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あの日、オーストラリアで日本人が集団脱走した理由

オーストラリア内陸部で1944年8月、捕虜として収容されていた日本兵ら500人以上が集団脱走をしようと決起し、200人以上が死亡した。日本人捕虜はなぜ、無謀な脱走を試みたのか。長期取材で掘り起こしたドキュメンタリーが公開された。

1944年8月5日未明。オーストラリア内陸部の捕虜収容所で、日本人の捕虜ら500人以上が、一斉に蜂起した。手製のバットやグローブを手に有刺鉄線を乗り越えようとする日本人捕虜に、豪州軍の監視兵は銃撃で対抗。日本人捕虜234人と豪州人監視兵ら4人が死亡する惨事となった。

収容所は海から遠く、脱走しても日本に戻れる可能性は皆無だった。そんな場所で、なぜ多数の犠牲者を出す事件が起きたのか。

カウラにあった捕虜収容所の写真

事件から77年。生存者や目撃者を約10年にわたり取材し、ドキュメンタリー映画「カウラは忘れない」にまとめた満田康弘監督は、事件の背景に「極めて日本人的な心理が働いている」と語る。それは、今もSNSなどで頻繁に語られるキーワードでもある。

そして、日本兵らは「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」と教育されていたため、収容所では多くが偽名を名乗った。満田さんが取材した生存者の1人は、戦後もずっと偽名のまま生きた。それは、なぜか。

丹念な取材で事実を掘り起こした映画に沿いつつ、各種の資料や取材を踏まえ、カウラ事件とは何か、この事件と映画が示す日本社会の問題点は何かを考える。

偽名の捕虜第1号

オーストラリア南東部カウラは、最大都市シドニーから内陸に300キロほどの小さなの街。周囲は広大な農村地帯で、近年はワイン向けのブドウ栽培でも知られるようになった。

この地に捕虜収容所が出来たのは1941年。当初はアフリカ方面から移送されたイタリア人捕虜などが中心だったが、日豪が直接闘った太平洋戦争の激化に伴い1943(昭和18)年1月、収容人数1000人の日本人捕虜区画ができた。

オーストラリアで最初に捕虜になった日本兵は、「南忠男」と名乗る海軍の零戦パイロットだった。

本名は「豊島一」という。

南忠男山東飛行兵曹の写真

1942年2月、豪州北部ダーウィンを空襲するため零戦で向かったところ機体が被弾し、「我死ス」と母艦に打電した。これを受け、日本軍は「自決した」と判断。「名誉の戦死」として一等水兵から三等飛行兵曹に特進。香川県の実家にも戦死の通知が届き、墓が建った。

しかし、彼は生きていた。

豪州領内になんとか不時着し、逃げようとしてたところを捉えられ、豪州での日本人捕虜第1号となっていたのだ。

彼は身元を隠すため、豪州側の尋問に「南忠男」と偽名を名乗った。

南(豊島)さんは別の捕虜収容所を経て、カウラに移送された。

偽名は日本での「恥」を防ぐため

カウラでは、日本人の捕虜数が次第に増えた。その多くが偽名を名乗っていた。

その理由は、当時の日本軍では「生きて虜囚の辱を受けず(生き延びて捕虜になるような恥ずかしい行動を取るな)」という教育が行われ、捕虜になること自体が、タブーだったからだ。

日中戦争がすでに激化していた1941年1月。当時陸軍相だった東条英機が陸軍の全将兵に示達した「戦陣訓」に、そう明記されていた。海軍でも、同じような教育が行われた。

1941年12月8日に日本軍が行った真珠湾攻撃では、日本兵10人が戦死したとみられていたが、うち海軍少尉1人が捕虜となっていたことが判明。大本営は生きていた1人の名を削り、残り9人を「九軍神」と讃え、戦果を大々的にPRした。一方で捕虜となった少尉の家族は「非国民」と罵られた。

捕虜になったことが日本で知られれば、自分だけでなく地元に残した家族も非難され、恥をさらすことになる。だから次々と偽名を名乗り、自分が捕虜となっていることが地元に伝わらないようにしていたのだ。

