている。

    「4年後を見据えてパラリンピックの報道もかなり増えました。しかし、取り上げ方は『障害を乗り越えて〜〜』といったものが多いように思います。彼らはアスリートです。果たして、これで障害への向き合い方は人それぞれ違うということまで想像してもらえるのでしょうか?」

    「取り上げ方ひとつで、障害者といえばパラリンピアン、みたいなイメージができあがってしまう。アスリートが全体を代表するかのように取り上げられる。これはおかしいですよね」

    「障害者が映画に映らないのは当然だ」という声

    以前のインタビューで「これだけ多くの障害者が社会で生活しているのに、映画やドラマのエキストラではでてこない。これではリアルな社会が描けない」と語っていた森田さんに、こんな反論が寄せられた。

    「映画で映らないのは当然のことだ。なぜなら画面に車椅子に乗った障害者が映ると、そこに目が奪われるからだ。群衆に混ざるのには適さない」

    森田さんはこう思う。

    「この意見には一理あります。確かに目についたら、群衆役の意味はないでしょう。しかし、同時に一理しかない。こうした意見に賛同する人は、普段から車椅子をつかった障害者がそこかしこにいるのを見ていないのでしょう。だから見慣れないものに目が奪われる、という主張になるんです」

    学校の教室や街中で、なにか障害を抱えた人たちは普通に存在しているのに、日常的にメディアからはいないことにされている。例えば、リアルな社会を描いた映画やドラマでもほとんど登場しない。そのほうが、ファンタジーなのに。

    逆に取り上げられるのは、テレビなどで根強く残る「感動」路線やネットで支持される「笑い」など特殊な文脈がほとんどだ。日常のなかでどう描くのか。議論はなかなか前に進まない。

    「『障害者』だから、ではなく個人として登場したり、学園映画などで当たり前のように学校に何人かいたり……。そんなことが普通になる社会になったらいいと、私は思うのです」