【相模原事件】障害者襲った大量殺人 現代社会の写し鏡ではないと否定できるのか

    「本当は、障害のない人たちも、こうした社会を生きづらく、不安に感じているのではないでしょうか」

    相模原市の障害者施設で起きた殺傷事件。「障害者は無価値」と存在を否定する容疑者の言動は社会に衝撃を与えた。なぜこんな考えが生まれるのか? 社会はこれをどう克服したらいいのか? 全盲と全ろうの重複障害がある東京大の福島智教授にメールでインタビューした。

    福島さんは小学生で全盲になり、高校生のときに聴覚も失った。東京大学先端科学技術研究センターで教授を務め、バリアフリーについて研究している。

    ——植松聖容疑者は園職員に「重度障害者は生きていても仕方がないので、安楽死させた方が良い」と話し、衆院議長宛ての手紙に「障害者は不幸を作ることしかできません」と書いたと報じられています。この考えの根本的な問題を教えてください。

    問題点が三つあると思います。まず、この世界に「生きていてもしかたがない」ような人間は、誰一人いません。

    次に「安楽死」という言葉を間違った意味で使っています。安楽死とは「助かる見込みのない病人を、本人の希望に従って、苦痛の少ない方法で人為的に死なせること」(広辞苑)という意味です。

    しかし、重度障害者は「助かる見込みのない病人」ではありません。適切な手助けがあれば、元気に生き続けられる人たちです。したがって、容疑者が使っている「安楽死させる」という言葉は、実際は「殺す」という意味です。

    最後に「不幸をつくる」という表現は、無意味で誤った表現です。なぜなら「幸福」や「不幸」は、机や椅子といった形のある物体のように「作る」ことや「壊す」ことはできないものだからです。

    それらは一人ひとりの人間が心の中で感じ取るものです。同じ環境や出来事に対しても「不幸と感じる人」「幸福と感じる人」「幸不幸を感じない人」など様々でしょう。

    そう考えれば「障害者は不幸を作ることしかできない」という断定的な表現は、そもそも文章として意味をなさないことが分かります。

    ——福島さんは事件について、憎悪犯罪(ヘイトクライム)と優生思想が絡み合っていると解説されています。どういう意味ですか。

    憎悪犯罪とは、民族や肌の色、信仰する宗教の違いなどによる差別を理由とする犯罪のことです。LGBTなど比較的少数派のセクシュアリティ(性的指向性)を持つ人たちが対象にされることもあります。今回の事件は「障害」という属性(性質)を持った人たちが憎悪の対象になったと思います。

    優生思想とは、人類の「悪質な遺伝」を淘汰し、「優良な遺伝」を保存することを目指す考え方で、人間の命に優劣をつける思想です。

    ここでの「優劣」の基準ははっきり決まっているわけではありません。特定の民族が「劣っている」とされたり、ある種の病気や障害のある人が「劣っている」とされたりします。優生思想の恐ろしいところは、それが現実の政治や政策に影響を与える危険性のある思想だという点です。

    ナチス・ドイツは第二次世界大戦中、優生思想に基づき、ユダヤ人をおよそ600万人虐殺しました。そして「生きるに値しない生命」として、知的障害者や精神障害者などをおよそ20万人抹殺しました。

    しかし、これはナチスだけの問題ではありません。優生思想は第二次大戦後も世界各国で生き延びてきました。例えば、日本では1948年制定の「優生保護法」が代表的です。一部の障害者やハンセン病患者などが子供を作れないように、強制的に手術をされました。1996年に「母体保護法」に改正されましたが、優生思想的側面が完全になくなったとは言えません。

    また現在も「出生前診断」で胎児に障害があると判明した場合、堕胎手術を受ける例は少なくないと言われます。つまり、優生思想は今の社会にも根深く存在しています。

    ——19人が殺害された事件。これは二重の殺人だとも説明されています。肉体を殺す「生物的殺人」と、人間の尊厳を否定する「実存的殺人」だと。どういう意味ですか?

    「生物学的殺人」と呼んだのは、一般的な意味での殺人のことです。つまり、人の肉体的な命を奪う行為ということです。

    「実存的殺人」と呼んだのは、重度の障害を持つ人の、人間としての尊厳や生きている意味そのものが否定されたということです。

    容疑者は障害の重い人たちを優先的に襲ったとみられています。つまり、容疑者にとって殺害の対象は「重度障害者」という「属性」を持った人間なら、誰でもよかったのです。

    つまり、彼にとって「重度の障害者」は生きる価値がないという意味で、「誰でも同じ」だったわけです。

    しかし、障害があってもなくても、「同じ」人間などいるはずがありません。19人の重度障害の人たちには、19通りの人生があり、家族があり、それぞれ好き嫌いがあり、異なる具体的な体験があるはずです。

    それらがすべて無視され、重度障害者なのだからそもそも生きる意味がない、生きる資格がない、と決めつけられたことを「実存的殺人」という言葉で表現しました。

    ——なぜ、こういう考えを持つ人間が生まれるのでしょうか?

