完璧な日本語を操り、ウイットに富んだツイートで多くのフォロワーを集めるジョージアの駐日大使ティムラズ・レジャバさん(34)が8月6日、広島の平和記念式典に参列する。
大使には、広島に特別な思いがある。
4歳の時に来日し、地元の公立小学校にも入学して「第二のふるさと」となった地は、広島だった。そして、一家を支えてくれた地元の産婦人科医は、広島の原爆投下をかろうじて逃れた人だったのだ。
自らを「広島人」という大使に、広島と平和への思いを聞いた。
ーーそもそも、大使が日本にいらした理由は?
日本に移住したのは1992年、4歳の時でした。
遺伝子の研究者だった父アレクサンダーが広島大学(広島県東広島市)の博士課程に留学したのです。大学に近い東広島市西条町に住み、僕は地元の寺西小学校に入学しました。
その時、僕たち一家をお世話してくれたのは、角谷哲司先生という産婦人科のお医者さんです。
角谷先生は学者だった僕の祖父と学会で出会って面識があり、祖父は先生に「いつか息子を日本に送りたい」と頼んでいたのです。しかし、旧ソ連が崩壊してジョージアが独立するまで留学は難しく、なかなか実現しませんでした。時間が経ち、いろんな巡り合わせがあって実現したんです。
広島では8歳まで4年間暮らしました。友だちもできました。弟も、角谷先生の病院で生まれました。今でも、広島はとても好きです。
一方で僕たちが歩いていると、「あ、外人さんだ」と指さされることもありました。やっぱり目立っちゃいますからね(苦笑)。
ーー原爆について当時、学ぶ機会はあったのでしょうか。
当時はまだ幼かったこともあり、原爆ドームや平和記念公園の存在を大きく意識することはありませんでした。
僕が原爆のことを深く考えるようになったのは、2015年のことです。
一度ジョージアに戻ることになり、お世話になった角谷先生にご挨拶に行ったのですが、その時、自分が原爆の惨状を見ていることを、先生が初めて話されたのです。とても衝撃的でした。
角谷先生は当時、旧制広島一中(現・県立国泰寺高校)の2年生だったのですが、8月6日は学校がたまたまお休みで自宅にいたため、原爆の直撃を逃れたのです。
1週間後に学校に向かうため市中心部に入り、広島の惨状を見た、と話されました。
角谷さんら広島一中の2年生は当時、広島周辺の軍需工場に勤労動員されていた。
朝日新聞社の被爆証言サイトに掲載された同級生の証言によると、8月5日に「翌6日は広島・土橋地区の建物疎開(家屋を取り壊して防火帯をつくる作業)に従事せよ」という命令が出た。
しかし、日曜(5日)も動員されていたことなどから2年生が疲れていると感じた担当教員が抵抗し、「8月6日は自宅修練(=休み)とする」と決めた。このため2年生は8月6日、勤労動員に向かわずに済んだ。角谷さんは爆心地から離れた郊外の自宅におり、無事だった。
土橋は爆心地から約800メートル。角谷さんが屋外で建物の取り壊し作業を始めていたか、その現場に向かう途中だったとすれば、原爆で生命を奪われていた可能性が高い。
土橋での建物疎開に予定通り向かった3年生約40人は、全員が亡くなったという。
広島一中全体では、生徒と教職員ら約370人が原爆で亡くなった。
そして、一中の生徒らを含め約6000人が犠牲となった防火帯は戦後、広島の復興のシンボルの一つ「平和大通り」となった。
重なったジョージアの戦争
先生はたまたま休みになったことで助かったけれど、周りは多くの人が亡くなったそうです。
原爆の話というのは、本やテレビで見たとしても、そんなに感情移入はできなかったんですよ。
ただ自分の場合は、先生にそのお話を伺ったのが、ジョージアが2008年にロシアから侵略を受けた後のことでした。
僕も当時、(当時学んでいた早稲田大学の)夏休みで首都トビリシに戻っていたので、侵攻を経験して戦争の恐ろしさを知るようになっていたんです。
