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日本のトップシーンを走るカナダ人アーティストが考える多文化共生の道 MONKEY MAJIKに聞いた

仙台をベースに活動を続けるバンド「MONKEY MAJIK」のフロントラインに立つカナダ出身のプラント兄弟に聞いた。

日本で18年にわたり音楽活動を続け、武道館のワンマンライブやチャート1位獲得など、人気と実力を兼ね備えたトップミュージシャンとして活動を続けるカナダ人の兄弟がいる。

バンド「MONKEY MAJIK」でボーカルとギターを務めるメイナード・プラント(43)と、弟のブレイズ(38)だ。

青森でバンドを結成。仙台に拠点を移した。

メジャーデビュー後も宮城県に暮らし続ける2人が見続けてきた、日本とは。

そして、日本の地域社会が外国人と共生していく道とは。

日本の言葉と文化を柔軟に受け入れた背景は

2人は成人してから来日して日本語を学び、音楽を含めて日本の文化を受け入れ、日本で暮らし続けてきた。

日本語にはよどみがなく、このインタビューも主に日本語で行った。

日本という、全く異なる文化に飛び込むことができた背景には何があるのか。

メイナードは言う。「もしかすると日本語を覚えられたのも、(英語に加え)フランス語を身につけたことで、言語的な能力が発達したのかもしれない」と。

どういうことなのか。

マイノリティの環境に飛び込んだマジョリティ

2人が育ったのは、カナダの首都オタワのバニエ地区だ。

オタワは主に英語が使われている都市だが、バニエは歴史的に、フランス系が多数派を占めてきた。今もフランス語を話すアフリカ系や中東系など、さまざまな文化的背景を持つ住民が集まっている。

「あのころのバニエは何というか、ラフな地域だった。『どこの出身だ』と聞かれてバニエと答えると、だいたいみんな、『ああ、OK、OK』となってた」と、ブレイズは笑う。「不思議な文化がある地域だった」。

不思議な文化とは


2人の両親は英語を母語とし、家庭内の会話もすべて英語だった。だが、フランス語もできた方が将来の幅が広がるという両親の方針もあり、子どもたちはフランス語教育の学校に通った。

カナダは、連邦政府レベルで英語とフランス語の二言語主義を採る国だ。

特にフランス系の多いケベック州では、フランス語が唯一の公用語に指定されている。同州の最大都市モントリオールでは、地下鉄やバスのアナウンスも全てフランス語だ。

16世紀からフランス人が入植を始めたが、北米大陸の覇権を争った英仏間の戦争の結果、フランスが敗れて英国領になったという経緯から、フランス系の文化との言語が維持されているのだ。

2016年国勢調査では、英語を母語とするのは国民の58%で、21%はフランス語を母語とする。18%は英仏両語を話す。

セリーヌ・ディオンやアヴリル・ラヴィーンらフランス系のアーティストも少なくない。現首相ジャスティン・トルドーもフランス系の家系。自らの選挙区モントリオールでは、ジャスティンではなく、フランス語読みで「ジュスタン」と呼ばれる。

メイナードとブレイズの場合、英語系という「マジョリティ」が、あえてマイノリティの環境に身を置いた、ということになる。

家庭では英語、学校ではフランス語。学校の外でもクラスメートとはフランス語、オタワ中心部での買い物などは英語という風に、日々の暮らしの中で、常に二つの言語と文化の間を行き来した。

2人はバイリンガルに成長した。とはいえ「バイリンガルになるというのは、そんなに簡単なことではなかった」という。

言語を話すことと文化の理解の違い

2人は高校生のころ、それぞれ別の州に住む親族を頼って実家を離れ、英語教育の学校に移った。

オタワでフランス語による教育を受け続ければ、英語教育の大学に進学するのが難しくなる。カナダにはモントリオール大学などフランス語教育の名門校もあるが、英語の大学の方が、数は多いのだ。

メイナードはサスカチュワン州の高校に行った。ブレイズはアルバータ州に移った。いずれも英語圏の地域だ。

そこでショックを受けた。

ブレイズは言う。

「自宅ではずっと英語を話してきた僕は、『英語のネイティブ』のはずだった。それなのに、アルバータで英語のハイスクールに移ると、フランス語の学校では得意だった即興劇(インプロビゼーション)の授業や、友人との会話でも、完全には追いつけなかった」

「ジョークのセンスすらも違った。オタワで僕らは、フランス文化のカナダで育った。だがアルバータの高校に行くと、そこは英語文化のカナダだった」

そこで気づいたことがある。

「言葉が話せることと、その奥にあるディープな文化を完全に理解することは、別だった。考え方も教育システムも違う場所に行き、それを感じた」

ちなみに、日本のジョークセンスは、よりフランス系に近いという。

「イギリス文化のジョークはもっとドライで皮肉が強くて、日本みたいにツッコんでもらえない」とメイナードは笑う。

ジャミロクワイは残虐?

