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寄り添う通訳であり、メディアである私 元TBSアナの久保田智子さんが被爆体験の伝承者となったわけ

元テレビアナウンサーが、広島で被爆体験を伝承する活動を続けている。元TBSの久保田智子さんだ。彼女はなぜ、メディアの仕事を離れて歴史を語り継ぐ道を選んだのか。

TBSアナウンサーの職を離れ、広島で被爆者の体験を受け継いで次世代に伝える活動をしている女性がいる。久保田智子さん(43)だ。

戦後75年。被爆者の平均年齢が83歳を超え、残された時は少ない。「被爆体験の継承」が、強く求められている。

久保田さんは広島の近郊で育った。とはいえ、なぜ、華やかなテレビの現場を離れ、歴史を受け継いで語る道を歩み始めたのか。

そして活動の中で見えてきた、歴史と個人の体験の継承のあり方とは。

避けていた「広島」

ーーなぜ、テレビ局を離れたのですか。

夫のニューヨーク転勤で2016年にTBSを離れ、ニューヨークに行きました。そのタイミングで、すんなりと辞めてしまいました。

では、それからどうするかを考えたのですが、TBSは筑紫哲也キャスターを中心に、沖縄のことを重点的に報じていました。しかし、当時の私は特に沖縄の歴史に詳しいわけではなく、スタジオでも語る言葉を全く持っていませんでした。

そこで、時間があることもあり、まず沖縄を訪れ、その後鹿児島・知覧の特攻隊の資料館を訪れました。それでも、最後まで広島は避けていました。

ーー久保田さんは広島のご出身ですが、その広島を避けていたんですか?

避けていたと思います。

自分の親や祖父母は被爆していません。被爆者の方から話を聞く平和教育を広島で受けてきたけれども、逆に当事者が周りにいる中で、私には語るものがないな、という溝を感じていました。

TBSにいたころ、(広島出身の)綾瀬はるかさんが広島で被爆体験を聞くという企画がありました。

あとでスタッフの方に「もし綾瀬さんが受けてくれなかったら、かわりにキミをという声も出ていたんだよ」と聞かされ、「とんでもない」と思った記憶があります。私には語る言葉がない、無理です、と。

1人の市民として、知りたくなった

「なんでやらないの。広島出身なんだからやらないと」と、先輩に言われたこともありました。

でも、広島だからやるんだ、できるんだという感覚はなかったんです。

仕事として行くと、自分が何かを語らなければいけないというプレッシャーがあります。

仕事を離れて、1人の市民として単純に、知らなかったことを知りたいなと思ったんです。

ポップアップした広告

ニューヨークには、国連の会議等で被爆者の方がいらっしゃいます。その声と思いを残すために何ができるか、現地の日本外務省の人に聞いたり、自分でも調べていたのですが、ある日Facebookを見ていると、コロンビア大学の「オーラルヒストリー専攻」の案内広告がポップアップしたんです。

ニューヨークにいて、「広島」「原爆」「被爆者」、そんな言葉でネットを調べていたからだと思うんですが、すごいもんですね(笑)。

広告アルゴリズムには批判もあるけれども、その人にとって適切なものを出してくる面もあるもんだなあ、と。

アメリカの大学院での勉強は大変に厳しいのですが、インタビュー取材の経験がある自分はある程度、有利になるのではないかとも思い、入学しました。

ひたすら寄り添う作業

ーーアナウンサーや記者として取材を続けてこられましたが、それとオーラルヒストリーの聴き取りは違うものなのでしょうか。

まず、明確に出しどころがあるわけではなくて、記録をしにいくんです。

「取材」として、限られた時間で成果物を出すために被爆者にお話を伺うと、まず原爆投下当日のことに焦点を当てて話を聞くことになります。

しかしオーラルヒストリーでは、ライフストーリーアプローチといって、「生まれて一番最初の思い出は何ですか」と、生まれた時から今までの人生を振り返ってお話を伺うんです。

そうやってお話を聞いていくと、不思議と人生の中に原爆がちりばめられていることが分かるんです。また、聞いた時には私がその意味を気づかないようなことも、仰るんです。あとで録音を聴き直して、「私はなんて分かっていなかったのだろう」と思うこともありました。

最初は、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)代表委員の田中煕巳さんや、事務局長の木戸季市さんといった方々がニューヨークに来られた際、「学生なんですけど、話を聞きたいんです」とデジカメと録音機を持ってホテルに訪ねたんです。

