サトシが21年間、ずっと変わらずに夢を追い続けていられる理由

    アニメ「ポケットモンスター」の主人公サトシの声優、松本梨香。オープニング曲『めざせポケモンマスター』はミリオンヒットを記録し、社会現象になった。ピカチュウを連れ添い、マサラタウンを出発してから21年の歳月がたった。いつも元気な松本には、こんな過去があった――。

    「あと一週間来るのが遅ければ亡くなってましたよ。仕事は諦めてください」

    医師にそう言われた。一緒に入院していた人たちも、どんどん姿を消していく。私はたった19年しか生きていない。自分もいつかここからいなくなってしまうのだろうか。歩くこともできない、座っていてもつらい。この体を捨ててしまいたいと思った。

    「トンネルの中に入ってしまった感じ……でも、まだ光はずっと遠くにあるような……」

    Photo by 黒羽政士

    ポケットモンスターの主人公「サトシ」の声優として活躍する松本梨香。彼女には「夢、途中。目の前が真っ暗になった」経験がある。

    アニメ「ポケットモンスター」の放送開始から21年。真っ直ぐ夢に向かうサトシであり続ける彼女の声は力がある。サトシの言葉は、松本の人生が色濃く反映されているのだ。ポケモンマスターになるように、夢を掴むためにはどうすればいいのだろうか?

    19歳、兄の死とドクターストップ

    「小さい時からずっと主演女優賞を獲る! 座長になる! それしかなかったです」

    劇団の座長を務める父の背中を見て育った松本の夢は、舞台女優だった。いつか父の劇団を継ぐ。物心ついた時から決めていた。

    養成所に入り、演技を本格的に学ぶ。同級生と切磋琢磨しながら、本格的に舞台女優として活動をはじめた矢先、病に倒れた。19歳だった。

    「舞台で全国を回っている時に、体調が悪くなっていって、各地の病院に行ったのですが、肺炎とか風邪だとか、そういう診断でした」

    右:舞台俳優として活躍する松本の父 左:舞台女優として駆け出し中の松本

    次第に痙攣が起き、睡眠もとれなくなり、起き上がることさえできなくなった。忸怩たる思いで舞台を降板し、地元の病院へ行くとこう言われた。

    「ステージには立たないでください。死んでしまいます」

    ちょうどその直前、松本は兄を亡くしていた。生まれつき体が弱く養護学校に通っていた兄は、松本の人間性の基礎を作った存在だった。

    兄がいじめられていると耳にすれば、飛んでいって戦いに行く。上級生であろうと、大人であろうと、「そういうのは良くないんじゃないか」と自分なりの正義感を持って抗議した。

    「小さい時から、兄というフィルターを通して世の中を見ていました。人は彼にどういう対応をするのかすごく敏感になっていて、私が守らなきゃという使命感にかられていました……サトシと一緒ですね」

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    兄がいたからこそ、明朗活発で正義感に燃える自分ができた。「父の跡を継ごう」と表現の道へ進んだのも、彼の存在が大きかった。

    そんな兄が他界し、悲しみに明け暮れている最中に自身も病を患う。幸い危篤状態から抜け出したものの、女優生命が絶たれるわけにはいかなかった。兄のためにも父を継がなければならなかったからだ。

    医師は「何十年もかけてゆっくり治しましょう」と言う。でも、舞台に立たなければ女優としては「死んでしまう」。反対を押し切り、副作用の強い薬を飲み、治療に専念した。

    朝昼注射、点滴は3本、薬は10種類……とにかく早く退院したかった。舞台に立つことはできない。でも、なんとかしたい。ベッドの上で毎日考えた。

    そんな松本のもとに来たのが、養成所の同期である山寺宏一だった。山寺は、レッスン時にコンビを組むことも多く、松本にとって切磋琢磨する相方だった。

    「今日さ、初めてレギュラーが決まったアニメが放送されるんだよ。俺も頑張ってるから見て欲しい」

    舞台一辺倒だった松本だが、山寺の存在によって「声」の仕事を知る。テレビを見ていると、確かに友人が生命を吹き込んでいた。表現するのは舞台だけではなかったのだ。

    「私にもできるかな?」

    山寺に相談する。返ってきた答えは「お前ならできるよ」だった。

    マサラタウンから来たような、元気でハツラツとした「女の子」

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    赤信号の最中、立っているのもギリギリ。耳も上手く働いてくれない。遠くで音が鳴っていた。そんな状態だったが、退院後、さっそく事務所へ向かった。

    しばらくは舞台に立てない。じゃあ私に何ができるんだろう? 久しぶりに顔を合わせたマネージャーが不意に言う。

    「これから『おそ松くん』のオーディションの現場に行く」

    こう言うしかなかった。「私もやりたい」

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    はじめてのアニメ現場。これまで舞台上から観客に向けて演技をしていたのに、ここではマイクに向かって話す。すべてが新鮮だった。

    渡されたオーディション用台本を読む。

    「赤塚さんのアニメーションだからやっぱりすごく面白い。……でも、最後のオチが惜しい感じで(笑)。こっちの方が面白いと思って、自分で書き直しちゃったんです」

    舞台と同じようにアドリブを入れて演じると、周囲に驚かれた。「こういう子が現場にいたら面白い」

    違う畑から来た元気な女の子。それが、声優・松本梨香だった。

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    ダジャレで射止めたサトシ

    すっかり声の世界にのめり込んだ松本は、アニメ、吹き替え、ラジオの現場で活躍し始める。少年役だけでなく、マリリンモンロー、ビョークなどさまざまな役どころを演じ、数年が経った頃、あるオーディションに声をかけられた。