もう一つ、カナダでの日々で2人の印象に残っているのは、歴史観の違いだ。

イギリスとフランスは北米大陸で、それぞれ別の先住民と組んで覇権を争った。「フレンチ・インディアン戦争」(1755〜1763)だ。

この戦争について、最初に通ったフランス系の学校では、フランスと手を組んだ先住民の部族を「味方」というイメージで教えた。イギリスと組んだ先住民イロコイには「敵」「残虐」というイメージがあった。

ところが英語圏の高校に転校すると、先住民を巡るイメージは正反対になっていた。フランスと組んだ部族が「悪役」で、イロコイは平和的で友好的な人々として扱われていた。

フランス系カナダ人の間では、この戦争は「征服戦争」と呼ばれる。歴史への視点が、同じ国でも使う言語とルーツによって異なっていたのだ。

これで困ったのは、「ジャミロクワイ」が音楽シーンに登場した時のことだ、とメイナードは苦笑いする。

ジャミロクワイというグループ名は、英語圏でイロコイに対して広く持たれている「ピースフルでエコな民族」というイメージにちなんでいる。

しかし、フランス系学校で受けた教育が頭に残っていたため、「イロコイ=ピースフルでエコ」というイメージを、なかなか持てなかったのだ。

心に残った日本という異文化

二つの文化と言語環境を生きてきたメイナードには、忘れられない思い出がある。

1986年に訪れたバンクーバー万博だ。

万博には、日本がパビリオンを出展していた。周囲にあるイギリス系でもフランス系でもアメリカ的でもない、全くの「異文化」。それに初めて触れた気がした。それ以来、日本という存在が心のなかに残り続けた。日本のアニメ、武道などに関心を深めた。

メイナードは英語教育の名門、クイーンズ大学に進んだ。

カナダの企業に就職も決まりかけていたが、たまたま日本でのALT(外国語指導助手)を募集する知らせを見かけた。応募したら合格した。就職先に断りを入れた。1997年のことだ。

「一種の日本オタクのような気持ちで、日本に向かった」という。

東北での日々

日本での赴任先を選ぶ際、多くの人が希望する東京などの大都市や沖縄ではなく、全く知らない土地を選ぼうと考えた。

その結果、青森県七戸町に配属された。

東北には、北国といえどカナダとは全く違う雰囲気と空気があった。一目で気に入った。カメラを手に、東北のさまざまな風景を写真に収めて回った。

メイナードは、青森の小中学校で英語を教えて回るかたわら、出会った日本人の友人やALTの仲間たち計4人でバンドをつくった。2000年ごろのことだ。

イギリス人の仲間が、昔の日本のテレビドラマ「西遊記」が好きで、そのテーマソングだったゴダイゴの「モンキーマジック」から、バンド名を取った。

カナダでは趣味程度にギターを弾き、歌っていたが、青森で初めて、音楽を本気でやる楽しさに目覚めた。「もしもカナダに残っていたら、今のミュージシャンとしての人生はなかった」と断言する。

デモテープを送ったところ、仙台の事務所の目に止まった。

仙台に移って本格的な活動をしようとしたところ、メンバー2人が日本を離れて帰国することになった。

そこでメイナードは、カナダで演劇と音楽活動を続けていた弟ブレイズを仙台に呼び寄せることにした。

新生「MONKEY MAJIK」のスタートだった。

ブレイズは東京から仙台に向かう新幹線の車窓から、ずっと街の明かりが消えなかったことを今も覚えている。

広大なカナダでは、都市と都市の間は森林や田畑で真っ暗だ。しかし日本では、どこまでも明かりが消えない。

「一つの大きな街が続いているのかと思った」という。

そして人口約100万人の仙台は、カナダの基準では、十分に大都市だ。「何でも手に入り、少し出れば海も自然も温泉もある。仙台から出る必要を全く感じない」(ブレイズ)。

