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横浜の知られざる墓地で続く和解の礼拝 受け継がれ続ける元陸軍通訳の志

横浜に英連邦戦死者墓地という、あまり知られていない墓地がある。そこで例年8月、追悼礼拝が開かれる。26年続く礼拝は、戦時中に日本軍の通訳として捕虜の拷問に立ち会い、戦後を和解にかけた男性の思いから始まった。

横浜市保土ケ谷区の丘の上に、緑の芝生が拡がる、あまり知られていない墓地がある。英連邦戦死者墓地という。

ここに葬られているのは、主に英国とオーストラリア、カナダ、インドなど英連邦地域から第二次大戦に従軍した兵士らだ。

日本軍の捕虜となって日本本土の収容所に移送され、炭鉱や軍需工場での重労働や栄養失調などで亡くなった1800人超が眠る。

ここは戦前、公園だった。戦後、日本政府がイギリスに本部を置く英連邦戦死者墓地委員会に無償貸与した。

この地で1995年から毎年、8月の第1土曜日に、戦没者の追悼礼拝が開かれている。

2020年8月にも26回目となる礼拝が行われた。

ニューランド、オーストラリア、インドの日本駐在武官など、旧連合軍関係者を含む200人近い人々が集まり、献花した。

人々を今もこの場に集めるのは、戦時中に日本軍による捕虜の虐待や拷問に立ち会い、戦後の半生を和解と謝罪に捧げた永瀬隆さん(1918−2011)という男性が紡ぎ続けた、深く、強い思いだ。

泰緬鉄道で捕虜拷問に立ち会う

永瀬隆さんは1918年、岡山県に生まれた。今の青山学院大学で英語を学び、1941年に繰り上げ卒業した。

「お国のため」が当たり前の時代。永瀬さんも、そう信じていた。真珠湾攻撃の3日前、勇んで徴兵検査を受けた。しかし、小柄で細身だったため補充兵の扱いとなり、すぐに入隊させてもらえなかった。

代わりに陸軍の英語通訳に志願し、タイ北西部カンチャナブリの憲兵隊に配属された。

カンチャナブリ周辺では当時、クワイ川を越えてタイとビルマ(当時)を結ぶ泰緬鉄道の建設が進んでいた。

日本軍はビルマ方面への戦略的な補給・輸送ルートとして建設を急ぎ、多数の連合軍捕虜と、アジア各地からの労務者を動員して突貫工事で作業にあたらせた。

捕虜らは激しい労働と栄養失調に苦しみ、約6万2千人のうち、1万2千人が死亡した。「枕木1本に死者1人」と言われる惨状だった。

この話はフィクションを交えたかたちで「戦場にかける橋」(デビッド・リーン監督、1957年)として映画化され、世界的に知られるようになった。カンチャナブリの鉄橋は今、多くの人々を集める観光地となっている。

捕虜の強制労働は国際法違反だが、当時の日本軍は個々の兵士に対し、こうした国際法の教育を十分行っていなかった。また、日本兵にとって、敵の捕虜になることはタブーだった。「生きて虜囚の辱めを受けず」と教育されていたからだ。

捕虜が拷問を受けることもあった。

カンチャナブリの捕虜収容所で、捕虜がラジオを隠し持って通信を傍受していたことが発覚。関係した捕虜らが激しく拷問された。

永瀬さんは、この拷問に通訳として立ち会った。日本軍将校は、取り調べのため捕虜に殴る蹴るの激しい暴力を加えたうえ、水責めの拷問を加えた。

この時のことを、永瀬さんは著書「『戦場にかける橋』のウソと真実」に、こう記している。

戦争は人間の心を野獣にする、私は貧血を起こして真っ青になり、「日本軍の通訳がなにごとか」と気合いを入れられる始末だった。しかしこういう情景も何度も見ていると、人間慣れがでてくる。それが恐ろしい。

