Posted on 2017年5月14日

    母を亡くした子どもは「母の日」をどう過ごすのか?

    小学校の教室で、担任が投げかけた言葉はさまざまなことを気づかせた。

    5月の2週目。カーネーションが街を彩り、「感謝の気持ちを伝えよう」とコピーが踊る。彼女にとって、カーネーションは地獄の花だった。

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    先生、どうして私に謝ったんですか?

    彼女が8歳のときに母は癌で他界した。6歳から入院する母を見ていたので、「あと何回いっしょにごはんを食べられるんだろう」と考えながら過ごしていた。「生きて欲しい」「きっと治る」と思いつつ、そう長くはないとわかっていた。

    それでも彼女は充分に幸せだった。たくさん旅行もしたし、ピアノを弾くと褒めてもらった。母の介護用のベッドに潜り込んでは、馴染みのある香りに包まれながら眠る。そんな時間が好きだった。

    2年間の闘病のすえ、母は息を引き取った。マセた子どもだったので、「ああ、お母さんに恋愛相談したかったな」と思った。一方、葬儀の翌日、学校へ行くのが少し怖かった。

    「同級生の態度が変わっていたらどうしよう、なんて顔すればいいんだろう」

    幸い、杞憂に終わった。同級生はみんな普通で、母が他界する前と何も変わらない日常があった。少し違うとするならば、彼女が夜更かしを覚えたことくらいだ。

    それから初めて迎える「母の日」、不安にかられた。毎年の行事なので、ある程度覚悟はしていたけれども、どうしたらいいのかわからなかったのだ。

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    小学校では「お母さんありがとう」と書かれたカーネーションのバッジが全員に配布される。当時の担任は、新しく赴任したばかりの30歳。彼は、一人一人の机を回って、バッジを配っていく。

    「先生は私に渡す相手がいないことを知っているのだろうか?」
    「どんな顔をして受け取ればいいのだろう?」
    「それとも、私の分はないのだろうか?」

    先生が近づいてくるのを心の中で数えた。どうしよう、答えが見つからない。見つけなくては……。鼓動が大きくなっていく。そして自分の番がやってきた。彼はみんなと同じようにそのバッジを机に置き、困った顔をしながら小さな声でこう言った。

    「……ごめんね」

    全身が一気に熱くなり、眼球が焼ける感覚がした。思いもよらぬ言葉は、彼女から表情と言葉を奪った。少しでも口を動かせば、その瞬間に何かが溢れ出てしまう気がしたのだ。

    彼の言葉に配慮の念がこもっているのは、幼い彼女にも一瞬で理解できた。けれども、この人は、私を憐れみの対象として見ていて、同情しているんだと思うと反吐が出そうになった。涙なんて流してはいけない。できるだけ平静を装うのだ。

    泣いたら、負けだ。

    バッジはグシャグシャに握りつぶして捨てた。もちろん、一人でいる時に。

    人の優しさに感謝しないといけない。わかってる。

    彼女は、明るく、元気で、優秀でなくてはいけなかった。そうでないと憐れみのまなざしをむけられてしまうから。けれども、その気持ちと裏腹に努力するほどに虚しくなる瞬間があった。

    「お母さんどうしてんの?」という質問は、日常会話にごく自然と出てくる。するとこんな流れができる。

    「うちお母さんいないんだよ」
    「えっ…いつから?」
    「私が8歳のときかな」
    「…なんかごめん」

    幾度「うん大丈夫だよー」と、口角をあげて応えたかわからない。その度にペキッとヒビが入る音がした。

    気遣いの裏には「母がいない人生は少なからず困難である」という先入観があるように思えたのだ。この言葉を向ける人は、無意識のうちに何かと彼女の人生を比較している。彼女は自分の人生に誇りを持っているかもしれないのに。

    被害妄想なのだろうか? 自分は人に感謝ができない人間なのか? 鉛のような自己嫌悪はゆっくりと大きくなっていった。

    誠実な謝罪に隠された「まなざし」

    なぜ、担任をはじめとする配慮に嫌悪感を覚えたのだろう? 答えは、差別的なまなざしを感じたからだ。哲学者の中島義道は、『差別感情の哲学』で、こう記している。

    まなざしを向ける者はまなざしを向けられる者に対して、直接侮蔑的あるいは嘲笑的まなざしを向けるわけではない。ただ、穏やかに優しく見ていることもあろう。だが、そのまなざしの中にはやはり自己肯定の要素があるのだ。「この眼前の人でなくて自分はよかった」という隠された言葉を発しているのだ。この間接的言語をまなざしを受ける者は正確にキャッチしてしまう。