    ©Nintendo・Creatures・GAME FREAK・TV Tokyo・ShoPro・JR Kikaku ©Pokémon


    『ポケットモンスター』だ。

    「私が呼ばれたのは、オーディションの4日目ぐらい……すごくたくさんの人が受けていているけど、ずっと決まらなかったんだと思います」

    オーディション現場で台本を見て驚いた。

    「パジャマはジャマ。ぼやぼやして遅刻したけどぼうやじゃありません」

    オヤジギャグが書いてあったのだ。声優デビュー作となった「おそ松くん」でも、アドリブで「笑い」をとった松本の性格をスタッフは知っていたのだろう。

    スタジオを見渡せば、過去に一緒に作品を作った顔なじみがたくさんいた。

    「私は盛り上げ役としてよばれたのかなと思って。オーディションって審査する方も、大勢の演技をずっと見ているから疲れちゃうでしょう? だから、息抜きというか(笑)。サービス精神みたいな気持ちで、楽しませようと思ってアドリブでダジャレをたくさんいれちゃいました」

    こうしてサトシ役を射止めた松本だったが、内定と共にもうひとつ手に入れたものがあった。オープニングテーマを歌う大役だ。

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    少しずつ、かつて諦めた夢に戻りつつある気がした。

    巨大プロジェクトは、バタバタと進められた。『めざせポケモンマスター』の楽譜を渡されたのは収録の3日前。こんな急なスケジュールは稀。心配になりつつ、楽譜を見るとまた驚いた。

    Aメロのキーがやけに低い。

    「キーを低くしなくても少年らしさは出せるけれど……大丈夫かな……」。そう思い、1オクターブ上の声を重ねてみることを提案した。そのため、「たとえ火の中水の中草の中、森の中…」は、松本の高低2つの声が重ねられている。

    「勢いで乗り切った……みんなも。どうなるんだって思っていたと思います」

    サトシは永遠に10歳だけれど、ずっと彼であり続けれる理由

    21年間、毎週サトシになり続けてきた。1000回以上、「ゲットだぜ!」と叫び続けていた。

    喉には4つのタコができた。「崖から落ちるときの声って人生のうちであんまり出さないでしょう?」と笑う。マイクで音量を調整することはできるが、毎回全力で叫ぶ。

    「声を抑えたら抑えた分だけ臨場感がなくなってしまうから」

    松本の声量でマイクが壊れたことも何度かあった。もちろんその分だけ、喉にも負担はかかる。

    積み重なった声のストレスは、ある日突然「声がでない」形でやってくる。何よりもそれが怖い。朝、目が覚めた瞬間、「あ、あ、あ…」と確認する毎日だ。

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    声の限界に挑みながらも、サトシであり続ける理由はどこにあるのだろうか? 体力面、マンネリ化……疲れてしまうことだってあるはずだ。

    「やっぱり子どもたちの顔を見るとね」

    松本は、今でも月に一度は『めざせポケモンマスター』を披露して全国を回っている。CDは120万枚も売れる大ヒット。社会現象にまでなった代表曲だ。「みんながあの歌を待っているし、歌うと喜んでくれるから」。

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    「ライブをしていると、遠くの方で子どもを肩車したお父さんが、すごく頑張っているのが見える。その光景を見るだけで涙が出てきちゃいますよね。頑張らなきゃって」

    今では、かつてサトシと同い年だった子どもたちが大人になって松本のもとへやってくる。同様に、肩車していた「お父さん」も、いつしか「おじいちゃん」になっている。

    「ポケモンの帽子を持ったお兄さんがやってきて『これ、おじいちゃんに買ってもらった』と言ってきてくれたんです。彼の隣にはおじいちゃんはいなくて。そんな子に『これからも頑張ってください』って言われちゃうとね……」

    兄が通っていた養護学校に『めざせポケモンマスター』を歌いに行くこともあった。兄なしでは今のキャリアはあり得なかったかもしれない。恩返しできたような気持ちになった。

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    「いろんな地方に行って、子どもたちと直接……笑顔のパスができることがエネルギー。テレビの前にいてくれる子たちもいるんだなって思えますし。スタジオだけにこもっていたら、マンネリ化していたかもしれません」

    「守ろうって思いますよね。大人になって、挫けそうになった時、ポケモンを見て頑張ろうって思ってくれたらいい。変わらないサトシがそこにいて、帰ってこられる場所がある。そう思ってもらえたらいいなって思って、今も続けられています」

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    10月7日から、ポケモンの放送時間が変わった。木曜日から日曜日の夕方6時に引越しすることになったのだ。

    「日曜日は会社がお休み。親子がみんなで一緒に楽しめる番組になれればいいと思います。ポケモンも21年目。2世代、3世代になったから、家族で楽しめるものになったのかな。子供だけが見るのではなくなっているのかも」

    子どもたちに支えられ、帰る場所になったポケモン。松本自身、舞台にも本格復帰し、まるでサトシのように21年を歩んできた。「演じてる気はなく、体の一部」と言うのは、こうした理由もあるからだろう。

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    取材からの帰り、久しぶりに『めざせポケモンマスター』を聴く。イヤホン越しで、サトシはこう歌っていた。

    ユメはいつか本当になるって誰かが歌っていたけど
    つぼみがいつか花開くようにユメは叶うもの。
    いつもいつでもうまくゆくなんて保証はどこにもないけど
    いつでもいつも本気で生きてるこいつたちがいる