47歳、今まで築いたモノを捨てて11年――伝説のポップスターの「その後」

    「50歳になった時、世界のどこの街で何をやってるんだろう? 別に笑う必要はないけれど、その時、こんな顔ではなく、明るくパワフルに生きていたい」

    ふと、窓ガラスに映った自分の顔を見た時に、ハッとした。

    笑ってないわけじゃない。覇気がないというか、自分が思う「自分の顔」ではなかった。仕事も結構うまくいってきた方だ。20代のときから走り続けて、正直どこか疲れはあった。

    「50歳になった時、世界のどこの街で何をやってるんだろう? 別に笑う必要はないけれど、その時、こんな顔ではなく、明るくパワフルに生きていたい」

    大江千里、ミュージシャン。大学在学中にメジャーデビューを果たし、ポップミュージックの最前線を走り続けていた。デビュー25周年を前にした2007年、今まで築き上げてきたものを手放して、単身アメリカに渡った。

    理由は、10代のときから憧れていた「ジャズ」を学ぶため。ジャズへの転向は「ラブソング書けなくなったから」とも言われた。それから11年、「ポップスからジャズへ、血を入れ替えた」彼は、アメリカに拠点を置くジャズミュージシャンとなった。

    『格好悪いふられ方』のように、甘く切ない歌はのせない。ピアノひとつで勝負してきた。そんな大江が初のセルフカバーアルバム『Boys&Girls』をリリースした。

    再生ボタンを押すと、音の違いに驚いた。ピアノで奏でるラブソングは、洗練された甘さがあり、憂いもあった。”格好良い”のだ。

    浮かんだ疑問はふたつ。

    大江さん、大人になるとやっぱり恋愛は難しいのですか? それと、聞きにくいのですが、「格好良さ」ってどう生まれるんですか?

    大人になって、恋愛から遠く離れて

    2007年、大江は突然日本での活動を休止し、ニューヨークのジャズの名門校へ進学した。これまで築き上げてきたキャリアを捨てる覚悟はどこから生まれたのか——。

    若い時に持つ「初めて」ってあるじゃないですか。ピュアな視点と言えば良いのか、「まつ毛に雪がとまる」とか「ポケットの中で手をつなぐ」だとか、ラブソングのモチーフになるような、胸がキュンとするような表現は年々できなくなっていました。

    社会に出てからって、ラブソングとして成立しづらいモチーフの方が多い。現実……と言うのかな。仕事、結果、はたまた体力もなくなってきて。

    例えば、ダークサイドな感じにしてみたり、ジャジーなアレンジを加えたり、いろんな手法を織り交ぜて、あの手この手で音楽を作るのですが、新しい形のラブソングはなかなか成立しませんでした。

    やっぱり、人がキュンとくるのは、若き日に感じた「最初のキラッとしたもの」が一番パワフルで、歳を重ねると飛距離が必要になってくる。「若き日の感覚」からどんどん離れていきますからね。僕が考える「ラブソング」は作れなくなっている気がしたんです。

    このまま、ポップスをやり続けられるのか? 何かやり残してることなかったか?

    ちょうど、散歩している時にショーウィンドウに映った自分の顔を見て、ハッとしたんです。

    目の奥の、そのまた奥の目の、マトリョーシカの一番小さな奥が、笑ってないみたいな。何かが澱んでいたんです。あれ……? 俺、こんな顔していたっけ……? これでいいんだっけ?って。

    自分の人生も、音楽も、何も沈んでいない底抜けなものをやってみたくなった。

    その時に思い出したのがジャズでした。10代の頃、リスナーとしてジャズの虜になっていたものの、大学1年生の時にデビューが決まった。それからポップスの道に進んで30年が経つころでした。

    それが47歳の時。3年待って、50歳で心機一転しても良かったのですが……人生のセカンドチャプターに行くのであれば、余力がある今しかない。自己PRとアレンジ曲を送って、ニューヨークの音楽大学を受験することにしました。

    「僕がこの学校に入り、ジャズを学んだ暁には、ビルボードの総合チャートでトップ10に入るくらいのヒットを生む。僕にはその力があります」みたいなことを書いてしまって。勢いってすごいですよね(笑)。

    体に染み付いたポップスが足かせだ

    ジャズの道に進むことになったものの、困難の連続だった。大きく立ちはだかったのが、体に染み付いた「ポップス」の音楽だった。年齢や出身がバラバラな同級生の中でも、47歳の大江は「年長」に部類された。周りはまっさらな感性をもっていた。