    「差別は悪い」と思っていながら、無意識のうちに差別的な視線を送った「好ましくない事実」を隠す。でも、まなざしを向けられた側は、どんなに隠されても気づいてしまう。なぜなら、これはまなざしを送った側が自分にする隠蔽だから。この行為を"自己欺瞞"と呼ぶらしい。

    彼女が感じた「まなざし」は、歴史上繰り返されてきた差別と並べると、比べられないほど甘い。でも、きっとこれは「差別の芽」なのだと思う。

    無視していた「当たり前の可能性」

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    さて、彼女自身、そのまなざしを誰かに向けていないと、胸を張って言えるだろうか? おそらく、言えない。この事実に気がついたのは、つい最近だった。ゲイの友人と話している時のことだ。

    「俺は、LGBTが差別されるのはもちろん良くないと思っている。でも、世の中には多様な視点があるのだから、差別がなくならないことを許容したいとも思ってる。俺だって、誰かを差別しちゃってることはあるだろうし」

    彼は淡々と、日常会話の中でこの言葉を発した。

    「自分も誰かを差別しているかもしれない」

    ごく当たり前の可能性を、彼女は気がついていなかったのだ。同情された怒りを盾に、自分の暴力性を無視していた。

    障がい者、LGBT……さまざまな相手を「◯◯なのに、えらいなぁ」と思った。時に使命感に駆られ、憤り、涙を流す。彼女が忌み嫌った自己欺瞞だ。

    自分が自分である限り、差別をする可能性がある

    では、彼女はその罪をどうやって償えばいいのだろう? どこを直せばいいのだろう? その答えになりうる一節が、栗原彬の『講座 差別の社会学2 日本社会の差別構造』にあった。

    はじめにまなざしがある。まなざしが他者に注がれて自己とのちがいを識別する。ちがいを認めたまなざしは自分自身へ投げ返される。そのつどの状況の中で、他者に投げられたまなざしは、瞬時に、そのつど自他のアイデンティティを振り分ける。

    しかし、まなざしはちがいの識別にとどまらず、その先に行く。まなざしは、そのつがいに力関係をもちこむ。上下、優劣、貴賤、正常―異常、中心―周縁、完全―欠如。いずれにせよ、まなざしは、一方のアイデンティティには価値付与的に、他方のアイデンティティには価値剥奪的に働く。まなざしが権力的関係を作り出し、そのことが関係の両端にある人間の相対を、傾斜的に、非対称的に規定するとき差別が完成する。

    そのつどの状況において、そのつどのまなざしが、そのつどの差別を産み、そのつどのアイデンティティを非対称的に振り分ける。

    どんなに差別のまなざしを憎んでいたとしても、自分が自分である限り、差別をする可能性がある。この途方もない真理に絶望もしたが、今まで抱いてきた怨念から解放された。

    ――彼女とは、もちろん私のことだ。

    2つのことを決めた。

    ひとつは、まなざしを向けられても相手を憎まないこと。「確かに私はこういう面もあるかもしれない。けれども違う面もあるし、あなたと同じ面もあるんだよ」と説明してもいい。優劣をつけてしまう部分を相対化すれば、まなざしによって芽生えた上下関係もあやふやになる。

    もうひとつは、自分の誠実さを疑うこと。自己欺瞞に気がつけないからだ。正義心は刃を向くことがある。差別の芽は何度でも摘んでいこう。

    こんな簡単なことに気がつくまで20年もの歳月をかけてしまった。多くの人は、このシンプルな答えをすでに見つけているだろう。でも、もし苦しい人がいるならば、どうかゆるしてほしい。自分も相手も。

    旅行に行った時、小さな女の子が母親に髪の毛を乾かしてもらっている姿を見てあることに気がついた。そういえば、母にドライヤーをかけてもらった記憶がない。でも、羨ましいと思ったこともない。「彼女」は母親と一緒にいる女の子を視界から削除していたのだ。気がつけば、親子の姿を微笑ましく眺められるようになっていた。

    ゴミ箱の前に立った「彼女」に会ったら、今の私はどうするだろうか。カーネーションをねだってしまうかもしれない。

    「それ、私にくれる?」と。