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そこで経験した「二度目の喪失」。8年間、ただ耳を傾け続けて

このままでは、震災と復興の間に存在した時間を生きた人々の思いが抜け落ちてしまう。そんな危機感から、彼女は8年の間に見聞きした出来事を1冊の本にまとめた。

アーティストの瀬尾夏美さんは、震災の発生直後からボランティアとして東北に向かい、2012年から3年間は、津波で市街地が壊滅した岩手県陸前高田市で暮らした。仙台に移り住んだその後も、通い続けている。

瀬尾さんは2019年2月、あの日から8年の間に見聞きしたことをまとめた本を出版した。タイトルは『あわいゆくころーー陸前高田、震災後を生きる』。

「あわい(間)」という言葉には、2011年3月11日から復興までの間の期間という思いを込めている。あの日に起きたことや、復興事業で建物か何かが完成した瞬間は、歴史上に記録される。

しかし、そこには決定的に抜け落ちてしまうものがある。震災と復興の間に存在した時間を生きた人々の思いだ。焦点をそこに置いた。

東北へ足を運んだ理由は単純だった

「私はたまたま暇だっただけなんです。たぶん4月から就職することが決まっていたら、行けなかったと思う」

2011年3月の震災発生当時は、大学を卒業する直前。翌4月からは大学院に進学することを決めていた。

「震災に対して何もせずに生きてしまったら、この先、表現者としてやっていけなくなる気がしました。このまま作り続けられなくなってしまうことだけは嫌だった」

震災直後から、東北へと通いはじめた。

そのころ、被災地の人々は一日を生きることで精一杯だった。

それでも日が経つにつれ復旧は少しずつ進み、復旧が進むにつれて風景は変わっていく。

だから、震災の翌年には陸前高田に移り住み、日々に懸命で余裕がない人々の代わりに、一つひとつの出来事を絵や文章で記録し続けた。

ただそこで耳を傾け続けた日々

「周りを見渡せば『超当事者』がたくさんいる。その人々と話していると、内容がハード過ぎてときどき言葉にあたってしまう瞬間があるんです。そうした語りに対して一緒に共感して泣いたり、一緒にわかった気になって手を合わせたりすのは違うな、と思ったんですよ」