    大学では、音楽の実技以外にも歴史のような教養の授業もあるんですけれど、悪目立ちしていたと思います。

    大教室の一番前の真ん中の席で、コーヒーを脇において、ガリガリとメモをとっている。しかも、日本人でいい年齢。正体不明ですよね(笑)。年下の先生たちは、怪しがっていたと思います。すごい勢いで授業を受けているのに、テストの点数は20点。やっぱり英語がわかっていないんじゃないかって。

    英語はもちろん、ジャズの言語も僕は知りませんでした。日本のポップスは音が多いんです。でもジャズは違う。音のない間で格好良さを作る音楽なので、いつも先生に「音が多い」と注意されていました。

    みんなと演奏する中に、気持ちよく入っていけない日々が続く……。音を聴くとわかる。「ああ、自分は混ざれてない。何かが足りない」って。謎は解けないまま、僕の周りに浮遊していました。縄跳びで「お入んなさい」って言われても、すっと中に入れない感覚。いつも、縄の前で足が止まる。

    血を入れ替えるぐらい、自分の中のポップスを全部出して、そこにジャズを入れていかないとやっていけない。痛感しました。

    とはいえ、力任せに練習をすれば「入れる」わけでもない。最初の頃は、謎を解き明かしたくて、体の限界まで練習をして、文字通り手が動かなくなってしまうこともありました。とてもつらかった。もっとできるのに、やりたいのに、できないという日々は。

    正直、学校に行きたくない気持ちは強かったです。学校の前に来ると「嫌だ、門をくぐりたくない」と思う。でも、毎朝、近所の屋台で1ドルの熱いコーヒーを買って「よしっ!」って気合を入れる。クラスのドアを「Good morning!」って開ければ、陽気な 「いつものセンリ」になる。声をかけられれば「Wow! How are you?」って笑う。

    熱いコーヒーは、自分を元気な大学生に切り替える道具でした。

    「縄に入れた」きっかけ

    退路を断ってきてるから、帰る場所もない。授業だって無料じゃない。肉体的にも精神的にもすごくつらい毎日でしたが、でも結局、一番好きなこと……それがジャズだったので、つらかろうが、しんどかろうが、適当に寝て、少しサボって、気持ちを入れ替える。

    でも、再び学生ができる喜びもありました。ニューヨークがすごいのは、何歳であっても関係ないところ。みんなフラットに「センリ」と呼ぶ。30歳下の友人たちに混じって、同じ釜の飯を食う生活は、お金こそありませんでしたが幸せでした。

    本も靴下も買わない学生だったので、日本から来た知人に三島由紀夫の本をもらったり。それを持って歩いていたらニューヨーク・タイムズの取材を受けて「三島は割腹自殺したんだ。俺はジャズをやってる」って話した様が紙面に載って、次の日学校の先生に「Oh!New York Times man」っていじってもらえたり。

    2年ほどかかって、だんだんジャズの中に入れるようになった。あらゆるものが、皮がむけていくように、楽しくなっていきました。大学を卒業したのは、52歳の時でした。

    ジャズを掴んだ入口は、レッド・ガーランドの『Straight, No Chaser』のソロのフレーズを歌って覚えることだったり、先生から言われた「これを覚えなさい」っていうことを、毎日毎日すり込むようにやったこと。特別な薬や、劇的に視界が変わるようなヒントはなかった。

    目の前にもらったアイデアで擦り切れるぐらい練習して、体に、骨身にすり込んでいく。それしかありませんでした。解答というのは。

    ジャズピアニストとして、独り立ちした後に

    大江は大学を卒業後、修行としてアメリカ各地を一人で回った。基本は、ジャズの名曲を自分流にアレンジして演奏する。アメリカのオーディエンスは、異国から来たジャズミュージシャンに対しても、いい演奏をすればスタンディングオベーションで讃えた。2年が経つ頃、大江は何かを再発見した。

    僕は当初、ジャズ、とりわけアメリカのジャズのオーディエンスは、特別なヒエラルキーを持っていると思っていたんです。だからこそ、不安があり、格闘していたのですが、そこに誤解がありました。

    いいライブができた時は、国もジャズというジャンルも超えて、音楽を共有している雰囲気が場を包むんです。ウワーッと立って、喜びを、感動を全身で表してくれる。

    最初は、シャイボーイみないなメンタルで「マジ? 本気で褒めてくれてるの?」と思ったのですが、どうやら嘘はない。スタンディングオベーションは、僕も活力になりました。