惨状に見かね密かに励ます

永瀬さんは軍人ではなく通訳の立場だったため、捕虜に直接、暴行を加えてはいない。「マザー」「マザー」と叫んでもだえ苦しむ捕虜の姿を見かね、小声で「Keep your chin up(がんばれ)」とささやいた。

その時、捕虜の目が輝いた。

エリック・ローマクスという、英エジンバラ出身の兵士だった。

ローマクスさんは幼い頃から鉄道が好きだった。しかし、収容所で鉄道の路線図を描いて持っていたことから、スパイの疑いをかけられた。「列車が好きなだけなんだ」と説明しても、日本兵らは聞き入れなかった。

Meet the real Eric Lomax - the man behind new film The Railway Man http://t.co/V3iRqxzVBG

Twitter: @BazaarUK / Via Twitter: @BazaarUK

捕虜になる前のローマクスさんの写真を添え、その人生を紹介する英バザール誌のツイート(ツイート内リンク先の記事はすでに削除されている)

ローマクスさんはこの時、両腕骨折などの重傷を負った。なんとか生き延びて戦後に帰国できたが、悪夢やフラッシュバックなどのPTSDに長く苦しみ続けた。

目撃した膨大な十字架

1945年8月15日、日本は無条件降伏した。今度は日本軍が連合軍の捕虜となる立場となった。

連合軍は日本軍による捕虜虐待の実態を調べる調査隊を結成した。永瀬さんは、今度はその通訳として動員された。タイ・ビルマの国境地帯に広がる密林の奥で膨大な屍を見た。

全員の遺体を見つけて記録し、手厚く葬り直そうとする連合軍側の執念に、永瀬さんは驚かされた。そして、日本軍がもたらしたあまりにも大きな犠牲を目の当たりにした。

私は仰天して立ち止まった。

十字架の山、というか十字架の集団の丘を見たからである。

私は自分の目を疑った。

(永瀬隆「ドキュメント・クワイ河捕虜墓地捜索行」より)

そして、十字架の数を数えようとして、手を引っ込めた。

日本軍の一員たる私が十字架の数をかぞえること、加害者が被害者の数をかぞえるとは何たる人間への冒瀆であろうか。

謝罪と和解の旅に130回以上渡航

永瀬さんは戦後、日本、そして自らの加害責任と向き合い続けた。

国民の海外渡航が自由化された1964年、タイに渡り、カンチャナブリにある連合軍の墓地に立った。そこに眠るのは、19年前に遺体を探して歩いた捕虜の人々だ。

墓地中央の十字架の前で手を合わせると、不思議なことが起きた。

身体が黄色い光に包まれ、「私の罪は許された」と感じたーー。永瀬さんはこの体験をその後、繰り返し語っている。

永瀬さんはその後、130回以上タイに渡り、現地に残されたままのアジア人労務者や、貧しい人々への支援を続けた。1986年には慰霊のため現地に「クワイ河平和寺院」を建立。タイ仏教の僧侶として得度した。

さらに、タイ人の留学生を日本に受け入れたり、現地の看護学生に奨学金を出したりした。永瀬さんの仕事は自宅で開く英語塾の講師。決して裕福ではなかった。それでもお金を出し続けた。東南アジア各地から連れてこられ、戦後もタイに放置されていた元労務者の帰郷も実現させた。

「あれだけ迷惑をかけた戦争のあとで日本兵が復員する時、タイ政府は苦しい中でも、一人ひとりに飯ごう1つ分の米と、中蓋1杯のザラメ糖を持たせてくれた。その恩を、決して忘れてはいけない」。永瀬さんはそう言い続けていた。

さらに現地で連合軍の元捕虜と対面し、謝罪と和解を模索し続けた。

英国から届いた手紙

こうした活動は、やがて英国などでも知られるようになった。

1991年、永瀬さんに英国から手紙が届いた。

差出人は、ローマクスさんの妻パトリシアさんだった。新聞に取り上げられた永瀬さんの記事や手記を読んだという。

「あなたは手記の中で、カンチャナブリの墓地の十字架の前で自分の罪は許されたと記していますが、果たして私の夫は許しているでしょうか。私はそうは思いません。どうか夫と文通を始めてやってください」