申し分なかった収容所内の暮らし

手製のバット。野球のレクリエーションのため作られたが、蜂起の際は武器となった。

戦時捕虜には、ジュネーブ条約が適用され、人道的な取り扱いを行うこととされている。豪州政府は、条約を遵守した。

満田監督の取材に、捕虜だった人々は口々に「暮らしは申し分なかった」と振り返った。

食事は豊富で、麻雀や花札を手製して楽しみ、さらにはバットやグローブも作って班対抗の野球の試合も行われた。

かたちの上では民主的な秩序もつくられ、重要事項は捕虜全員の投票を経て決まっていた。

豪州とは正反対だった日本の収容所

一方、日本軍はジュネーブ条約を尊重しなかった。

日本内外につくられた捕虜収容所では、貧弱な食事と過酷な扱いや虐待、そして強制労働で、連合軍捕虜が次々と倒れた。

中でも広く知られているのは、タイとビルマ(当時)を結ぶ泰緬鉄道の建設に強制労働させられたことで、1万人を超える捕虜が亡くなった問題だ。

泰緬鉄道は日本軍が補給戦略路として建設を急ぎ、「枕木1本に死者1人」と言われるほど過酷な強制労働のうえに完成した。

強制労働や虐待に関係した日本の軍人は戦後、戦犯として裁判にかけられた。

収容所の過密が悲劇の引き金に

カウラ収容所の日本人捕虜は1000人の収容上限を超え、過密状態となった。

そこで豪州側当局は、捕虜から下士官と兵を分離し、兵を別の収容所に移動させることを決めた。

1944年8月4日、これを知った日本人捕虜らは、騒然となった。

「兵と下士官は常に一体だ」「このような分離は受け入れられない」。やがて議論は、「ならば、決起しよう」という方向に進んだ。

その日、捕虜たちはトイレットペーパーに「〇」「X」を書き込んで、決起するかどうかを投票した。

その結果、「〇」が8割を占めた。

日付が変わった8月5日未明、収容所に突撃ラッパが響いた。

♪タッタ・トット・タッタ・ター、テッタ・テッタ・トット・ター(出てくる敵は皆々倒せ)

吹いたのは、捕虜第1号の南(豊島)さんだった。

なぜ勝ち目のない決起に賛成したのか

捕虜らは毛布や手製のバットやグローブ、そして食事用のナイフを手に一斉に宿舎を飛び出した。毛布やバットを有刺鉄線にかぶせ、乗り越えようとした。

有刺鉄線にかけられた毛布

監視の豪州兵は、機関銃などによる銃撃で対抗した。最終的に鎮圧されるまでに、ラッパを吹いた豊島一さんを含む日本人捕虜ら234人が死亡。豪州側も、銃を奪われまいと抵抗して手製バットなどで撲殺された監視兵ら4人が死亡した。

ごく少数は収容所の外に出たが、間もなく捕らえられた。

収容所は海から遠く離れ、見晴らしの良い農村地帯の真ん中にある。白人がほとんどの当時の豪州社会で、日本人が無事に逃げおおせる可能性は、最初からなかった。

それでもなぜ、脱走しようとしたのか。

生き延びた元捕虜の人々は、満田監督の取材に口をそろえた。

「捕虜として帰国することはできない」「あれは、死ぬための決起だった」

つまり、逃げるためではなく、豪州兵に撃たれて死ぬための「集団自決」だったのだ。

なぜ決起に賛成したのか。「そうせざるを得ない、雰囲気だった」

帰国しても戦後を偽名のまま過ごした男性

決起した捕虜らが有刺鉄線を乗り越えようとして次々と撃たれるのを目の当たりにした人がいる。立花誠一郎さん(1921−2017)だ。

ニューギニア戦線で捕虜となり、カウラに収容された。2017年に96歳で亡くなった。

1944年8月5日未明、突然響いた突撃ラッパの音を、立花さんは収容所内の空き地につくられた隔離テントで聞いた。

その瞬間まで、決起を知らなかった。収容中に体調を崩してハンセン病と診断された。ほかの捕虜から引き離され、テントに1人、隔離されていたからだ。

ハンセン病は感染力の極めて弱い病気だが、当時は強い偏見もあり、患者の人権を無視した強制的な隔離収容が行われていた。

立花さんは、隔離されたことで生き延びることになった。

目の前で、捕虜らが次々と鉄条網に毛布をかけて乗り越えようとする。その身体の上を別の捕虜がよじ登る。そこに監視兵が機関銃で射撃し、次々と命を落としていく。立花さんには、なすすべもなかった。

下の写真は1946年3月、シドニーの埠頭で立花さんが、器用な手先を活かしてつくったトランクなどを手にして復員船に乗り込む姿だ。豪州の地元記者が撮影した。

笑顔は本心ではなかった。しかし記者に「笑え、笑え」と何度も言われたから、この表情になったという。

復員船に乗り込む立花誠一郎さん

帰国する船でも立花さんは船室に入れてもらえず、ロープを収納する甲板上の小屋に閉じ込められた。浦賀(神奈川県)の港に戻ると、静岡県のハンセン病療養所に収容された。のちに、岡山県の療養所に移った。

