• medicaljp badge

松田直樹の死を「その日だけ考えるのではダメ」事故から10年、 「背番号3」を受け継いだ後輩の思い

2011年8月4日、JFLの松本山雅FCに所属していた松田直樹さんが練習中の事故で命を落とした。あれから10年、「背番号3」を受け継いだ後輩の思いとは。

2011年8月4日、JFLの松本山雅FCに所属していた松田直樹さんが練習中の事故で命を落とした。

あれから10年。クラブは松田さんの悲願であったJ1昇格も2014年に達成した。

それでも、あの日の出来事を「忘れてはいけない」と背番号3を受け継ぐ男は語る。

大晦日の電話。松田直樹入団へ

「俺、マジでサッカー好きなんすよ。マジで、もっとサッカーやりたい」

横浜F・マリノス退団にあたって、こう語った松田直樹さんは2011年、当時JFL(当時はJリーグの下に位置しする最高峰アマチュアリーグ)に所属していた松本山雅FCに移籍した。

元代表選手で「クラブの顔」だった選手がJFLへ。その決断は驚きをもって受け止められた。

横浜F・マリノスとの契約が切れることが決まった2010年冬、松本山雅FCは松田さん獲得へ向けてアプローチを始めた。

最初にオファーを提示した場では、クラブの応援風景を撮影した映像を見せ、熱いサポーターからの声援を受けられることをアピールした。

12月には松田さんを松本に招き、クラブやスタジアムを紹介して回った。

洗濯物は選手たちが洗い、クラブハウスはない。当時の練習環境はトップリーグのクラブとは雲泥の差。現実は厳しいものだった。

当時、社長を務めていた大月弘士さんは本当に松本に来てくれるのか、半信半疑だったと振り返る。

だからこそ、2010年12月31日夜、松田さんから移籍を決断したことを知らせる電話が届いた際には驚いた。

「大晦日ということもあり、その日は私もすでにお酒を飲んでいた。寝ていたところに、突然電話がかかってきて。妻に『ナオキさんという人から電話が来ている』と起こされました(笑)」

「その電話で『入団を決めた』とマツから伝えられたのですが、なかなか実感がわきませんでしたね。電話を切って、色々を考えるうちに、これは大変なことになったぞ、と。本当は役員だけにメールをするつもりが間違って全社員宛にメールで報告してしまったのも、今では笑い話です。当時JFLのチームにJ1から元日本代表選手が移籍するなんて異例な出来事でしたから」

松田さんは2011年1月11日の松本山雅入団会見で、次のように語っている。

「社長の熱意や加藤(善之)GM(ゼネラルマネジャー)の話を聞いたところで、不安は消えていきました。そして松本山雅は目標が決まっているチームなので、そこに向かって自分の経験や力を協力させてもらえればと思い、入団を決めました。ですから今は葛藤とかはありません」

「やばい、やばい」

「マツーダナオキ 松本のマツダナオキ オレたちと この街で どこまでも!」

松田さんはクラブの中心選手として15試合に出場。サポーターたちもチャントを歌い、プレーを後押しした。

開幕当初は膝の古傷の影響もあり、本調子とはほど遠いプレーが続いた。松田直樹中心のチームは、一時はリーグ16位にまで沈んだ。

しかし、松田さんの復調と共に、チームの状態も上向きに。J2昇格圏内の4位以内を競うまでになった。

「目標は4位以内じゃないよ。絶対優勝だから」

2011年5月のインタビューに松田さんは、こう語っている。

7月23日には、Honda FC戦でJリーグ含め公式戦通算400試合を達成した。シーズン半ば。まさにこれから、という時期に起きたのが、あの事故だった。

2011年8月2日の練習中。

「やばい、やばい」

そう口にしながら、松田さんは突然倒れた。

練習を見ていた看護師が心臓マッサージを続け、その後、信州大学病院へ。2日後、松田さんは息を引き取った。

もしも、あの時、AEDがあればーー。

いつも練習に使用していたのは、信州大学病院横のグラウンドだった。しかし、この日はそこが使えず、市内の別のグラウンドで練習していた。

当時、 JFLのクラブにAEDの設置義務はなく、その日使用したグラウンドにもAEDはなかった。

JFLの発表によると、松田さんが倒れたのは午前9時58分。スタッフがすぐ救急車を呼び、居合わせた看護師が心臓マッサージなどを施した。AEDを積んだ救急車が現場に着いたのは、倒れてから15分後の10時13分のことだった。

