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あの事故がなかったことになるよりは… 渡辺謙は「賛否を巻き起こしたい」

映画『Fukushima50』にただ一人、実名で登場する人物がいる。2011年3月11日から今まで、東北に通い続けた渡辺謙がこの映画で伝えようとしたこととは。

東日本大震災から9年。このタイミングで封を切られる、1つの映画がある。

『Fukushima50(フクシマフィフティ)』。あの日、福島第一原子力発電所で極限の状態に追い詰められながら懸命に対応に当たった名もなき原発作業員たちの物語だ。

実話を基にしたフィクションの中に一人だけ実名で登場する人物が、吉田昌郎・福島第一原子力発電所所長(当時)だ。

吉田所長は2013年、58歳でこの世を去った。遺族の承諾を得て、本作の登場人物では唯一実名で登場する。

「賛否を巻き起こしたい」、原発事故の問題は未だ解決していない中で覚悟を胸に吉田所長を演じた男は語る。

渡辺謙、語られてこなかった「あの日」の物語を伝える重みを両肩に背負った男は震災から9年目に何を思うのか。

「僕にできることは所詮、エンターテインメント」

2011年3月11日14時46分、渡辺はロサンゼルスから日本へと帰国する飛行機の中にいた。着陸予定だった成田空港では降りることができず、石川県の小松空港に降り立つ。

空港のロビーにあるテレビでは地震を伝えるニュースが流れていた。目に飛び込んできたのは津波が街を飲み込んでいく光景だった。

何かしなければ、その一心で震災1カ月後から被災地を回り始めた。それからも東北には足しげく通う。

2013年11月からは震災で甚大な被害を受けた地域の1つ、気仙沼に「K-port」というカフェを構えている。

「僕に莫大な資金力があれば別ですよ?でも、そんな資金力もない中で、僕の持つ力が最大限かつ持続的に届けられる方法は一体何かを考えた。その答えが、今の東北への関わり方です」

このスペースでは時折、ライブやトークショーを開催している。

「お金をたくさん送って、あとは自由にやっていただくという形もなくはないでしょう。でも、僕にできることは所詮、エンターテインメントなんですよ。箱を作って終わり、という関わり方では意味がない」

そこに住む人、そこに来る人が笑顔になってくれる空気を、また来たいと思ってもらえる場所を作りたい。

地元の人は「謙さん」と親しみを込めて呼ぶ。俳優・渡辺謙ではなく1人の人間として受け入れてくれる、その距離感が心地良い。

映画の撮影や舞台の稽古などで気仙沼に身を置くことのできる時間はほんの一握り。それでも毎日、気仙沼の店に直筆のメッセージをFAXで送る。

これは渡辺が自分に課したマイルールだ。

胸には常に迷いがあった

吉田所長の役をオファーされたのは今回が初めてではない。原発事故をテーマにした脚本も度々、提示されてきた。

こうしたオファーが届くたび、「ずっと躊躇していた」と渡辺は明かす。胸の内に常にあったのは、「見た人の心に届く作品になるのか」という迷いだった。

「この『Fukushima50』という映画は原発事故に関する映画ではあります。ですが、同時に非常に秀逸な人間ドラマでもある。これならばお客様にちゃんと提供できるエンターテイメントになると思ったんです」

そう出演を決めた経緯を語る。

「事故当時も吉田所長は非常に露出の多い方でしたし、原発事故を語る時に彼は切っても切り離すことができない存在でした。それは演じる僕にとってとても重たいもの…当然プレッシャーにもなりました」

実在の人物をどう描くか。彼らの奮闘をどう物語に昇華するか。時には台本にも意見した。

例えば、当初の脚本には、吉田所長の家族について触れるシーンが存在していたが、このシーンを削るよう渡辺は監督に求めた。

「僕は吉田所長が原発事故の現場で何を考え、何を悩み、何に苦しみ、何と戦ったのかを描くことだけに終始するべきではないかと考えた。その方が、他の登場人物たちが抱える苦悩がよりクリアに浮き立ってくるように思えたんですよ」

