平成のぼくたちを支えてくれたのは、サッカーだった 日本サッカー30年史

    W杯出場も選手の欧州移籍も、平成までは夢の彼方でしかなかった。

    平成=サッカー高度成長の30年

    平成の30年間、経済面ではバブル崩壊以降の停滞が続いた。阪神や東日本の大震災など未曾有の災害も相次ぎ、社会全体に閉塞感がつきまとった。

    一方で著しい成長を迎えた分野もある。

    サッカーだ。

    平成初期までアジアの壁も破れなかった日本は30年間で女子はW杯優勝、男子もW杯常連出場国となるまで成長した。

    平成のサッカー史は、日本にとっては貴重な「高度成長」の歴史だったのだ。

    その足並みを、写真で振り返る。

    1989(平成元)年 W杯出場は遠い夢だった

    時事通信

    昭和から平成初期までのサッカー日本代表は、アジアの壁を破れない時代が続いた。1989(平成元)年に行われたW杯アジア予選は、一次予選で敗退。W杯はまだ、遠い夢でしかなかった。

    そして当時まだ日本にプロのサッカーリーグはなく、実業団の時代だった。

    1990(平成2)年元日に旧国立競技場で行われた天皇杯の優勝チームは日産自動車(現在の横浜Fマリノス)。準優勝はヤマハ発動機(現ジュビロ磐田)だった。

    写真は1991年7月27日の日韓定期戦を闘うラモス瑠偉(読売クラブ)。残念ながら白黒写真だが、この時の日本代表のユニフォームは、その後シンボルカラーとなった「サムライ・ブルー」ではなく、赤だった。

    横山謙三監督率いる日本代表は当時「全日本」とも呼ばれていた。この試合は0−1で韓国に敗れた。

    1990(平成2)年 カズの帰国

    時事通信

    「プロになりたい」と静岡の高校を中退してブラジルに渡り、夢を実現させて名門サントスなどで活躍した当時23歳の青年が1990年、日本に帰国した。

    会見で「日本をW杯に出場させる」と宣言した。三浦知良だ。

    カズは読売クラブ(現・東京ヴェルディ)に所属。間もなく日本代表のエースとして君臨し、「キング」の名をほしいままにする存在となる。

    写真は1990年、サントスでの最後の試合で、現地の日本人学校の子どもたちと。

    1993(平成5)年 Jリーグ開幕

    時事通信

    1993年5月、日本初のプロサッカーリーグ・Jリーグが10クラブで発足。チケットの入手すら困難になる空前のサッカーブームが沸き起こった。

    Jリーグはその後、クラブ数を拡大しながらJ2、J3などを段階的に整備。 各クラブ傘下のユースチーム、女子チームなどの強化が行われ、日本サッカー全体が大きく底上げされることとなった。

    「夢」だったW杯を本気で目指せる時代の到来

    時事通信

    日本サッカー協会は、代表チームに初の外国人監督ハンス・オフト(オランダ)を招聘した。

    オフトはカズ、ラモス、中山雅史(当時J1磐田)、井原正巳(当時J1横浜マリノス)らを集めて代表チームを構築。1993年のアメリカW杯アジア地区予選に臨んだ。

    オフトは「アイコンタクト」「トライアングル」などシンプルな言葉で、日本に足りなかった欧州サッカーの基本的な戦術を注入。日本代表を上昇気流に乗せた。

    Jリーグブームにも後押しされ、それまでは夢のまた夢だったW杯出場が、一気に現実の目標となった。

    この時オフトに見いだされたが、MF森保一(当時J1広島。前列左から2人目)だった。

    代表に初招集されたとき、チームメイトのほとんどが名前の読み方すら知らなかったほど無名だった森保がその後、日本代表の監督に就任することを予想した人が、当時どれほどいただろうか。

