人を「主人公タイプ」と「エキストラ」の2種類で、もし分けたとしたら?
映画『HELLO WORLD』の主人公、堅書直実は、自分は後者だと主張する。
本作は2027年の京都を舞台に、仮想現実と現実の間で「子供・堅書直実」と未来の自分「大人・ナオミ」が恋人を救うために奔走し、成長する物語だ。

現実世界では、人工知能が発達してあらゆるものがオススメされ、何かを選び取るとき失敗することは昔よりずっと少なくなった。未来はもっとテクノロジーが発達し、レコメンドの精度は上がっていくだろう。最善策が提示されると、失敗は少なくなる。しかし同時に、自分で決断したという感覚も薄れていく。
そんなとき、人はどうやって自分を自分だと認識するのだろうか? 今より少し先の未来を生きる直実は自らを「僕なんて、ただのエキストラ」と言う。そんな彼は、物語でどんな成長を遂げるのか。
スクールカーストがなくなった時代

主人公、堅書直実は京都に住む男子高校生だ。伊藤智彦監督は直実のことを「よくいる平凡な高校生。何事にも一歩踏み込めない。何かに流されて生きている子」と述べる。
ごった返す購買ではオロオロしてるうちに売れ残った「普通の味」のねじりパンを買い、「読書が好きなの?」と聞かれたら「広く浅く」と答える。周りから「本が好きなら図書委員をやりなよ」と言われて、渋々引き受ける。そんな高校生活が描かれる。

「もしかしたら、直実が昭和生まれだったらのび太くんのようにジャイアンみたいな存在にいじめられているかもしれません。でも、今の学校は少し違う」
制作チームは、プロジェクトの初期段階で京都の高校に取材したという。

「今の……取材した高校には、クラス内に身分制度のようなものがなかった。進学校なので、基本的に勉強好きが集まる環境だったということもあったかもしれませんが、運動が苦手な子でも堂々としていられる雰囲気がありました」
かつて学校といえば、明るく華やかなグループと地味で静かなグループとで人間関係に空気のような序列があった。そんな現実とリンクするように、学園を舞台にした物語はこのようなスクールカーストを描くものも多かった。

「2010年ごろから、教室内の身分制度がなくなりつつあると聞いていたのですが、ああ、本当なんだって思いましたね。アメリカのフィルム界は『glee/グリー』以降、物語においてスクールカーストが少なくなっているように見えます。ガキ大将といじめられっ子という世界観はリアルじゃなくなってきている」
舞台は2027年。そこは、陽キャ/陰キャで上下関係が生まれることのない平和な世界。読書が好きでひ弱な直実が、もし昭和に生まれていたら、この物語は成立しなかった。
「自分の好きなものを見つけている方がかっこいいとされる世代というか。周りから勧められる形で図書委員になるくだりは、仕方ないなぁと思いつつ、ネガティブではない。直実は誰かに言われてようやく決められるタイプの人間……決断力がないんです」

決断力がなくても誰にも責められない。いじめもない。安定した毎日はあるものの、エキストラ感覚は抜けない。なぜ、決断を恐れるのだろうか?
失敗したくないから、だ。
現実には、失敗がある。現実は出来合いの物語ではない。大好きな読書の世界とは違い、期待と興奮に胸を高鳴らせた後に、必ず幸福な結末が待っているとは限らない。取り返しのつかない失敗をしたならば、大切なものは、そのまま無慈悲に失われてしまう。そう思うと手が止まった。──小説版『HELLO WORLD』野﨑まど
決断しなければ誰かを傷つけることもなく、傷つけられることもない。でも、ぼんやりと手応えがない。直実自身、このままではいけないと心のどこかで思っている。
「とにかく変わらなきゃ」と思い、書店で『決断力』というタイトルの自己啓発本を手に取る。ページをめくってみてもそれっぽいことが書いてあるだけで、成功までの道筋は描かれておらず、首をかしげるばかりだ。日常的な行動の中に、現代の悩みが描かれる。
大人は完璧でない
そんな「子供・直実」の前に10年後から来た「大人・ナオミ」が現れる。言葉は乱暴で、人のペースを考えずにどんどん前に進むナオミは、16歳の直実とは正反対に描かれる。
「今日から3ヶ月後、お前は(同級生の)一行瑠璃と恋人同士にとなる」と告げ、さらには瑠璃が命を失うのでそれを防ぐように言う。恋人を救うために未来からやってきたのだ。弱々しい「子供・直実」に対して「大人・ナオミ」はやりたいことが明確。主人公を強引に導く。

