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亡き息子へ、あの日から買い続けるジャンプ。「死んだら終わりですか?」母親は問いかける

「私はあの日の出来事をこれからも引きずって、後ろを向きながら歩いていくつもりです。どうしても、あの日のことが割り切れないし、生き残ってしまった後ろめたさもありますから」

「NARUTO」「黒子のバスケ」「銀魂」「BLEACH」——。

部屋に並ぶのは、500冊以上の『週刊少年ジャンプ』。一番古いものの表紙をめくると、そこにはすでに連載が終了した名作マンガが並んでいる。

2011年3月以降に発売されたジャンプ。連載の移り変わりが、月日の経過を静かに教えてくれる。

津波の甚大な被害を受けた宮城県名取市であの日の出来事を「語り部」として伝え続ける丹野祐子さんはあの日、閖上中学校1年生だった息子・公太さんを津波で亡くした。

丹野さんは今も、公太さんが愛読したジャンプを毎週買い続け、書棚に並べる。

そして、我が子と義理の両親を失うという辛い経験を掘り起こし、語り続ける。

それは、あの日の自分たちの姿をありのままに語ることで、聞く人だけでなく、自分にも思いを刻み続けることでもある。

「なぜ自分が生き残って、息子が死ななきゃいけなかったんだろう」

取材のため、名取市閖上の沿岸部に立つ「閖上の記憶」を訪れると、「10年目だからどうとか、そういうことを聞きたいなら違う人に」と切り出された。

「11年目も13年目も、私は同じように話します。だから、10年目だから何か特別というわけではないんです」

丹野さんは10年間、あの日の出来事を語り続けてきた。そして、これからも伝え続けていくと、覚悟を決めている。

スタディツアーに訪れる子どもたちから大人まで、これまで自身の体験を伝えた回数は数え切れない。

なぜ、辛い記憶を言葉にし続けるのか。

「まず、なぜ私があの日のことを話し始めたのかっていうと、それはなぜ自分が生き残って、息子が死ななきゃいけなかったんだろうっていうことへの、言い訳なんです」

「人間って、自分にとって都合の悪いことほど、すぐ忘れるでしょう。だから、絶対に忘れることがないように、同じことを何度も繰り返し話し続けている」

「それにね、段々と町は片付いて綺麗になっていく。そうやって復興が進んでいくと、『ここにこんな物があったんだよ』『ここに私の息子がいたんだよ』って伝えないと、誰も気付かなくなってしまうじゃないですか」

息子に伝えた「津波なんて来ないから」

2011年3月11日は中学3年生の娘の卒業式だった。卒業式を無事に終え、丹野さんは公民館で開かれていた謝恩会に参加していた。

14時46分、大地が大きく揺れた。

揺れが収まると、丹野さんは様子を見るため義父母が暮らす自宅に一度、戻った。自宅は地震で散らかっていたが、義父母は無事だった。

大きな揺れだったが、義父は丹野さんに「閖上に津波は来ない」とつぶやいたという。

「私も逃げなくていいと思っていたから、逃げなかった。津波なんて来ないよって、じいちゃん、ばあちゃんも言ってたの。だから私もそうだよな、この街に津波なんて来るはずないよなって」

「ましてや、自分が被災者になるだなんて、まったく夢にも思わなかった」

自宅の様子を確認した丹野さんは、再び公民館へ戻った。

公民館は、地域の避難場所に指定されている。公太さんもきっとそこにいると思っていた。

住民が続々と公民館に集まる中、子どもたちはサッカーボールで遊んでいた。公太さんもその中にいた。

「今晩何食べる?」。丹野さんたちは他愛のない会話をしていた。

「津波が来たらどうする?」「泳げばいいじゃん」

そんな冗談を言っていたあの時の自分が、今では恨めしい。

地震から1時間6分後、「津波だー!」と大きな声が聞こえた。煙のような大きな波がどんどんと迫ってくる。

丹野さんは必死に走り、公民館の2階へとかけ上がった。娘は無事だった。しかし、公太さんの姿はそこにはなかった。

津波は公太さん、そして自宅にいた義父母の命を奪った。

「私は同じグラウンドにいた息子に、『大丈夫、津波なんて来ないから』って軽い言葉をかけてしまった」

「息子は私が逃げないし、『津波なんて来ない』って言ったから、グラウンドに残っていたんです」

もし、あの時、「早く逃げろ」と言っていたら。

「まったく違う結果だっただろうなって思うんです」

未来の誰かが「遺族」にならないために

震災後、丹野さんは昔の家と同じ閖上地区に新しい家を建てた。

一帯は新築の家が並ぶ。仙台のベッドタウンとして便利なこの場所は、若い夫婦や家族にも人気だ。

すっかり整備された町を見るたび、月日の流れを実感する。

「今だって、この景色だけを見たら、まさかここに津波が来たなんて誰もわからないでしょう」

しかし、あの日、何が起きたのかが「忘れられてしまったら困る」。だから、今も語り続ける。

「もう2度とあんなことが起きないのなら、語り継ぐ必要もないのかもしれません。でも、閖上には昔も津波が押し寄せていたんです。だから、この先同じことは必ず起きる。その時に、あの日のことが頭の片隅にあれば、建物は流されてしまったとしても、命を救うことはできる」