    そして、するりと逃げた夢〜ドーハの悲劇

    時事通信

    1993年10月28日、日本代表はアメリカW杯アジア地区最終予選で、最後の試合となるイラク戦に勝てば、初のW杯出場が決まるところまで来ていた。

    後半ロスタイム、日本は2−1で勝っていた。アメリカへの切符を手にするまで、あと数分のはずだった。

    しかし、イラクのショートコーナーからオムラムがヘディングしたボールは、弧を描くようにGK松永成立の頭上を越え、ネットに吸い込まれていった。

    選手らは呆然とピッチに崩れ落ちた。

    オフトは一人ひとり、励ましながら起こして歩いた。

    1996(平成8)年 マイアミの奇跡

    時事通信

    アトランタ五輪に出場した五輪代表が、マイアミでの試合で優勝候補筆頭のブラジルを破る「世紀の大金星」を挙げた。

    ゴールを挙げたのはMF伊東輝悦(現J3沼津)。FW城彰二(当時J1市原)、GK川口能活(2018年限りでJ3相模原を引退)、そしてカズに変わって日本代表の中核となる中田英寿(当時J1平塚)らをそろえたチームの活躍は、その後の日本サッカーの躍進を予感させた。

    1997(平成9)年 ジョホールバルの歓喜

    AFP=時事

    フランスW杯アジア予選で、日本は延長戦でイランを下し、悲願のW杯初出場を決めた。

    試合後半、岡田武史監督はFWカズと中山雅史を一気に外し、城と、ブラジルから帰化したばかりの呂比須ワグナー(当時J1平塚)を投入した。

    カズは「おれ?おれ?」と自分を指さし、イレブンを励ますようにガッツポーズをしてからピッチを離れた。「カズの時代」の終わりを感じさせる場面だった。

    そして、この試合で全得点に絡む活躍を見せたのは、20歳の中田英寿だった。

    1998年フランスW杯 「ヒデの時代」の到来

    AFP=時事

    フランスW杯の開幕直前、岡田監督はカズと北沢豪らを登録メンバーから外すことを決断した。

    髪を金色に染めて無念の帰国をしたカズは「日本代表としての誇り、魂みたいなものは向こうに置いてきた」という名言を残した。

    フランスでの日本代表は、中田を中心としたチームとなった。そしてカズの落選が妥当だったのかどうか、議論は20年経った今も続いている。

    中田はW杯後、イタリア・セリエAペルージャに移籍。2006年の引退までJリーグには戻らないまま海外でのプレーを続け、日本代表を牽引した。

    2002(平成14)年 日韓W杯で輝いたトルシエジャパン

    時事通信

    日韓共催となったW杯で、フィリップ・トルシエ監督率いる日本代表はベスト16に進出した。

    スタジアム内だけでなく、東京・渋谷や大阪・道頓堀など各地でサポーターが歓喜に沸いた。

    2006(平成18)年 ドイツでピッチに倒れ込んだヒデ

    Phil Cole / Getty Images

    ドイツW杯で、ジーコ監督率いる日本代表は1次リーグで敗退した。

    空中分解しそうなチームをプレーでまとめようとしてきた中田は試合終了後、がっくりと肩を落とし、ピッチに倒れ込んだ。

    中田はW杯終了後、現役を引退することを発表した。

    2007(平成19)年 オシムの言葉

    時事通信

    ジーコ監督の退任後、日本サッカー協会が白羽の矢を立てたのは、J1市原の強化に成功したイビチャ・オシム監督だった。

    川淵三郎会長が正式発表前に「オシムが......。あ、オシムって言っちゃったね」と名前を漏らす「世紀の失言」をしたことでも話題となった。

    オシム監督は「肉離れ? ライオンに追われたウサギが逃げ出す時に、肉離れをしますか? 要は準備が足らないのです」「レーニンは『勉強して、勉強して、勉強しろ』と言った。私は選手に『走って、走って、走れ』と言っている」など、知的でウイットに富む発言で親しまれた。その語録集はベストセラーとなった。

    しかし2007年11月、病に倒れた。志半ばで退任した。

    2010(平成22)年 救世主「本田△」と「岡ちゃんごめん」

    時事通信

    オシム監督が倒れたことで急きょ再登板した岡田監督率いる日本は、低迷にあえいだ。一時は岡田監督の解任論も沸き起こった。

    なんとか出場権をつかんだ2010年南アフリカW杯で、岡田監督はMF本田圭祐(現・豪メルボルン)の強靱なメンタルと得点力を見込み、「ゼロトップ」に据える決断を下した。