    そんな中で、ポップス時代に書いた曲をジャズアレンジして演奏してみたら、手応えを感じたんです。『Rain』をピアノで弾くと「これ美しいメロディーだから、詞を付けて歌った方がいい!」と言われるくらいで。

    正直、自分の曲なんて、長いこと聴いてなかったので驚きました。

    ジャズだけに耳がいってた僕が、かつて自分が作ったポップの作品を真剣に聴いて、アレンジする。それによって視野が広がるような感覚があったんです。

    フェンスも垣根もないような気持ちで、自分のポップスを聴けた。80、90年代に全霊をかけて作ったものは、こんなにもキラキラした活力を与えてくれる音楽だったんだと、気がついんたんです。

    生きられる予感がする。そんな感じですかね。

    若き日の青春って、今思えば些細なことに絶望したり、ある意味で残酷で。それを全部自分で処理して、紆余曲折あって大人になった。

    その時に作った『BOYS & GIRLS』は、過去作品であるけれども、現在も生き続けていた。もともとポップスだったこの曲を、同じ人間がジャズとして、アメリカの場で「新曲です」と披露する。そうすると「おもしろい曲だ」と言ってもらえる。でも、この曲は80年代から90年代初頭に作られたポップスだと種明かしすると驚かれる。

    作者としてもわくわくするし、過去と現在が結び付いて自分の人生が、意味があるものに感じられる。

    ジャズミュージシャンとして、次で5作目のアルバムになります。ジャズもトリオ、クインテット、ビッグバンドといろいろやってきて、久しぶりにソロに回帰しようと思って。その時に、セルフカバーをやりたくなった。

    ノスタルジーではなくて、ジャズミュージシャンとして新しい音楽にしたかった。ジャズは過去の作品を、畏敬の念を込めて自分でアレンジすることも多いジャンルなので。

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    『BOYS & GIRLS』には、「10年経って出逢った時もラストは君と」というフレーズがある曲なんです。30年前だから、何回「その10年」をやっているんだ? とも思うのですが(笑)、「ラストは君と」という感覚でこれからを生きられたら、そんな素敵なことはない。

    だから、「ポップ・ミーツ・ジャズ」、「ジャズ・ミーツ・ポップ」であるこのアルバムのタイトルは『Boys&Girls』にしました。

    『格好悪いふられ方』の格好良さ

    今だからわかるのですが、「さらけ出せる格好良さ」っていうのがあると思うんです。

    例えば、英語に自信がなくても、カタコトであったとしても、誠実に心の内側をぶつけることができる格好良さってある。そういうのが、『格好悪いふられ方』に詰まってると思います。

    僕の英語は「Your English is SENGLISH」って言われることがあるんです。普通の英語ではなく、センリのイングリッシュだって(笑)。

    だから同じように「What type of jazz your music is?」って聞かれると、「Senri Jazz」と返すんです。「何それ?」と思われるかもしれませんが、僕は日本のポップスが混ざった「Senri jazz」しかできない。でも、アメリカのようなダイバーシティな社会では、そういうのがあると生き残っていけるんですよ。

    「格好悪い」って序列があるから生まれる価値観だと思うんです。年収とか、地位とか、上手い下手とか。でも、今はその序列は崩れてはじめている。人によって何に価値基準を置くかがバラバラですからね。

    思えば、僕自身、デビューしたての若い頃は、オリコン1位をとるのが夢で、ギラギラしていたのですが、『APOLLO(アポロ)』で1位になったときは「肩の荷が下りた」というのが一番でした。もちろん、嬉しかったのですが……ね。順位だけがすべてではない。

    今、57歳で夢中になれるものがあって、30歳下の同級生とInstagramでいいね!を付けあったり、同世代と深酒をしたり。どちらがいいとか、そういうのはない。

    ピアノの練習、ライブに家賃も払わなきゃ(笑)。今、毎日を少しでもいい思い出を作って、心から笑いあって、誰かと分け合って。1日あっという間に過ぎていっちゃう。「人生って何だろう?」とか「これから僕は、どこに行くんだろう?」と不安に悩む時間はない。60代はもっとキラキラしたいな。

    こんなこと、昔は格好悪くて言えませんでしたけど。でも、それが人生の醍醐味だと思うようになってきました。

    ラブソングも書きたいです。今だから掴める恋愛の煌めきってあると思うので。