こうして、永瀬さんとローマクスさんの交流が始まった。2年後、2人はクワイ河鉄橋を望むレストランで再会した。

「あなたが最後に言ったことを、まだ覚えていますよ」とローマクスさんは言った。「思い出せません」という永瀬さんに、彼は一言一言ゆっくりと区切りながら言った。

「Keep Your Chin Up」

永瀬さんは「触っていいですか」と言い、ローマクスさんの手を握った。

「あなたが拷問を受けていた時、私は心配になって手首の脈を取ったのです。正常だったので、安心しました」

「日本軍の一員として、あなた方を人道に反する扱い方をしたことを本当に申し訳なく思います」

それにローマクスさんは「Thank you very much」と柔らかい口調で応じた。
永瀬さんは「これで安らかに死ねる」とつぶやいた。

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youtube.com / Via youtu.be

永瀬さんとローマクスさんが再会した場面を収めた海外のドキュメンタリー映像。

ローマクスさんは1995年、戦時中の過酷な体験から50年後の永瀬さんとの和解までを記した自伝を出版。各国で計数十万部を売り上げるベストセラーとなった。

ローマクスさんは2012年に93歳で亡くなった。その自伝は2013年、事実を元にしつつ創作部分を含んだかたちで映画化。日本では「レイルウェイ 運命の旅路」(ジョナサン・テプリツキー監督)という邦題で公開された。

ローマクスさん夫妻をコリン・ファースとニコール・キッドマンが、そして永瀬さんを真田広之が演じた。

なお、この映画では永瀬さんは兵士で、捕虜に直接、暴力を加えたことになっているが、ここは創作された部分で、事実ではない。

永瀬さんは兵士ではなく、軍属の通訳であり、捕虜に暴力をふるってはいない。それでも「日本軍の一員として責任を感じる」と和解活動を続けてきた。

日本軍の捕虜虐待、そして永瀬さんとローマクスさんの和解を巡る話は、今の日本で広く知られているとは言えない。

一方、英国やオーストラリアなど英連邦圏では、大物俳優が出演する映画になるほどの知名度がある。

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KADOKAWA映画 / Via youtu.be

映画「レイルウェイ 運命の旅路」の日本版予告篇

横浜の追悼礼拝を導いた日本兵脱走事件

永瀬さんは1989年、オーストラリアのカウラという街を訪問した。

カウラにはかつて、連合軍の捕虜となった日本人の収容所があった。そして1944年、日本人捕虜の脱走事件が発生。230人を超える日本人捕虜が死亡した。

カウラでは地元の人々の手により、この時亡くなった日本人の墓地が、オーストラリア軍兵士の墓地の隣にきれいに整備されていた。しかも、周囲には桜まで植えられていた。

これを知った永瀬さんは、日本軍の捕虜となり亡くなった連合国軍の人々を手厚く弔うことは、返礼として日本人の最低限の義務と考え、横浜英連邦戦死者墓地での追悼礼拝を提案した。

「この墓地は、ここに葬られている連合諸国と日本の人々の親善をつなぐ太いロープだ。なぜこの宝物を有効に尊重しないのか」と呼びかけた。

そこに協力したのが、母校・青山学院大の雨宮剛教授(現名誉教授)と、元捕虜アーネスト・ゴードンさんの著書「クワイ河収容所」(ちくま学芸文庫)を翻訳した国際基督教大の斎藤和明教授だった。

3人が呼びかけ人となり、戦後50年となる1995年、第1回の追悼礼拝が開かれた。

瀬戸内海放送(高松市)の満田康弘さんは長年にわたり永瀬さんの取材を続けてきた。膨大な取材結果を、ドキュメンタリー映画「クワイ河に虹をかけた男」と、同名の著書にまとめた。