「子供・直実がひ弱な分、かっこよさは大人・ナオミに引き受けてもらいました。10年後から来た自分にいろんなことを教えてもらう。子供・直実は大人・ナオミのことを『先生』と呼んでいる程度には、メンター的な役割です」
大人・ナオミは、子供・直実に『最強マニュアル』なる日記を渡す。未来の預言書でもある日記に沿って行動すれば、確実に一行瑠璃と付き合える指南書だ。これは成功を確約しない自己啓発本とは違う。
大人・ナオミが作った『最強マニュアル』に基づき、着実に成功への道を進みながら子供・直実は成長していき、信頼関係で結ばれる。

しかし、物語の終盤でナオミの本当の姿が明らかになる。ナオミが物語で請け負っているのは先生的なポジションだけではない。「間違った成長」のメタファーでもあるのだ。瑠璃を再び目覚めさせるためにどんな手段も厭わない。エゴのために奔走する様は、かっこよさとは程遠く滑稽にも見える。
「若い人たちは、先生とか上司を頼りにしたいでしょう。でも、僕も今『監督』と呼ばれていますけど、自分を含めて100%完璧な人間なんていない。幻想なんですよね」
「間違うこともあるし、独りでは何も出来ない。映画だってそう。みんなが補ってくれて完成するんです。でも、ナオミは常に完璧であり続けようとした。弱さとか欠落をひた隠しにしてきたんじゃないでしょうか。それを自覚した時に本当の成長をする」
ナオミは直実とは違って「瑠璃を救う」という目的がはっきりしている。決断しているように見える。
10年後から2027年の世界にアクセスできるようになる仕事につくためには? そのためにはどんなキャリアが必要か? どこの大学に行けば良いのか? そのためには一日何時間勉強すれば良いのか?

瑠璃を取り戻すという目標達成のために決められた人生を歩んできた。それは敷かれたレールを歩んでいたとも言える。
「物語では主人公って、自分に欠けているものを埋めて成長するのが一般的です。欠落を埋める作業をするのは、16歳の直実なのかと思いきや、実は大人のナオミでもあった。ナオミは間違った成長というか、歪んでいるんです」
先生であるナオミの不完全さが見えた時、少年の直実は1人で決断し、先の見えない中に飛び込む。その姿を見て、大人・ナオミは子供・直実こそが主人公であり、自分はエキストラのままでいたことに気がつく。
エキストラはどうしたら主人公になれるのか

大人のナオミが悪で、子供の直実が善。そんな簡単な話ではない。なぜなら2人は同一人物だからだ。
「何かに立ち向かわなくてもいいと思うんです」
伊藤監督は言う。これまで、多くの物語の主人公はなにかに立ち向かうことで成長し、成功を収めてきた。それは時に世界を救うことだったりする。
それをなくして、主人公に足り得るのだろうか?
「現実」に、保証された答えなんてない。
だから僕は。
何の保証もないことを、言おうと思った。
「きっとここは」
真っ白いセカイに、最初の一行目を書き込む。
何を書いてもいい世界で、僕は。
何を書くかを、自分で決めた。──小説版『HELLO WORLD』野﨑まど
「思い切って一歩行ってみなよ、と思うんです。自分をエキストラ的な存在だと思ってしまうことは確かにあるかもしれない。でも、きっとチャンスはいろんなところにある」
好きな女の子の手を握ってみるとか、目的から逸れた決断をしてみるとか、どこかで聞いたことがあるような言葉ではない自分の言葉を言ってみるとか。
「その瞬間、頑張って一歩踏み出すと決める。結果はどうなるかわからない。でもそう決めた瞬間、人は主人公になるんじゃないかな」
”HELLO WORLD”
プログラミング入門者が最初に学ぶ一行だ。
この一行を書く。それは何でも作れる世界の入り口に立つことを指す。