ミャンマー国軍がアウンサンスーチー氏を拘束 その足跡とクーデターの背景を探る16枚の写真

    ミャンマー国軍が2月1日、クーデターを決行して民主化運動の象徴だったアウンサンスーチー外相兼国家顧問を拘束した。なぜ、生涯4度目の拘束を受けることになったのか。その功績と、拘束の背景を16枚の写真で探る。

    ミャンマー民主化の象徴で事実上の国家元首だったアウンサンスーチー氏が4度目の拘束を受けた。

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    ミャンマーの与党・国民民主同盟(NLD)を率い、「国家顧問」として事実上の最高指導者の地位にあったアウンサンスーチー氏が2月1日、ミャンマー国軍に拘束された。軍によるクーデターだ。

    国軍は1年間の「非常事態宣言」を発令。全権を掌握したと発表した。

    日本でも民主化運動の指導者として広く知られるアウンサンスーチー氏は、どんな足跡を印してきたリーダーなのか。なぜ4度目の拘束を受けたのか。軍の狙いは何か。16枚の写真で探る。

    (写真は2019年10月の来日時)

    1988年に帰国し民主化のリーダーに

    AFP=時事

    1945年、ビルマ(当時)独立運動の指導者アウンサン将軍の長女として生まれた。

    若い頃は学者として研究活動を続けた。インド・デリー大学を卒業後、英オックスフォード大学に留学。政治学などを研究した。オックスフォード大で知り合ったイギリス人男性と結婚。1985年からは京都大学の客員研究員として約1年、日本に滞在した。

    転機となったのは1988年。母が体調を崩して帰国。民主化運動が盛り上がる中、仲間らと国民民主同盟(NLD)を立ち上げ、民主化運動のシンボルとなった。

    写真は1988年8月、ミャンマーの首都ヤンゴンで、軍事政権に反対するデモで演説する姿。

    ノーベル平和賞授賞式には軟禁で出席できず

    AFP=時事

    ミャンマーは1948年に英領から独立した。1962年、ネウィン将軍がクーデターを起こし、それから軍による統治が続いてきた。

    民主化運動の拡がりに、ミャンマーでは1990年、総選挙が行われた。NLDが圧勝したが、軍政がアウンサンスーチー氏を拘束し、自宅に軟禁。選挙結果で示された民意は無視された。

    ひるまず民主化運動を続けるアウンサンスーチー氏は1990年、ノーベル平和賞を授賞した。しかし、軟禁下で授賞式に首席することはできず、2人の息子たちが代理でメダルを受け取った。

    アウンサンスーチー氏の解放を求める声は世界に広がった

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    彼女の解放を求める抗議活動は世界中で続いた。写真は1993年、ウィーンで国連人権理事会が開かれた際の解放要求デモ。

    軟禁中の自宅からフェンス越しに演説

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    1995年、軟禁されている自宅のフェンスの上から、支持者らに演説した。軍部はNLDへの弾圧を強めた。

    会えないまま夫は病没

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    軟禁されていたヤンゴン市内の自宅。湖に面している。

    英国で暮らす夫マイケル・アリス氏はがんに倒れた。

    軍政は夫のミャンマー入国を認めなかった。もし彼女が英国に向かえば帰国できなくなる危険性があった。

    国連事務総長やローマ法王も人道上の観点からミャンマー軍政に事態の打開を要請したが、軍政の態度は変わらなかった。マイケル氏は妻に会えないまま、1999年に亡くなった。

    繰り返された解放と軟禁

    AFP=時事

    軍政は状況によって解放と軟禁を繰り返した。

    2002年5月6日に解放された際は熱狂的な支持者らに迎えられたが、翌年にはまた軟禁された。通算約15年にわたり軟禁状態にあった。

    それでも続いた民主化運動。日本人記者も犠牲に

    AFP=時事

    軍政下で厳しい弾圧を受けながらも、ミャンマーの民主化運動は続いた。

    2007年09月27日には、民主化デモを取材していた日本人ジャーナリスト長井健司さんが軍の銃撃を受けて殺害される事件が起き、国内外で軍政への非難が強まった。

    写真は、撃たれた長井さんを現場から連れ去る治安部隊。

    ようやく本格的な解放へ

    AFP=時事

    軍政が次第に態度を軟化させるなか、2010年11月にようやく、計3度に及んだ自宅軟禁から解放された。

    NLDを政党登録。自らも議員となり政治の道に

    Soe Than Win / AFPŽžŽ–

    2011年11月23日、元軍政ナンバー3で下院議長のトゥラシュエマン氏(右)と会談した。自ら率いるNLDを政党として登録させる手続きを行い、2012年の下院補選に立候補し、国会議員となった。