満田さんはBuzzFeeed Newsに、永瀬さんの取材を続けた理由をこう語る。

「永瀬さんはよく『僕は青山学院で罪の意識とヒューマニズムを学んだ』とおっしゃっていましたが、その精神があったからこそ、人間一人ひとりを尊重しない戦前の日本の軍国主義と戦争を憎んだんだと思います。捕虜であれアジア人労務者であれ、日本兵であれ、かけがえのない存在だと」

「カウラ事件で亡くなった日本人捕虜を地元の人たちが手厚く葬っていることを知ったことが、横浜の追悼礼拝を始めた直接のきっかけだったことが、それを象徴していると思います」

「最初は僕も日本軍の加害責任に向き合う日本人がいたことに衝撃を受けたわけですが、加害被害を超えた普遍性を、永瀬さんが体現していたことに最も惹かれたんだと思います」

永瀬さんを支えた師の思いを継承

追悼礼拝はその後、毎年続いた。しかし斎藤和明さんは2008年、永瀬さんも2011年に93歳で亡くなった。

残るもう1人の呼びかけ人の雨宮さんはご健在だが、とはいえ1934年生まれの85歳。主催者として真夏の行事の準備に奔走することは難しくなっている。

筆者(貫洞)は1997年と98年の礼拝を取材した。その後、転勤などによって離れていたが、2020年の礼拝を22年ぶりに取材すると、雨宮さんに「久しぶりだね」と声をかけられた。

雨宮さんは1997年の礼拝で私に「この礼拝は、永久に続ける」と断言していた。それを思い出し「あの言葉通り、ずっと続いてますね」と言うと、笑顔で言った。

「後継者が現れてくれたからだよ」

いま礼拝の実行委員会代表を務めるのは、奥津隆雄さん(53)。雨宮さんの青山学院大での教え子だ。2013年の礼拝から、代表の座を引き継いだ。

奥津さんは1987年に青学大に入学した。1年次で雨宮教授の「英語講読」の授業を取った。「鬼の雨宮」の異名を取る厳しさもあったが、脱線してフィリピンの貧困や戦争被害の話をする教授に惹かれた。

奥津さんは大学を卒業後、中高の英語教員を経て、キリスト教の牧師となった。そして、10回目の礼拝から本格的に参加するようになった。10年の時を経て、恩師の雨宮さんらが「永久に続ける」と始めた追悼礼拝の代表の座に、自分が就くこととなった。

「継承こそが重要なんです。私は雨宮先生や永瀬さんの志を受け継ぐことにしました。これを、私の次の世代にも引き継いでいきたいと思っています」

10代も礼拝に参加

今年の礼拝に集まった200人近い人々のなかに、20人ほどの高校生のグループがいた。横浜市立東高校の生徒たちだった。

三年生の女子生徒(18)は、校内で張り出された案内を目にするまで、横浜にこんな場所があるのを知らなかったという。

芝生に並ぶ墓石には、一人ひとりの名前と所属、亡くなった日が刻まれている。「家族からの一言とかも書いてあるじゃないですか。それを見て初めて、75年前の戦争で亡くなった人のことを、実体を持って感じられました」

永瀬さんの思いは、今を生きる若者たちにも受け継がれようとしている。

【参考資料】

・永瀬隆「『戦場にかける橋』のウソと真実」(岩波ブックレット)

・永瀬隆「ドキュメント クワイ河捕虜墓地捜索行」(社会思想社)

・満田康弘「クワイ河に虹をかけた男」(梨の木舎)

・Eric Lomax「The Railway Man」(Vintage Books, London)

・英連邦戦没捕虜追悼礼拝実行委員会編「英連邦戦没捕虜追悼礼拝20年歩み 平和と和解への道のり」

(アップデート) 映画に関する解説を加えました。