ジョージアは2008年にロシア軍の侵攻を受け、いまも領土の一部が占領下にある。その経緯は、2022年2月に始まったロシアのウクライナ侵攻と似ている。
ジョージアはウクライナと同様に旧ソ連の一部だったが、1991年に独立。シュワルナゼ元ソ連外相が大統領となったが、2003年に「バラ革命」と呼ばれる政変が起き失脚。その後はロシアを距離を置く親欧米路線を採り、EUとNATO加盟を目標としてきた。
もともと複雑な民族問題があり、分離独立を求める南オセチアとアブハジアの両地域を抱えていた。
それぞれ様々な主張の対立があったが、2008年8月7日、ジョージア軍と南オセチア軍(分離派)との対立の激化にロシアが軍事介入した。なお、ロシアとジョージアのどちらが先に手を出したか、言い分は今も食い違っている。
軍事力に勝るロシアは短期間で占領地を広げ、南オセチア及びアブハジアの独立を一方的に承認。多くの国内避難民が生まれた。
両地域では今もロシアが実効支配下を続ける。日本を含む国際社会の大勢は、両地域の独立を認めていない。
なお、ウクライナ侵攻を正当化するためにプーチン大統領が署名した文書は、14年前にジョージア侵攻を正当化した文書と地名や日付などが異なるだけの「コピペ」だったと、レジャバ大使は2月のBuzzFeed Newsの取材で、指摘している。
先生に「復興の力」を感じた
あの時も、今回のウクライナ侵攻と同様、ロシアがジョージアの国境付近に一方的に軍を増派し、いつ来るかどうなるか分からないという状態になっていました。
それを経験していたから、戦争の恐ろしさを語る角谷先生の言葉に、すごく響くものがあったんです。
そしてその後、広島の街は立派に復興しました。復興の力をまさに、先生に感じたんです。
精神が崩壊しそうな恐ろしい経験をしたにも関わらず、成長して立派な医師になり、産婦人科を開業し、角谷先生の病院で僕の弟も生まれました。
自分たちがそんな方との縁で日本に来ることになったというのは、いろんな意味ですごく大事なエピソードになっていったんです。自分の中で、広島の原爆に対する思いは、非常に重く、重要なものになりました。
ーー広島への平和記念式典にはなぜ参列を
大使として2021年に初めて式典に行ったのですが、去年はコロナの問題があったうえ、東京五輪があってジョージアから選手やいろんな人が東京に来ていました。
だから式典が終わるとすぐに東京に戻り、五輪関係のアテンドの仕事をしていました。参列した各国の大使とも、広島で交流することはできませんでした。
しかし、やはり現地にいると感じるものは全然違いましたね。特に式典でのご遺族の言葉とか、いろいろ感じさせられるものがありました。
今年は広島出身の岸田文雄首相(衆院広島1区選出)があいさつされます。そこは注目しています。首相は核不拡散条約(NPT)会議にも自ら出席して、演説されました。参列者数も、去年よりは多いでしょう。
今年こそは、フルに参加したい。原爆資料館も見たいと思っています。
ーーロシアのウクライナ侵攻で、核の脅威が改めて世界的な課題に浮上しました。
そうですね。核の問題は、どの国も確固たる答えを持ち得ない問題です。パワーバランスを定めている問題でもあり、これからだれもが直面しなければいけない問題だと思っています。
安全保障を語る上で、核を巡る議論はこれから活発になっていくと思います。大変残念ですが、これも一つの現実として直面しなければならないと思います。
なお、ジョージアはもちろん、核兵器は持ってません。小さな国だからできることは限られてきますが、ロシアとの経験は豊富です。ロシアの脅威を最初に訴え始めたのは、ジョージアです。
ロシアのジョージア侵攻が始まったのは2008年8月7日。広島の原爆祈念日の翌日です。今年で14年になります。
ウクライナでは戦争が終わる気配が、残念ながらありません。この戦争がどう終わるか、見通しは立ちません。しかし平和のために私たちにできることはあると思っています。