    容疑者は衆議院議長にあてた手紙で、重度障害者を抹殺する理由の一つとして「世界経済の活性化」という言葉を使っています。つまり、重度障害者の存在は、経済活動の活発化や経済成長にとってマイナスになる、だから抹殺するのだ、というのが犯行の動機と思えます。

    これは何にもまして——ときには人間の命よりも——経済的な価値を優先させる、という考え方です。こうした考え方が育った背景には、今の日本社会の中に、経済活動を何よりも優先させるという風潮があることが関係しているのではないかと思います。

    つまり、品物やサービスを生産する労働力や生産効率で、人間の価値の「優劣」を決めてしまうという風潮です。

    こうした風潮は、学校教育にも「逆流」するでしょう。学校では、直接的に労働力や生産能力が問題になる代わりに、成績や偏差値の高低が生徒や学生の優劣を決めてしまいます。

    成績や偏差値が非常に低い子供たちは、まるで存在価値がないかのように扱われたり、自分でもそう思ったりしてしまう。そうした傾向はないでしょうか。

    こうした社会や学校での風潮や傾向が容疑者の考え方に何らかの影響を与えたのではないかと思います。

    ——私たちはどうしたらいいのでしょうか。学校や社会で、どんな議論を進めるべきでしょうか?

    人が人に抱く「差別意識」とは何かについて、「障害」を念頭において真剣に議論することが大切だと思います。

    そもそも、障害者に対する差別の問題は、他の差別問題とは異なる面があると思います。

    例えば、人種の違いによって生じる差別意識は、肌の色や骨格や容貌の違いなどによって引き起こされる、なんら本質的な根拠のない「上辺にとらわれた」差別です。

    女性差別も、一定の肉体的な条件の違いはあるものの、現代社会で最も重視される能力である知的能力においては、男女間に何の差もないため、やはり本質的な根拠はありません。

    したがって、これらの差別は、少なくとも理論的には、いずれ克服可能な差別だと思われます。

    一方、重度の障害者への差別とは、現代社会に要求される生産能力(知的能力)の低さに対する差別です。

    現代社会で要求される生産能力は、記憶力・情報処理力・コミュニケーション力などに代表される、知的諸能力に基礎を置いています。

    こう考えると、私たちの中に、重度の障害者への差別は「差別ではない。当然の区別だ」と考える意識が生まれるのではないでしょうか。

    しかし、大切なのはここからです。こうした障害者の「(知的)能力の低さ」をどう扱うかは、障害のない人間同士での能力の差をどう考えるかということと、根っこはつながっています。

    ここで容疑者の犯行について再度考えてみましょう。確かに容疑者の考えは極端であり、その犯行は残酷で恐るべきものです。しかし、私たちと容疑者がまったく無関係だとは言い切れないと、私たち自身が、心のどこかで気づいてしまっている面があるのではないでしょうか。

    容疑者は、重度障害者の存在は経済の活性化を妨害すると主張していました。こうした考えは、私たちの社会にもあるでしょう。労働力の担い手としての経済的価値で、人間の優劣が決められてしまう。そんな社会にあっては、重度障害者の存在は大切にされず、軽く見られがちです。

    でも、本当は、障害のない人たちも、こうした社会を生きづらく、不安に感じているのではないでしょうか。

    なぜなら、障害の有無にかかわらず、労働能力が低いと評価された瞬間、仕事を失うなどの形で、私たちは社会から切り捨てられてしまうからです。

    では、私たちは何を大切にすればいいのでしょうか。人間の能力の差をどう考えれば良いのでしょうか。そもそも人間が生きる意味というのはなんでしょうか。

    こうした論点を真剣に議論する。生活の豊かさとは何かを共に考えていくべきだと思います。

    ——BuzzFeed Japanは若い人たちが読んでくれています。事件を受けて、若者にどんなことを考えてほしいか。最後にメッセージをお願いします。

    学校での勉強を含め、一般に知識を得ることには意味があります。本を読んだり、映画を見たり、ネットで情報を得たり。それぞれ大切な知的活動です。

    でも、これらの多くは、「だれか」、つまりあなた以外の人が考えた結果や感じたこと、生み出した知識をあなたが眺めたり、吸収したりしているだけです。

    しかし、現実の社会で起きていることは極めて複雑で、それを理解するために、方程式のように決まった方法で正解を求めるというふうにはいきません。さらに、あなたの人生には、料理のレシピのような決まった材料も手順も示されていません。

    では、どうすれば良いのでしょうか。道は一つだと思います。それは、あなた自身が自分の力で考え、感じて、さまざまに思いめぐらし、探し続けること。それしかありません。

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