満田監督は生前の立花さんを取材中、立花さんの実家に送られた「戦死公報の取り消し連絡」を見て、初めて「立花誠一郎」が偽名であることを知った。

立花さんもまた、捕虜の汚名を家族に着せられることを恐れて偽名を使い、軍側は一時、「戦死」と判定していた。それをのちに取り消したのだ。

そして療養所に収容されたことで、立花さんは戦後すべてを偽名のまま過ごしたのだ。日本社会のハンセン病患者と家族への差別と偏見もまた、「捕虜」と同様か、それ以上に激しかったからだ。

1943年に特効薬プロミンが開発され、速やかに完治するようになっても、患者の強制隔離政策は続いた。強制隔離を定めた法律が廃止されたのは、戦後51年たった1996年のこと。立花さんは、すでに75歳になっていた。

立花さんはやがて、カウラ事件やハンセン病差別の歴史に関する語り部として活動を始めた。日本に持ち帰ったトランクは晩年、東京にある戦傷病者史料館「しょうけい館」に寄贈した

2017年11月、岡山県長島にある国立療養所邑久光明園で亡くなった。享年96。遺骨は園内の納骨堂に「立花誠一郎」の名で安置された。

捕虜になったことと、若い頃にかかった病が完治しても続いた療養所での生活。

二つの理由で日本社会から疎外され続けた立花さんは、家族への影響を懸念して最後まで本名を明かすことができないまま、人生を終えた。

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瀬戸内海放送 / Via youtu.be

2017年に立花さんが亡くなった際の、瀬戸内海放送の追悼特集。満田監督が取材した。この取材内容は、公開されたドキュメンタリー映画「カウラは忘れない」にも活かされている。

カウラと横浜のきずな

横浜市保土ケ谷区の丘陵地帯に、英連邦戦死者墓地という墓地がある。主に英国とオーストラリア、カナダ、インドなど英連邦地域から第二次大戦に従軍した兵士ら1800人超が葬られている。

日本軍の捕虜となって日本本土の収容所に移送され、炭鉱や軍需工場での重労働や栄養失調などで亡くなった人々だ。

この地で2021年8月7日、追悼礼拝が開かれた。ニューランド、オーストラリア、インドの日本駐在武官など旧連合軍関係者をはじめ約150人が集まり、献花した。

この礼拝は1995年に始まり、今年で27回目になる。

そのきっかけは、カウラ事件だった。

戦時中、タイに日本陸軍の通訳として駐留し、連合国軍の捕虜を強制労働させた泰緬鉄道の建設にかかわった、永瀬隆さん(1918−2011)という男性がいる。

永瀬さんは英語通訳として、捕虜の拷問に立ち会い、尋問とその答えを訳した。

兵士ではなく軍属だったので捕虜に直接、暴力を加えてはいない。しかし、「日本軍の一員」として虐待に関与した悔恨から戦後を和解活動に捧げ、タイに130回以上渡航した。

永瀬さんは、カウラで捕虜の集団脱走事件があり、その犠牲者の墓地を現地の人々が美しく飾って守り続けていることに衝撃を受け、1989年に現地を訪問した。

カウラでは、オーストラリア軍兵士墓地の横に、日本人捕虜の墓地があり、地元の人々が例年、追悼式典を開いているのだ。

永瀬さんは、日本軍の捕虜となり亡くなった連合国軍の人々を手厚く弔うことは、日本人として最低限の返礼と義務と考えた。

「この墓地は、ここに葬られている連合諸国と日本の人々の親善をつなぐ太いロープだ。なぜこの宝物を有効に尊重しないのか」と、横浜での追悼礼拝を提案した。

母校・青山学院大の雨宮剛教授(現名誉教授)と国際基督教大の故・斎藤和明教授と3人で呼びかけ人となって礼拝を実現させた。

礼拝は青学で雨宮教授の教え子だった奥津隆雄さんが実行委員会代表を引き継ぎ、今も続いている。2022年も28回目の礼拝が行われる予定だ。

横浜の礼拝と永瀬さんについては、こちらの記事をご参照頂ければ幸いだ。

「コインの表と裏」カウラと横浜、そして泰緬鉄道

カウラ事件のドキュメンタリー映画「カウラは忘れない」を制作した満田康弘監督は、瀬戸内海放送(高松市)のディレクターとして約20年、永瀬隆さんの取材を続けた。

取材の成果をドキュメンタリー「クワイ河に虹をかけた男」(2016年)と、同名の著書にまとめた。

「カウラは忘れない」は、劇場公開2作目となる。東京での公開日は、横浜の追悼礼拝と同じ、8月7日だった。

「単なる過去の悲劇ではなく、現在と未来へのメッセージとしてつくった。事件が私たちに問いかけるものは何かを一緒に考えていただければ」と語る、満田監督に聞いた。

ーーなぜカウラ事件を題材にしたのでしょうか。

前作「クワイ河に虹をかけた男」がコインの表だとすれば、カウラは、その裏側です。

「捕虜になるのは恥だ」という意識を含めた日本の捕虜政策の犠牲者が、一方では日本軍の捕虜となった連合国軍兵士であり、もう一方がカウラ事件の犠牲者だと、永瀬隆さんから、何度も言われていたんです。

