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「マツさんが生きていたら、今頃なにしてるのかな」“後継者”と呼ばれた元日本代表選手が10年の節目に思うこと

松田直樹さんが練習中の事故で命を落としてから10年。横浜F・マリノスで共にプレーした栗原勇蔵さんの思いとは。

松田直樹さんが練習中の事故で命を落としてから10年。

横浜F・マリノスで共にプレーし、「後継者」とも呼ばれた元日本代表ディフェンダー・栗原勇蔵さんは何を思うのか。

「松田直樹」に追いつき、追い越すために

ユースからトップチームへ上がった時、すでに松田さんは不動のレギュラーだった。

尊敬する先輩であり、ポジションを競うライバル。常に意識する存在だった。

中学1年生でユースに加入し、2019年に現役を引退するまで横浜F・マリノス一筋。現在はクラブシップ・キャプテンを務める栗原勇蔵さんは、松田さんに追いつき、そして追い越すために必死でプレーした。

「プレーがすごいのはもちろんなんですけど、それだけじゃない。マツさんは存在感が別格なんです。中村俊輔さん(現・横浜FC)とか、すごいプレーをする選手はたくさんいるけど、存在感だけで言えば今まで会った選手の中で一番だと思います」

試合中に怒られたことは1度や2度ではない。ポジションを掴み始めてからは、あまりに理不尽な言葉には言い返すことも。

時には激しい応酬にもなったが、お互い試合や練習が終わればすべて水に流した。

「マツさんって、どんな時も正面からぶつかる人だったから。本音でぶつかる場面に、先輩も後輩も関係ない。喧嘩をしても、後から『やっぱり、あそこはああだったよな』とか、すかさずフォローを入れてくれる。とにかく真っ直ぐな人でした」

松本山雅への移籍は必然だった

2010年冬、憧れの先輩は戦力外通告を受け、下部リーグJFLの松本山雅に移籍する決断を下した。

退団直前の半年間、栗原さんは練習中だけでなくプライベートでも多くの時間を松田さんと一緒に過ごした。

当時、松田さんのもとにはJ2のクラブや韓国、カタールなどから複数のオファーが届いていた。それでも、移籍先に選んだのは松本山雅だった。

この選択は、栗原さんの目には必然に映ったという。

「たぶん明確なビジョンがあり、自分を必要としているチームを選んだんだと思います。戦力外通告って選手にとっては、自分はチームに必要とされていないというメッセージですよね。そんな現実を突きつけられたばかりだったから、『お前が必要だ』っていう言葉を一番求めていたんじゃないかな」

「マツさんが生きていたら、今頃なにしてるのかな」

松田さんが倒れたと知ったのは、札幌での日本代表合宿中。

3日に合宿を終えると、その足で数名の代表選手たちと共に松本へ向かった。

「最初は倒れたと言っても、少し休めば回復するような状態だと思っていた」と明かす。

それだけに、病室で松田さんと対面し、愕然とした。

病名は急性心筋梗塞。その時、病室では命をつなぐべく必死の治療が続いていた。

「あんなに頑丈なマツさんが…って、とにかく信じられなかった」

8月4日、松田さんは息を引き取った。

松田さんの死後、栗原さんは通夜や告別式に参列することはできなかった。今も彼が眠る群馬のお墓には足を運ぶことができずにいる。

「だって、そこに行ってしまったら、マツさんはもういないって認めることになるじゃないですか」

栗原さんはつぶやく。

「マツさんってどんな存在だったんだろう」。松田さんの死後、ふと疑問に思った。

現役生活が始まって以来、一番近くでプレーを見てきたことは間違いない。だが、あまりに距離が近すぎて改めて研究しようと考えたことはなかった。

動画サイトにアクセスし、プレー動画を再生する。

マリノス 、五輪、そしてW杯…そこに映る松田さんのプレーを何度も繰り返し見て、確信した。「マツさんはやっぱりすごい」。

「取材を受けているから、ってわけじゃなく。本当に時々考えるんです。マツさんが生きていたら、今頃なにしてるのかなって」

指導者、クラブ関係者、もしくは現役続行…きっといろいろな選択肢がある。

だが、これだけは自信を持って言える、と栗原さんは断言する。

「絶対にサッカーに関係する仕事をしていたはずです。だって、マツさんはサッカーが本当に好きでしたから」

“後継者”と呼ばれた。でも…

「松田直樹の後継者」「第二の松田直樹」

現役時代、栗原さんをこう評する人もいた。その評価は栗原さん自身の耳にも届いていた。

でも、「全然違う」。栗原さんは首を横に振る。

「これは謙遜じゃなく、本当に思うんです。同じようにプロ1年目からマリノス でプレーして、背格好も似ていて、重ね合わせやすい部分があるのかもしれませんが、僕はマツさんにはプレーの面でも実績の面でも全然追いつけませんでした」

栗原さんの現役生活の最後、2019年に横浜F・マリノスはリーグ優勝を果たした。

2004年以来、15年ぶりの優勝。チームにとって、まさに悲願を叶えた瞬間だった。

優勝シャーレを掲げる際、栗原さんは永久欠番となった松田さんの「背番号3」が刻まれたシャツを身にまとった。

「今のマリノスには、マツさんのプレーを知る人はほとんどいません。だからこそ、自分のようにマツさんと関わったことがある選手がいるうちに、もう一度優勝できてよかった」

「マツさんはマリノスへの愛が、本当にすごかったんです。チームのことを、サポーターのことを本気で愛していたからこそ、みんなにも愛されたのだと思います」

松田さんの突然の死から10年が過ぎた。

日本では毎年7万9000人が心臓の突然死で亡くなる。AEDは全国に約60万台ほど設置されているが、その使用率は5.1%にとどまる。

AEDの重要性を知り、目の前で誰かが倒れた時に使う人が増えれば、救うことのできる命は4倍に増えると言われている。

栗原さんは、「もうマツさんみたいに、スポーツ中の事故で突然亡くなる人を生んではいけない」と言葉を強める。

「あれから、スポーツ界でもAEDの普及が進んでいます。AEDがあったから助かった、というニュースを聞くたび、『マツさんのおかげだ、マツさんが助けてくれたんだ』って思うんです。あの出来事から何かを学ぶとしたら、それはAEDの重要性なのだと思います」


AEDの利用率は現在、5.1%。私たち一人ひとりがAEDについてしっかりと知り、何かが起きた時に使えるよう準備をするだけで救える命が増えます。

松田直樹さんの死から10年。BuzzFeedではこの夏、改めてAEDの重要性を伝える記事を配信します。