見えない監督が映画を撮った。期待を裏切り続ける144分間を通じて「喧嘩を売る」理由

    ある1人の全盲の男性が映画づくりに挑戦した。その一部始終をカメラに収めたドキュメンタリー映画『ナイトクルージング』が3月30日、渋谷・アップリンク他で公開される。監督がこの映画に込めた想いとは。

    人間は情報の8割を視覚から得ていると言われている。
    日々の生活で目に見えるものに囚われないことの方が、きっと難しい。

    ある1人の全盲の男性が、映画づくりに挑戦した。そんな彼の映画づくりの始まりから終わりまでを記録したドキュメンタリー映画『ナイトクルージング』が3月30日に渋谷・アップリンク他で公開される。

    映画をつくる上で、「見えない」ことは致命的にも思える。
    果たして、「見えない」監督が作り上げる映画とはどのようなものなのか。

    《見えない監督の映画に、あなたは何を"観る"のか?》

    ポスターに大きく打ち出されたこの問いは、見る者一人ひとりに突きつけられている。

    全盲の映画監督と出会うまで

    『ナイトクルージング』の監督、佐々木誠さんはCMやテレビ番組、映画と映像作品を幅広く手がけてきた。

    これまで製作してきた映画を振り返ると、いわゆるマイノリティと呼ばれる人々が登場することが多い。そのきっかけは偶然の出会いだった。

    すべての始まりは2005年。知り合いのプロデューサーが手がけるアートアクションユニット「マイノリマジョリテ・トラベル」の活動の記録映像を依頼されて制作したことまで遡る。

    佐々木さんはそこで身体障害者、性同一性障害、摂食障害…と多様なバックグラウンドを抱える人と出会った。

    「もともと障害というテーマに興味を持っていたわけではないんです。その後、そこで知り合った身体障害者の友人に提案されて1本短編映画を撮ったことで、一人歩きして様々な話が舞い込むようになりました」

    そんな佐々木さんへ、視覚障害者の当事者団体から声がかかった。依頼は「視覚障害者を主人公に面白い映画を撮って欲しい」というもの。その団体の集会へ参加するうちに、同い年の加藤秀幸さんと意気投合する。

    「同い年なら映画は何を見た、音楽は何を聞いたって話になるじゃないですか。そこでお互いジャッキー・チェンやトップガンが好きだっていう共通点があることがわかって…」

    「でも、ふと気付いたんです。あれ、こいつ映画を『見る』ことはできないよなって」

    「見えるか / 見えないか」そんな違いを持つ者としてではなく、2人は映画好きの同い年として出会った。

    主人公の葛藤を描くことはわかりやすい。でも…

    『ナイトクルージング』を撮影する上で意識したのは企画から完成まで、映画づくりの工程を忠実にカメラに収めること。

    「見える / 見えないにフィーチャーした描き方ではなく、映画の制作段階を丁寧に見せることで、クリエイター同士の会話の中で『見えない』ことによる問題がたまたま浮上する。そうすることで、おのずと見える / 見えないという違いが出てくると考えました」

    加藤さんは「喧嘩を売るため」映画づくりに挑戦した。そんな加藤さんの歩みを記録する上で、佐々木さんも覚悟を決める。

    観客が気持ちよく消費して終わる映画にはしない。
    わかった気になって帰ってしまっては、何も残らないと考えた。

    「主人公の葛藤を盛り込めば、見ている人がのめり込みやすい作品になります。その方が気持ちいいんです。でも、映画の作り手として被写体の気持ちに共感することってそこまで必要かな、と思ってしまう」

    佐々木さんは加藤さんが映画を制作することを決めるまでの過程も短編映画として記録している。その映画『インナーヴィジョン』を公開した際に、「もっと当事者の障害をわかりやすく描いた映画が観たい」という声が佐々木さんのもとへ少なからず寄せられた。

    だが、そうした意見に違和感があった。

    「観客が考えない映画、理想とする展開に落とし込むわかりやすい映画ってスカッとしますよね。この映画だって、ほっこり心温まる映画にできなくもない。でも、そうしてしまうと、そこで思考停止してしまうんですよ。それはドキュメンタリー映画が果たすべき役割ではないと思う」

    より多くの人にウケるために、興行収入を伸ばすために、わかりやすい映画をつくる誘惑は常に存在する。だが、自分が納得できる作品を作り上げることに何よりも力を注いだ。

    子どもの頃、映画館で観た『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のエンディングがいまでも好きだ。決してスッキリする終わり方ではない。映画を見終えたとき、モヤモヤしたものが残った。

    でも、だからこそ、いまも忘れずにあの映画が伝えようとしたことに思いを馳せる自分がいる。

    映像として記録されていることの向こう側まで想像してもらう。佐々木さんがあえて挑戦的な構成で映画を製作したのも、観客とそんなキャッチボールができると信じているからこそだった。

    引っかかる終わり方のほうが、ずっと楽しめる

    筆者は「全盲の監督が映画をつくる」というテーマに惹かれ、試写へ足を運んだ。この映画はまだ見たことのない「何か」を見せてくれるのではないか、という期待が胸の内にあったことは否めない。

    だが、劇場で目にしたのは、「視覚障害者がたくさんの人に支えられて映画をつくる」といったお決まりの型にはハマらない144分間。最後の最後まで、期待を裏切られ続けた。直後に抱いた感覚は映画を見終えた爽快感とは程遠いものだった。

    構成からも、あえてこうした映画に仕上げた佐々木さんの意図が見え隠れする。なぜ、ここまで頑なに逆張りの姿勢を貫いたのだろう。

    「なんでなんですかね。なんでなんだろう…僕が天邪鬼なだけなのかもしれませんね(笑)。これが正しいんだ、これはこういうものなんだって言われれば言われるほどにイラっとしちゃうんですよ。だって、引っかかる終わり方のほうがずっと想像できて楽しめるでしょ?」