被団協の代表に記者として取材すれば、こちらには聞きたい話がある。向こうにも代表として言いたいことがある。そういうかたちで、通い合いづらい対話になります。

しかし、オーラルヒストリーは「あなたの話を聞かせてください」という、カウンセリングに近い、向こうが話したいことを話してもらうというアプローチです。

普通の対話をつくり、信頼関係をつくり、安心感の中で語ってもらうというやり方です。

被爆体験の「伝承者」へ

ーー2017年に広島市の被爆体験伝承者養成事業に参加され、被爆体験の伝承者を目指されます。

何か広島でお手伝いできないかと思って検索して探し、スカイプで広島市に連絡を取りました。

研修はまず、座学から始まります。被爆の実相、原爆の威力や被害などに関する事実を学びます。

次に、伝承者の養成に協力してくださる被爆者の方々のお話を伺います。そして2年目、3年目は、自分がお話を受け継ぎたい被爆者の方を決めて、その方に付いてお話を聞いてメモを取り、それから原稿を作り始めます。話す練習もします。

今年(2020年)春に、広島市から伝承者としての認定を受けました。

私の場合、まずは学ぼうと広島の原爆資料館に行き、「被爆者の方のお話を聞きたい」と申し込みました。有料で被爆者の方の紹介を受け、講話を聞ける制度があるんです。平和学習などで使われています。

その時に、笠岡貞江さんという方にお会いしました。

笠岡さんは普段、学校などで講話されるんですが、私が1人で来たことに「え、1人ですか?」と驚かれました。

講話は本来ならば、原稿通りの話の流れになります。私が受けてきたこれまでの平和学習でも、一方的に聞くという感じだったのですが、この時は、1対1であることが、すごくよかったんです。お話の途中で、「これってこうですか」「ああですか」と質問しながらやりとりできたんです。

その笠岡さんに、体験を伝承したいとお願いしました。毎回5、6人の伝承希望者で集まって、「今日は暑いね」と多愛のない話をしつつも、笠岡さんを囲んでいろんなお話を伺いました。

「自分ごと」にできないー原爆との遠い距離

ーー広島の近郊に育ち、原爆との距離をどう取ってきましたか。

平和教育を受けていたことは、記憶にあります。しかしどこかで、「別世界の話」という感じもしていました。ただ、冷戦と重なっていたことで、核兵器への恐怖というのは持っていたと思います。

原爆を避けていたというか、あのころは、本当に何も考えていなかったんじゃないかと思います。

それは今の若い人もそうじゃないかなとも思うし、そこはしょうがないと思います。「若い人も今これをやらなきゃ」とは、なかなか言えないな、と。自分も興味を持っていなかったので。なかなか「自分ごと」にはできないと思います。

ただ、広島の学校で平和教育を受けたおかげもあって、「タネ」はまかれていたと思います。それが、あとで芽吹くことになったんじゃないかな、と。

75年の落差 文脈の違いをどう越えるか

ーー伝承者として活動するなかで、何を感じましたか。

最近すごく思うのは、今と昔では、あまりにも時代背景と文脈が違うということです。

対話や平和学習では、同じ日本語を話しているから、分かり合えている気がします。しかし、実は互いに全然違うことを考えながら語り、感じているのではないかと思うんです。

例えば、原爆について語られる(閃光と熱線が)「眩しい」「熱い」という言葉。眩しいといっても、私たちは太陽の眩さぐらいしかイメージできない。

熱いと言っても自分たちが経験する熱さはせいぜい「100度は熱そうだな」という程度。一方で原爆の熱線というのは、数千度です。

「軍国主義」にしてもそうです。当時の人は「お国のために」と考えていたという話。あの頃はそれ以外に選択肢はなくて、「個人」ということはまったく眼中に無かった。全然違う感覚なんですよ。

戦後、その文脈が重なっていた時代はまだ分かり合えたんですが、75年も過ぎてしまうと全然違う世界だと思います。

一番話したいことを話さず、聞かない矛盾

それは伝承者をやっていても感じるのですが、日本語だからこそむしろやっかいで、双方がわかり合うためには「通訳」が必要だと考えているんです。

それがどういうかたちが良いのか、考えています。

オーラルヒストリーで人生を聞くことで分かるのは、原爆投下の日の話から聞かなくても、その人の文脈と背景の中に、原爆という要素が入っている。その人がどういう経緯でそこにいて、その後をどう過ごしたのかを何時間もかけてすべてを聞くから、「あ、なんだ。私が考えていたことと全然違うんだ」という驚きが、そこに見えてくるんです。