安易な共感をして、分かったふりをすることはしたくなかった。

だからこそ、そこで生活する人々との間に距離をとることを選ぶ。名乗り方に気を配り、自分はここにずっと住むわけではないことをしっかりと伝えるよう心がけた。

陸前高田には、震災後の復興をなんとか支えようとやって来た市外出身の若者も少なくない。メディアはカギ括弧にぴったり当てはまる言葉を探し、取材を行っていた。

そんななかで欠けているのは、「ただ耳を傾けてくれるだれか」だと感じた。

いわば、被災者への「傾聴」だ。

目的を定めず、録音もせず、ノートにも記録しない。

出会った人々の話をただ聞き続ける。そして1日の終わりに真っ暗な山道を歩きながら、その日あったことをTwitterに投稿する。これを続けてきた。

瀬尾さんは、陸前高田の写真館で働いていた。店主の大坂さんは、そんな瀬尾さんにこんな言葉をかけている。

「お前が絵を描くなら、文章を書くなら、このまちの住人になるなよ。距離を取れ」

大坂さんだけではない、陸前高田の人々はだれも、瀬尾さんに「同化」することを求めなかった。

自分に何ができるかはわからない。それでも、アートに関わる人間として、被災当事者ではない者として、受け取ったものを外の人たちへ渡していくことだけは意識していた。

「二度目の喪失」

2014年頃から、陸前高田では、復興工事が勢いを増していった。

津波被害を軽減するため、もともとの市街地におよそ12メートルの高さまで土砂を盛ってかさ上げし、その上に家屋を建て直すという巨大公共事業だ。

土砂を運ぶベルトコンベヤが縦横に巡り、大きなダンプカーが走り回る。

海沿いの小都市の「再建」というよりは、まるで大規模ニュータウンの造成工事を行っているかのような光景が広がり、かつてあった陸前高田の痕跡は、もはや残っていない。

2011年3月11日にたくさんのものを失った人々は、この復興事業で震災以前の痕跡すらも、完全に失ったのだ。

これを瀬尾さんは「二度目の喪失」と呼ぶ。

瀬尾さんが多くの時間を過ごした写真館の建物も、もうない。写真館は復興工事で取り壊され、建物のあった一角はいまでは土の下だ。

彼女自身が思い入れのある場所を失うことで、風景やその風景を共有していた人がいることで記憶を残すことができることに、初めて気が付いた。

「風景を失うことで、私たちは自分の中で大事だと思っていたものすら失っていくんですよね」

陸前高田でドローンを飛ばす人との出会い

陸前高田の街で、リモート操作で空を飛ぶ無人機(ドローン)を購入して、上空から街を見下ろす人々に何度も出会った。

被災地を飛ぶドローン。しかし、空から見ているのは、復興事業の進捗状況だけではなかった。

「人間が生活する視点では、故郷の痕跡を見いだすのはもう難しい。でも、あの高さまで飛べば、そこが故郷とわかる」

人々はドローンを使い生身では届かない高みに上がってまでして、失われた記憶を取り戻す手がかりを懸命に探していた。

「そこまでしてでも、人は記憶のよすがを探すんです」

「忘れない」とは決して口にしない理由

陸前高田で出会ったある人は震災で妻を失った。あるとき、ふと漏らした「三回忌が済んだら、俺も再婚したいんだ」という本音がいまでも忘れられない。

「それってすごく良いことじゃないですか。だけど、被災者であるという役回りを背負わされてしまった人たちは、忘れてもいけないし、死んでしまった人のことを考え続けなきゃいけない。でも、それだけだと生きていくのは大変なんだと思います」

「むしろ大切なのは、これからどうやって喪失を経験した人たちが人生を歩んでいくのかということ。でも、あまりに忘れないということに縛られてしまっている人が多いし、何も考えずにその言葉を投げかけて人がいる。それってしんどい」

「誰だって忘れてもいいんだよ、って言われてもいいんじゃないか。誰かがそう言ってもいいんじゃないかって私は思うんです」

瀬尾さん自身も、周囲からは「震災を悲しみ続ける」役回りを期待される。その期待は『あわいゆくころ』を出版したいま、より一層大きなものになった。

それでも「忘れてはいけない」とは決して口にしない。むしろ「震災を忘れてもいい」と口にする。

「どんなことでも忘れないなんて不可能だし、反対に、忘れたくても忘れられないこともある。忘れてはいけないと言われ続けることの呪縛や、それによるうしろめたさの方が、被災の当事者もそうでない人も、広く苦しめている気がするんです」

「未来の人のために忘れない、記憶を継承していくって言われてしまうと一気に他人事になってしまいませんか?」

「私たちは震災をきっかけに露わになった、都市と地方の関係性や共同体の意思決定の問題などについても考え続ける必要がある。そこには、日常生活では見えにくくなっている、人が根本的に抱えている弱さや孤独、そんな人間が構築していく社会の危うさなどが関わっていると思います」

「だから誰しもが簡単に否定したり、割り切った答えを出しにくいはずです。向き合うことには怯むかもしれないけれど、こうした問題を同時代的なものとして考え続ければ、結果的にあの日起きたことを忘れることはないと思うんです」

「この本には、大きな災厄の後に、手探りで暮らしを立ちあげてきた人たちが育んできた技術や、それを支える感情や思想が詰まっています。同時代を生きる人たちにも、それをおすそ分けしたい。そして、ここから一緒に考えましょう、という気持ちがあって。これからを一緒に考え、つくっていくための“技術本”でもあると思っています」

記憶は継承を目指すものではなく、結果的に継承されていくものだと考えている。

「絶対に忘れないなんて無理じゃないですか。だから、忘れてはいけないだなんて言わないほうがいいと思うんです」

いつからか「忘れるか/忘れないか」という二項対立で考えることを止めた。大切なのは、「考え続ける」ことだから。


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