棺に供えた1冊のジャンプ

「公太は残念ながら勉強はあんまりできなくて。ゲームとジャンプが本当に好きでした」

小学校低学年の頃は『月刊コロコロコミック』を読んでいた。それが『週刊少年ジャンプ』へ変わったのは小学5、6年生の頃。

それ以来、毎週月曜日にジャンプを読むのを楽しみにしていた。スーパーに勤務する丹野さんが、パート帰りに買って帰るのが毎週の習慣だった。

友達2人が家に遊びに来た時、3人揃ってそれぞれ買ってきたジャンプを読んでいた姿を思い出す。

「みんな読むなら1冊買って回し読みすればいいじゃない」。そう言う丹野さんに、公太さんは「1人1冊じゃなきゃダメなんだよ」と、反論した。

「あまりに勉強しないから、そんなにマンガばっかり読んで!なんて言ってよく怒ってさ。それに毎週買うからすぐに溜まるでしょう。いつも『こんなに溜めないで、買ったら古いのは捨てろ』って言ってたんですよ」

建て直した家の2階には、公太さんの部屋がある。そこに並ぶのは、あの日から買い続けてきたジャンプやカードゲームだ。

部屋の棚を眺めながら、「あの子は何を読んでたんだろうな」とつぶやく。

かろうじて知っていたのは「ワンピース」と「こち亀」、それから「銀魂」ぐらい。

「私はあんまりマンガを読まない人だから、あんまりよくわからないんだよね」

中3の娘の受験で忙しく、震災直前の時期はあまりかまってあげられなかったことが、心残りだ。

震災直後、ボランティアが買ってきたジャンプを避難所で子どもたちに渡していたのを見て、丹野さんの頭には「うちの子も、きっとジャンプを読みたがる」という思いが頭をよぎった。

津波に襲われた公太さんの行方は、しばらく分からなかった。

遺体が見つかったのは震災から2週間後。たくさんの棺が並ぶ遺体安置所で対面した。

遺体の損傷は激しく、棺には「お顔は見れません」と書き添えられていたという。

夫は公太さんの顔を確認した。だが、丹野さんはどうしても顔を見ることができなかった。

「津波は来ないって言ったじゃん。なんで嘘ついたの?」。公太さんにそう言われるような気がして「怖かった」。

「どうしても棺を開けることができなかったの。だから、私は公太の最後の顔を見ていないし、見れなかった」

ふと周りを見渡すと、棺の上には花やお菓子が供えられている。

「ジャンプを読ませてあげたい」

せめてもの償いに、丹野さんは棺の上に、そっとジャンプを置いた。

20歳を区切りにするつもりが…

1度買い始めると、止めるタイミングがわからない。

「やっぱり1回買った以上は続きが気になるだろうなって思うじゃないですか。だから今週も買っておくかって」

「そうやって月曜日になったら新しいのを買って、古いのは下げるということを続けるうちに…月曜日にジャンプを買って供えるということが、私にできる唯一の供養だなって思うようになりました」

1冊、そしてまた1冊。毎週ジャンプは溜まっていく。

50冊、100冊、150冊と積み重なっていく中で、「捨てられない」と感じるようになった。それからは、溜まったジャンプを並べる公太さんの部屋を作ることが目標になった。