    本田は2試合でゴールを決めて日本の決勝リーグ進出に貢献。日本の救世主となった。

    ネットは「本田△(さんかっけー)」という言葉や、「岡ちゃんごめん」という岡田監督批判を懺悔する言葉で溢れた。

    2011(平成23)年 カズダンスが東北を沸かせた

    時事通信

    東日本大震災の復興支援のため行われた日本代表とJリーグ選抜によるチャリティーマッチ。日本を沸かせたのは、日本代表に選ばれなくなって久しいカズだった。

    Jリーグ選抜のFWとして喪章をつけて出場。日本代表からゴールを奪い、カズダンスを踊った。

    「カズは、やはりカズでした」という実況アナウンサーの言葉が、被災地に響いた。

    そして、なでしこジャパンが世界の頂点に

    AFP=時事

    2011年7月、澤穂希を中心とする女子サッカー代表なでしこジャパンが、ドイツでの女子W杯で優勝。日本サッカー史上で初めて、世界の頂点に立った。

    世界各国のメディアが、なでしこジャパンの小柄な選手らが地震と津波、そして原発事故に打ちひしがれた日本に持ち帰った栄光を称えた。

    決勝で対戦したアメリカのGKホープ・ソロは試合後、「何かもっと大きなものが、日本を引っ張っていったと思う」と振り返った

    2014(平成26)年 「自分たちのサッカー」で敗れたザック日本

    時事通信

    2014年のブラジルW杯は、イタリア人のアルベルト・ザッケローニ監督が4年間をかけて熟成させたチームで挑んだ。

    しかし、チームは予選や親善試合などでアジアのチーム相手には、パスワークで試合を支配して快勝できても、同じやり方が欧州や南米には通じない。アジアとほかの地区のレベル差が浮き彫りとなった。

    W杯の本大会では2敗1分で一次リーグ敗退し、ザッケローニ監督は辞任した。

    2018(平成30)年 アギーレ→ハリル→西野でロシアへ

    時事通信

    ザッケローニ後の代表監督の人事は迷走した。

    サッカー協会は2014年5月、元メキシコ代表監督で、スペインのサラゴザなどでも監督を務めていたハビエル・アギーレ氏を招聘したが、リーガ・エスパニョーラでの八百長疑惑が持ち上がり、2015年2月に契約解除となった。

    次に監督に就任したのは、アルジェリア代表をW杯ベスト16に導いたヴァヒド・ハリルホジッチ氏。球際の強さを求める「デュエル」と「縦に速いサッカー」をキーワードにチーム作りを進めた。

    ロシアW杯の予選突破には成功したものの、「縦への速さ」を求める戦術などを巡り選手と衝突。W杯直前に解任された。

    後任はサッカー協会技術委員長の西野朗氏。ベテランを多く招集し「おっさんジャパン」などと皮肉られながらも、W杯でベスト16入りした。

    森保ジャパンが紡ぐ、次の時代

    時事通信

    西野朗監督はロシアW杯限りで退任。後任には、森保一氏が選ばれた。2020年の東京五輪に向けた五輪代表監督も兼任する。

    森保監督は2018年12月11日、サッカー協会の2019年のスケジュール発表後、記念撮影に応じた。

    並んだのは、サッカー協会フットサル委員長の北沢豪氏と、ビーチサッカー日本代表のラモス瑠偉監督。

    25年前に「ドーハの悲劇」を闘った選手らが、指導層の中核となる時代が到来したのだ。

    日本人選手が欧州に移籍するのは、今や当たり前の時代となった。

    欧州で今、堂安律(フローニンゲン)らが新世代の選手として注目を集めている。

    2022年の次期W杯は中東カタールで開かれる。その首都は、森保監督が選手として1993年に闘った、あのドーハである。

    そしてカズは、51歳になる2019年もJ2横浜FCでプレーを続ける。

    Contact Yoshihiro Kando at yoshihiro.kando@buzzfeed.com.

    Got a confidential tip? Submit it here