AEDの普及・啓発活動を行う日本AED財団で「減らそう突然死プロジェクト」に携わる医師・本間洋輔さんによると、AEDを使って電気ショックをかけることが1分遅れるごとに、救命率は10%ほど低下する。

もしも、あの時、練習場にAEDがあればーー。きっと、誰もがそんなことを一度は考える。

「当時、JFLのクラブにはAED設置を義務付けられていなかったのは事実です」

「でも、私も子どもを持つ親の1人です。マツのお母さんには、本当に申し訳ないことをしました。選手たちにもしものことがあったと考えてAEDを用意しておくべきだった、と反省しています」

大月さんは取材に対し、こう振り返った。顔には後悔がにじむ。

松田さんを襲った事故の直後、JFLはJリーグと同様に、全クラブの試合会場や練習場にAEDを設置することを決めた。

この数年後に、元松本山雅の育成チームでボランティアコーチを務めていた40代の教員が、自身が出場していたサッカーの試合の休憩中に突然、心筋梗塞で倒れるという事態が起きた。

この時は、施設のAEDをすぐ使ったことで、コーチは命をとりとめた。

あの事故の教訓は、たしかに生きている。

「正直言って、もう10年も経ってしまったのかという思いです。毎年、松田直樹の命日の日には色々な活動をさせていただいています。10年経っても、チームの中、サポーターの中、地域の中で松田直樹のことに思いを寄せる人も少なくありません。松本山雅にとっては、やっぱり松田直樹の存在は大きかったのだと改めて感じます」

「命をかけてJリーグ昇格を目指し、命をかけて地域を盛り上げた。松田直樹という男の思いは、ずっと忘れてはいけないと思います」

「マツさんだけは特別でした」

「ピッチ内外で、僕はマツさんの背中からプロとは何かを教えてもらいました。日本を代表する選手になるためには、こういうことをしなくちゃいけないんだ、とお手本にした選手の一人です」

横浜F・マリノスで松田直樹さんと共にプレーし、現在は松本山雅に所属し、松田さんの背番号3を受け継いだ田中隼磨選手はこう話す。

マリノス時代の2001年、アウェーの清水エスパルス戦。この時にかけられた言葉を今でも覚えているという。

対戦相手の左サイドは、当時日本代表の三都主アレクサンドロ選手。

右サイドバックとして先発メンバー入りした田中選手に、松田さんはこう言った。

「ここでお前がアレックス(三都主)をチンチン(こてんぱんにするという意味のサッカー用語)にすれば、日本代表に選ばれるから。俺がトルシエ(当時の日本代表監督)に言ってやるよ」

試合中に限らない。松田さんは様々な場面でチームメイトのモチベーションを上げる声がけが得意だった。

マリノスの精神的な支柱と言っても過言ではなかった。

だからこそ、2010年、横浜F・マリノス を退団した松田さんが松本山雅へ移籍すると知った時は衝撃を受けた。そして松本は田中選手の出身地でもある。

「まさか自分の地元のクラブに加入するなんて、その時まで想像したこともなかった」

「マリノスから戦力外通告を受けて、マツさんがどこへいくのかはずっと気になっていたんです。普段は他の選手がどこへ移籍するかなんて大して興味はないんです。でも、マツさんだけは特別でした」

最後まで無事を信じた

2011年8月2日。あの日はチームがオフで、田中選手は自宅でゆっくり過ごしていた。

田中選手は、当時所属していた名古屋グランパスの久米一正GM(ゼネラルマネージャー)から、松田さんが練習中に倒れたと伝えられた。翌日には練習を控えていたが、衝撃で、いても立ってもいられない。