    2015年総選挙でNLDが2度目の圧勝

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    2015年に行われた総選挙で、NLDは軍政の翼賛政党を下して圧勝した。写真は勝利の知らせに喜びの声を上げる支持者ら。

    軍政は2015年の選挙後、1990年の時のように選挙結果を無視したり、軟禁することはなかった。

    この事態を予期したのか、与党NLD党首の彼女が国家元首となれない条項を、軍部は憲法に仕込んでいたのだ。

    軍政下で起草された憲法には「外国籍の家族がいる場合は大統領になれない」という条項があった。1999年に亡くなった夫は英国籍。2人の息子たちも英国籍を持っていた。これに抵触することになった。

    NLDは折衝を続けたが、大統領就任に対する軍部の抵抗は強く、代わりにNLD幹部が大統領に就任した。アウンサンスーチー氏の外相兼国家顧問となり、「事実上の国家元首」として、国際政治の舞台に登場した。

    各国で首脳待遇に

    時事通信

    各国の首脳も、事実上の国家元首として彼女に向き合った。各国と首脳会談を重ね、ミャンマーの民主化と経済発展への支援を要請した。

    写真は2019年10月、会談を前に安倍晋三首相と握手を交わす姿。

    しかし、国内問題で批判が

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    「民主化の象徴」として高い知名度を保ってきたが、ミャンマーの国家運営に携わるようになると、厳しい批判にもさらされた。

    その最大の焦点は、ミャンマー軍と治安部隊が2017年、イスラム系少数民族ロヒンギャの村を焼き討ちし、数十万人単位の住民らの弾圧と追放を行った、いわゆるロヒンギャ問題だ。

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    ミャンマーでは、軍部が政治と行政、経済の実権を失うことを恐れ、陰に陽に圧力を加えていた。

    50年以上に渡り独裁を続け、国中に諜報網などを張り巡らせてきた軍部がその気になれば、いつでも文民政権をひっくり返すことができる。そういう危惧は、内外で常に続いていた。

    また、与党党首として民族問題で不用意に発言し、ミャンマーの多数派・仏教徒の支持を失うわけにもいかないという政治的思惑もあったとみられている。

    ノーベル平和賞受賞者が事実上の元首となっている国で、大規模な民族弾圧が起きたこと。そして、受賞者が弾圧を明確に批判しないことに、世界中で非難と落胆の声が出た。

    写真は2017年、インドネシアで行われたロヒンギャ問題の批判デモ。彼女を「血塗られた指導者」と批判するプラカードも登場した

    懸念されていたクーデター

    AFP=時事

    2020年11月、ミャンマーで総選挙が行われ、NLDが再び圧勝。軍政の翼賛政党は惨敗した。

    しかし軍部は「有権者登録などで不正があった」という主張を公然と始めた。2021年2月1日の国会開催を控え、「軍がクーデターを起こすのではないか」という観測が内外で高まるようになった。

    国連のグテレス事務総長も軍が実力行使に出る事態を懸念し、1月28日付で、「選挙に関する議論は合法的に解決されるべきだ」とする声明を出していた。

    ヤンゴンや首都ネピドーなどでは、軍や警察の部隊が各地に展開を始めた。写真は1月29日に撮影されたものだ。

    4度目の拘束はいつまで

    AFP=時事

    2月1日、ミャンマー国軍は世界各国で懸念されていたクーデターを決行。アウンサンスーチー氏とウインミン大統領(左)らを拘束した。

    4度目となる拘束は、いつまで続くのか。

    選挙結果をないがしろにしたミャンマー国軍に対する国際的な圧力は、どこまで高まるのか。

    発足したばかりの米バイデン政権はどう対処するのか。

    長年にわたりミャンマー軍政の後ろ盾となり、民主化に後ろ向きな中国は。中国に対抗して影響力を強めようとしてきたインドは、そして経済協力を強化してきた日本は。

    「アジア最後のフロンティア」と呼ばれ、各国が次々と投資してきたミャンマーの行方に、懸念が高まっている。

    Contact Kando, Yoshihiro at yoshihiro.kando@buzzfeed.com.

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