バンド活動は順調に進み、メジャーデビューして10年余が過ぎた今も、メンバー全員が宮城県で暮らし続けている。

「ここがヘンだよ日本」から「日本すごい」へ

青森から仙台に移った頃、よく回りの日本人の友人に「日本はこういうところがダメでしょ?」と尋ねられた。「ここがヘンだよ日本人」という番組も人気を集めていた。

「日本人は謙虚でマナーを大切にし、人のことを気にして、気を遣っている。それはつまり人をリスペクトしている。日本のすばらしい点だと思う」とメイナードはいつも思っている。

それだけに「いやいや、そんなことはないよ。日本にはすばらしい点がたくさんある」と答えていた。

しかし、いつしか気づくと回りの言葉も、テレビ番組の内容も「日本のこれが世界一」「だから日本はすごい」に変わっていった。

「日本で凄いと思うところはたくさんある。難しい」とメイナードは言う。

震災とコミュニティー

大きな転機となったのは、2011年の東日本大震災だった。地元のために何かをしたい。次の日から、瓦礫の片付けなどのボランティア活動を始めた。

「あんな大変な目に遭ったのに、みなさんのコミュニティーに対する態度が本当にすばらしくて、感動した」とブレイズは振り返る。

チャリティーライブを行い、震災遺児の募金など、さまざまなところに寄付した。

こうした活動などを通じ、2人には地域社会の人々との間で、幅広いつながりと信頼関係ができている。

日本政府は今、外国人労働者の受け入れ拡大を計画している。

日本の各地で、工場や農漁業、建設業などの現場を外国人の技能実習生が担っている現実があり、少子高齢化による人手不足で、さらに受け入れ枠を広げようとしているのだ。東京など都市部のコンビニを支えるのも、外国人だ。

こうした人々と地域社会に対して、メイナードとブレイズが提案するのは「一緒にコミュニティーの活動に加わること」だ。

ブレイズは「地元の清掃活動とかに顔を出すと、友達も増えるし、日本語もうまくなった。お互いの理解につながる。外国人にとっても、自分の暮らす街をより良くしていく活動に加われば、地元への理解も深まる」と語る。

一方で2人は、日本社会との大きな摩擦は経験していないという。

「この国に来る以上、言葉を覚えて異文化に入っていく覚悟があった。それは、日本に来る外国人にとって必要なことだと思う」

メイナードは「もし摩擦があったとしたら、それは日本語力が足りないからだと思って、もっと勉強した。気づいたら、人間として個人と個人の摩擦はあるけど、文化の摩擦は感じなくなっていた」という。

ハイブリッドバンドのフロントマンが考える多様性とは

日本とカナダのハイブリッドバンド、MONKEY MAJIK。そのフロントマンの一人であるブレイズは、英語のフレーズでインタビューを締めくくった。

「Through diversity, comes unity」(多様性を通じて、団結がつくられる)

プラント兄弟は、外国人として日本人のメンバーとともにバンド活動を続け、地域社会に暮らしてきた。

音楽面でも仙台というコミュニティーでも、多様性と刺激を与えてくれる仲間として迎えられた彼らだからこそ、至る境地なのかもしれない。

団結とは「みんなが同質」であることを必ずしも意味せず、多様性があることは、バラバラという意味ではない。

それぞれの違いを保ったまま団結した成果が、日本だけのものでもカナダだけのものでもない、彼ら独特の楽曲群なのだ。

新曲も多様性の固まり。11月から全国ツアー

MONKEY MAJIKはこの夏、仙台出身で被災地支援でも汗を流してきたお笑いコンビ、サンドウィッチマンとの共作曲「ウマーベラス」を発表した。

YouTubeでこの動画を見る

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ウマーベラスのPV

サンドウィッチマンの持ちネタ「カロリーゼロ理論」を歌詞にフィーチャーした。

バンドのメンバーが持つさまざま音楽ルーツでも、ファンクの部分を際立たせた。ビデオは、アース・ウインド・アンド・ファイヤーなどへのオマージュ仕立てとなっている。

英語とフランス語の二つのカナダ。隣国アメリカ。そして東京と仙台。さまざまなルーツをごちゃ混ぜにしたこの曲をひっさげたツアーが、11月11日の東京・NHKホールを皮切りに始まる。