ある日、本棚を眺めていると『週刊少年サンデー』と『週刊少年マガジン』が紛れ込んでいることに気付いた。

「まずいな、バレたら大変だ」

丹野さんは、抜けていたバックナンバーをメルカリやAmazonで買い求めた。

ある日、ジャンプを買いに行くと、どこの棚にも並んでいない。何店舗も回ったが、やはり見つからない。

「今週のジャンプ、売り切れちゃった」とTwitterでつぶやき、「発売日は明日ですよ」と教えられたこともある。

「ジャンプは奥が深いですよ」。丹野さんは笑って教えてくれた。

「本当は20歳を区切りに、買うのを止めようと思ったけどやめられなかった。だって、40歳とかになっても『俺は読んでいるよ』って言う人もいるしね」

「それにね、私の中で、公太はまだ中学生のまま、時間が止まっているんです」

公太さんが生きた「証し」を残したかった

震災後、閖上中学校を訪れた人々が「学校も残っているし、汚れていないから子どもたちは助かったんだろうね」と話す声が聞こえた。

丹野さんは必死に首を横に振る。「違うよ、助からなかった人もいるんだよ」

公太さんの遺品はほとんど残っていない。生きた「証し」を残したかった。親が死んでも、ここで子どもたちが亡くなったことを伝えたい。

丹野さんは、慰霊碑を作ることにこだわった。

公太さんらあの日、命を落とした閖上中学校の生徒たち14人の名前が刻まれた慰霊碑は今、新しく整備された閖上小中学校前にたたずむ。

以前は丹野さんが語り部の活動などをする際の拠点にしている「閖上の記憶」前に置かれていた。

「本当は自分の手元に置いておきたかったんだけど、いずれ私達も死ぬ時が来る。そうなってから、置き場がないっていうのも困るでしょ」

学校の近くに置くことができるとなった時、二つ返事でお願いした。

「誰の目にもとまらなくなっても、石でできた慰霊碑はそう簡単には壊れない。だったら、たとえ周りに草が生茂るようになったとしても、誰かは気付いてくれると思うんです」

これからも、後ろを向きながら歩き続ける

名取市は2020年3月30日、「復興達成宣言」を発表した。だが、それはあくまでインフラ面での復興に過ぎない。

「世の中のほとんどの人にとって復興というのは街ができて、暮らしが元に戻ることですよね。確かに道路もできたし、スーパーもできたし、学校もある。元の生活は戻りつつあるでしょう。でもね、私にとっては息子が戻って来ない限り、丹野家の復興はあり得ないと思っているんです」

「だから、我が家はこれからも復興はしません」

「娘もいるし、自分も生きていかなきゃいけないから、歩みは止められない。でもね、私はね、もう前を向いては歩かない」

「私はあの日の出来事をこれからも引きずって、後ろを向きながら歩いていくつもりです。どうしても、あの日のことが割り切れないし、生き残ってしまった後ろめたさもありますから」

「私は『かわいそうなお母さん』ではないんですよ」

語り部の活動を始めた当初は涙が止まらず、涙を流しながら喋っていた。

メディアにも「息子と義理の両親を亡くしたかわいそうな母親」として取り上げられることも少なくなかった。

「最初は忘れられてしまうのが悲しかったから、残念だったねって言ってもらえて嬉しかったんです」

だが、少しずつ考え方が変わっていった。

「私は『かわいそうなお母さん』ではないんですよ。かわいそうなのは、亡くなった息子であって、生きている私ではない。それに、かわいそうなお母さんで終わってしまったら、次へつながらない」

「語り部を聞いてくださった方の感想文を見ると『息子を亡くしたお母さんが涙ながらに語ってくれました』と書いてある。でも、それじゃダメでしょう。本当に伝えなくちゃいけないのは、早く逃げろってことだし、子どもには親よりも長く生きていてほしいってことだから」

震災後、同じく子ども亡くした大川小学校の遺族をはじめ、様々な人との出会いがあった。

その1つが、日航機墜落事故(1985年)の遺族とのつながりだ。

最初は遺族同士が集まるなんて不謹慎だ、と捉えていた。

だが、日航機墜落事故で当時9歳だった息子・健さんを失った美谷島邦子さんは、丹野さんに「悲しみでつながるご縁があってもいいじゃない。遺族だからわかりあえることもあるでしょう」と声をかけた。

ハッとした。

「私が歩いてきた道は、美谷島さんが30年以上歩いてきた道でした」

墜落現場の御巣鷹の尾根(群馬県上野村)へ登りに行ったこともある。35年前、墜落事故で何もかもが燃えた場所だ。

だが、現在ではそこに墓標が建てられ、木々が生い茂る。

緑の山を見て、「私たちの道のりは、まだまだこれからだ」と実感した。

「9歳の健ちゃんと、13歳のうちの公太が天国で偶然仲良くなって、私たちを出会わせてくれたのかもしれない。健ちゃんが、『死んだら終わり』ではないと教えてくれたんです」

あの日、大勢の人達が津波から逃れる為、この閖中を目指して走りました。

街の復興はとても大切なことです。でも沢山の人達の命が今もここにある事を忘れないでほしい。

死んだら終わりですか? 生き残った私達に出来る事を考えます。

震災後、閖上中に残っていた机に丹野さんが黒いマジックでつづった言葉だ。

震災から10年は「区切り」ではない。丹野さんはこれからも、変わらずあの日の体験を語り続ける。

「ちゃんと逃げれば被害は最小限で抑えられる。だから、自分たちのダメな経験を語り継がないと」

「だって、他の誰かに自分と同じような体験をしてほしくはないし、被災者になったとしても遺族にはなってほしくはないから」

公太さんが好きだった週刊少年ジャンプ。母は今週も新たなジャンプを買い、息子に供える。

3月12日以降も、息子のいない日常は続いていく。

どれだけ悔やんでも変わることのないあの日のことを伝え続ける。丹野さんの日々はこれからも変わることはない。


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