永瀬さんが横浜英連邦墓地で追悼礼拝を始めたのは、カウラで地元の市民の人々が日本人の墓をちゃんと守り続けてきたことに対するお礼という面があります。一方で、日本ではカウラ事件があまりにも知られていないと感じ、ちゃんと取材しなければならないと、僕自身もずっと思っていました

2009年に地元・岡山の高校生たちがカウラ事件生存者の立花誠一郎さんと交流を始めたということがあって、日本の元捕虜の人たちの声を聞く最後のチャンスと思い、取材を始めました。

僕としてはもっと早く始めれば、もっと多くの声を聞けたのかもしれないという、じくじたる思いもあります。

「同調圧力」

ーー映画に登場して証言された方のうちでも、取材から映画公開までの間に、3人が亡くなっておられます。

そうですね。自分の老い先が長くないという老境に達し、仲間がどんどん亡くなっていく中で、今だから仲間の目を気にせず思う存分にしゃべれるという部分も、ひょっとするとあったかもしれません。胸のつかえがとれて率直にお話頂けたのが、この時期だったのかなという風に、自分を納得させている部分もあります。

映画の中にも出てきますが、カウラのことを話すこと自体が、みなさん戦後20年、30年経つまで、できなかったわけです。それも驚くべきことで、「同調圧力」の一つと言えるのかもしれません。

高校生たちが、あの事件をどう受け止め、どんな風に消化していくのかという部分から取材を始めたところもあります。

(作中に出てくる、カウラ事件を再現した)燐光群の演劇を含め、カウラ事件は決して遠い過去の問題ではなく、今の問題としてあるんだということを、見る人に考えていただける、大きな材料にはなったと思います。

ーー証言者の方々は「あれは自決だったんだ」を口をそろえておられました。

映画に出てくる、今井祐之介さん(1920−2018)という、戦後は通産省に勤務した元捕虜の方がいらっしゃいます。

当時の捕虜の間には、4つのグループがあったと分析しておられました。

軍人精神が旺盛で、いつでも死ぬ覚悟があるという第1グループと、覚悟はあるんだけど今はその時期ではないという第2グループ。3番目は、できれば死にたくはないんだけど、周りに言えなくて様子を見て黙っている人々。最後は絶対に死にたくないという人々です。

今井さんの見立てでは、第1と第4のグループはそれぞれ1、2割しかいない。ということは、どっちつかずが6割。しかし投票で8割が賛成したということは、どっちつかずの人たちが賛成しなければ、そうならない。

つまり、自分はむしろ死にたくないんだけど、周りの圧力に押されて「〇」と書いてしまった、と。「全員、〇でいいな」という班もあったようです。今の選挙のように完全に秘密が守れる投票ならば、そうはならなかったかもしれない。

今も続く排除と差別の意識構造

ーー立花さんは計画を知らなかったわけですよね。

一般病棟からもさらに離れたテントで隔離されていましたから、周りの雰囲気に流されるようなことからは無縁のところにいた。だから、ああいう決起の状況を見ても、加わる決心がつかなかったのではないかと思います。

戦後もずっと偽名で生きた立花さんは運の悪い人、可哀想な人なのではなく、日本の政策の犠牲者だったのだと思います。そしてハンセン病には特効薬があるにもかかわらず、国民の側は漫然と長い間、隔離政策を見過ごしていたわけです。

自分たちの枠から外れた人たちに対して、日本の社会は冷たい。それを知っていたからこそ、捕虜になった人たちは「もう帰っても居場所はない」と、ああいう暴動を起こしたわけです。

それは差別の構造であり、枠から外れた人たちを見殺しにするということです。

現代では、学校で居場所がないと感じた子どもたちが自殺してしまうという問題があります。最近では、スリランカ人の女性が入管施設で酷い待遇を受けて、亡くなってしまいました。

「日本人」という内輪の外にいる人に対して、僕たちの意識がなかなか行かない、見ようとしないというところに、(カウラの事件は)繋がっているのだと思います。

ーーそこは戦後76年経っても変わっていない、ということですか。

そう思います。

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「カウラは忘れない」予告篇

「カウラは忘れない」は東京・ポレポレ東中野、東京都写真美術館ホールなどで、8月7日から上映中。全国各地での上映も予定されている。

参考資料:

『カウラ日本兵捕虜収容所』(永瀬隆・吉田晶編、青木書店)

『カウラの突撃ラッパ―零戦パイロットはなぜ死んだか』 (中野不二男、文春文庫)

カウラ日本人戦争墓地データベース

瀬戸内海放送公式Youtube