「病院へ行きたい」とすぐにクラブスタッフに伝え、松本へ車を走らせた。

「どうか無事でいてくれ」。病院までの片道3時間、ただそれだけを願った。

病院へ行くと、眠ったように横たわる松田さんがいた。

「本当に今にも喋り出しそうな表情で。その時は、これは絶対に助かるぞと確信したんです。練習中に倒れたことが嘘のように、突然起き上がってくるんじゃないかって」

松田さんの部屋にも立ち寄り、その日は朝まで仲間たちと一緒に過ごた。

翌朝5時過ぎ、マリノス時代のチームメイトで当時JFLのV・ファーレン長崎の佐藤由紀彦さんと一緒に名古屋へ帰り、自クラブの練習に向かった。

8月3日も練習を終えると、再び松本へ車を走らせた。

事情を知るグランパスからは、練習を休むことも特別に許可された。だが、練習だけは絶対に休まないと決めていた。

「だって、こんなことで僕が練習を休むのはマツさんだって本意じゃないでしょ」

誰よりもサッカーが好き。松田さんが自分のために、練習を休ませることを望むはずがなかった。

受け継いだ背番号3、その覚悟

田中選手は2013年に名古屋グランパスを退団。

真っ先にオファーをくれたのが、あの松本山雅だった。

大月弘士社長と八木誠副社長、加藤義之GMの3人からの熱心な誘いに田中選手はすぐに移籍を決めたと明かす。

だが、ひとつだけ迷っていたことがあった。

移籍と合わせてオファーされたのが、松田選手の死後、空席になっていた「背番号3」を背負うこと。

しかし、このオファーをすぐに受けいれることはできなかったと振り返る。

「背番号3をつけるかどうか、これだけは一回考えさせてください、と山雅の皆さんに伝えました。やっぱり背番号3をつけるなら、色々な人へ相談しなければいけないと思いましたから」

田中選手は群馬県の松田さんの実家を訪れ、このオファーについて相談した。

「ぜひ。隼磨くんなら直樹も喜ぶ」

決断を後押ししたのは、そんな松田さんの母や姉の言葉だった。

「松本山雅の背番号3を背負うしかない。ご家族と話をして、僕の覚悟は決まりました」

松田さんの死を「忘れてはいけない」

田中選手は、松田さんを襲った事故を「忘れてはいけない」と繰り返し訴える。

「あのような出来事は2度と起きてはいけないことです。僕自身、背番号3をつけてプレーすることについては、とても複雑な思いがあります。マツさんのことを思い出して、こうして取材に対して話をするのも辛い時がある。それでも、こうやって伝え続けるのは、マツさんに起きた出来事を忘れちゃいけないと思うからです」

「この先、あの事故の記憶を風化させないためには、それぞれの思いを、一人ひとりが伝えていくことが大切だと思います」

松田さんと共にプレーし、今も現役を続ける選手はごく一握りだ。

少しずつ、「松田直樹」という選手に関する記憶が薄れていってしまうことは避けられない。

それでも、田中選手は「マツさんと一緒にプレーをしたかどうか、当時のプレーを知っているかどうかは関係ない」「マツさんのような事故を起こしてはいけないと何度でも伝え続ける必要がある」と語る。

「10年経とうが、20年経とうが、松本でこういう事故が起きてしまったということは忘れてはいけないと思います。マツさんの命日が近い試合では、みんなでマツさんのユニフォームを着て、ウォーミングアップをしますが、その日だけ考えるのではダメなんです」

「2度と、この松本山雅というチームで、そしてサッカーやスポーツの世界で同じような悲劇を繰り返さないために何をすべきか。僕だけじゃなく、次世代の若い選手たちにも教訓を伝え続けなくてはいけないなと感じています」


AEDの利用率は現在、5.1%。私たち一人ひとりがAEDについてしっかりと知り、何かが起きた時に使えるよう準備をするだけで救える命が増えます。

松田直樹さんの死から10年。BuzzFeedではこの夏、改めてAEDの重要性を伝える記事を配信します。