あの事故がなかったことになるよりは…

福島第一原発事故の爪痕は、今もあまりに大きい。依然として福島には帰還困難区域に指定されたエリアがある。生まれ故郷に帰ることのできない人や帰らないという苦渋の選択を下す人もいる。

事故による被害が完全に収束したわけではない中で、原発作業員側のストーリーを描くことに違和感を覚える人もいるはずだ。

震災から9年、このタイミングでこうしたストーリーをエンターテインメントに落とし込む裏にある思いを尋ねると、それまでの歯切れの良さが一転、断言口調の言葉が減った。

どこか迷いがあるように見える。言葉を探していたのだろうか。一瞬の間を置いて、渡辺はそっと切り出す。

「ポジティブすぎる言い方に聞こえてしまうかもしれません。でも、僕はこのタイミングで改めてあの時、福島で何が起きていたのかを伝え、賛否を巻き起こすことに意味がある、そう考えました」

「僕たちは原発そのものの是非を問うているわけではない」と前置きした上で、「この事故によって得たはずの教訓がなかったことになるくらいならば、賛否を巻き起こした方が良いと思うんです」とその理由を口にする。

「色々な課題にまだまだ直面されている方もいる。そうしたことを含めて、あったことや今あること、事実が消えていってしまうことが一番の問題だと思うんですよ」

あの日から東北に通い続けた男にしか見えない景色が、そこにはある。

フィクションだからこそ、届くものを

震災後、出演する映画を選ぶ際にも、3.11を意識せずにはいられなかった。

2011年3月11日以降、初めて出演した海外作品は2014年に公開されたハリウッド映画『GODZILLA ゴジラ』だ。3.11以降の現実に対してメッセージを投げかける、その思いを忘れた日はない。

「先人たちは『ゴジラ』を戦後、水爆実験が行われ、冷戦が始まり核の脅威にさらされる社会へのアンチテーゼとして作った。それをもう一度、21世紀にやってみせようという強い意志に僕は賛同して、出演を決めました」

それは、この『Fukushima50』でも同じだ。

「いまだに処理水の問題でさらなる風評被害が発生することが懸念されているように、あの事故は決して終わってはいない。終わっていないというより、まだ解決へ向けた入り口に差し掛かったばかり、と言った方が正確かもしれない」

だから渡辺は、あえて苦言を呈す。

「そんな中でね、東日本大震災という出来事が思い出のような形で語られすぎているような気が僕にはするんですよ」

「9年という年月が経過しても、僕らが検証しきれていないことがかなりある。いま起こっている実状を僕は知りたいと思うし、知らなければいけないとも思う」

映画の撮影前、帰還困難区域も残る国道6号線沿いを見て回った。いたるところに放射線量を低減させるため除染を行った際に出た土が黒い袋に入れられ、並べられている。

そこに渡辺は伝えなくてはいけない現実を見た。言葉は徐々に熱を帯びる。

「汚染土や処理水をどう処理していくのか、といったことを本当は考えなくてはいけないのになかなか伝わらない」

「もちろん地元の人の中には、本当に伝えて欲しいのはそんなことじゃないんだという意見もあるでしょう。だけど、そこに実際にあるネガティブな現実を理解した上でしか、僕らは震災と原発事故という出来事を検証することはできないでしょう」

ただ単にさらけ出すだけではダメ。この重いテーマをより広く伝えるために、エンターテイメントが果たせる役割を探した。

「フィクションというフレームの中で、色々な人々の人生や思い、苦しみを描いて届けることで、初めてこの出来事の深さや怖さをしっかりと伝えられるんじゃないかな」

客観的な事実を伝える数字や情報だけでは届かない、その先へ。世界を股にかける男は今日も批判をその身に受けながら、あえて石を投げ込む。

<渡辺謙>
新潟県出身。NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」(1987)の主演を務め、一躍国民的俳優に。「ラスト サムライ」(2003)でハリウッドデビュー、アカデミー助演男優賞にノミネートされた。その後、「バットマン ビギンズ」(2005)や「硫黄島からの手紙」(2006)、「インセプション」(10)などに出演。
ブロードウェイデビュー作のミュージカル劇「王様と私」(2015)では、トニー賞主演男優賞にノミネートされている。