しかし、それが平和学習のように1時間の枠で「分かった」ってなることは、あり得ないと思うんです。感想文を書くことになっても、それは自分の文脈で解釈して書くか、定型に当てはめて感想を書くことしかできないんじゃないかと思うんです。

取材や平和学習で、限られた時間で聞く話は、話す人も、語るべきことをたくさん背負わされることになります。みんな原爆投下当日に何が起きたのかを聞きたいし、語る方も語ろうとする。そこに、本人のつらさが必ずしも反映されているとは限らないんです。

被爆者の方にインタビューした時、当日の話をしたあとで、「...普段お話ししているのはここまでなんですけど、まあ、実はこの後が大変でね....。お時間があれば、お話しますけど」と言われたことがあるんです。

要は、相手は私たちが期待する被爆当日の話に合わせてくれていた。しかし、個人の感情でいうと、実は被爆した日よりも、それ以降の方が大変だったという。

本人にとって一番大変だったところを聞かないでいる、語らないでいるわけです。「被爆者の代表」として伝えるべきこととしてはあるのかも知れないけど、その人ならではのところも聞かなくていいのかなと思うんです。

伝承者とは、時代の「通訳」

映画「この世界の片隅に」のように、当時も変わらない生活があったんだ、同じなんだと重ねられるところが多いと、やはり「自分ごと」として考えやすくなります。そこは、個人的な感情の部分です。

一方、その人が見てきたことや意見だけになったりすると、やはり共感しにくいのではないかと思うんです。意見というのは、どういう背景で何故そう思うようになったのかという文脈を、より求められるんです。

まだぼんやりしているんですが、どういう時代背景で何が起きていたのかを、今の感覚を持つ自分が橋渡しするために、「伝承者」をするんじゃないかなと思っています。それはある意味、通訳的なことではないかと。

そして、「メディア」

ーー伝承者とは、その人に成り代わって、いわばイタコになって話すものではない、と。

そうじゃないんです。

まず、話を聞く人と被爆者の間で世代間ギャップがあり、価値観が違う。その溝を、聞き手としてできるだけ寄り添うことで埋め、思いを受け止める努力が必要です。

そうやって思いを受け止めた上でも、伝承者の話を聞きに集まってくれる人との間にも、また溝がある。それを埋めるためには、今度は聞き手に寄り添って聞き手の立場で説明してあげないと、私を介して溝をなくさないと、伝わらないんです。

ーーそれって、海外の異文化圏で起きる出来事を、文脈を含めて日本社会の人に分かりやすく伝える、海外特派員の仕事と同じじゃないですか?

そうなんですよ。これってメディアなんだよ、だから私、これをやりたいんだと繋がったんだな、と思いました。

私は感覚としてアナウンサーを「通訳」だと思っていたんです。それは取材してきた人がたくさんいて、それを受けてどう表現すれば一番視聴者に伝わるかを考える役割だったから、そう思っていたんです。

私は東京外大卒なのですが、学長だった亀山郁夫さんにそんな話をすると「あなた、それは通訳ですよ。外大の子だね」と言われて、あ、ホントだと思ったんです。

確かに通訳になりたかったこともありましたし、「この人、こんな素敵なところがあるんです」っていうのを、その人がアピールしてもなかなか伝わらないのを、私が言いたい人だったという傾向があるんです。アナウンサーの時も記者になった時も、声にならない声を集めて一般の人に伝えるのが好きだったんです。

ただ、メディア企業というある程度の権威を持ったところではなくて、個人的にそういうことをやる人が今増えているし、もっと増えて良いはずだな、と思います。

メディアだけでは背負えない、もっと細かい個人の感情の部分なんかを、私のような一市民として伝えていくことが拡がっていくといいなと思っています。

ーーほかの伝承者はどんな方々なんでしょうか。

いろいろですよ。被爆2世や3世、あるいは胎内被爆されたという方もいらっしゃいますし、平和活動を続けてきて、自分が語り継いでいきたいという方もいらっしゃいます。完全にボランティアなので志を持つ方ばかりです。

もっと伝承者が必要とされるようになったら、市からお金を付けてもらって、それなりの報酬があるといいなと思います。

それは、私がお金がほしいということではありません。

しかし、ボランティアとプロフェッショナルにはやはり違いがあると思うんです。強い熱意を持ち、プロフェッショナルとして人生をかけてやってもいい人が、たくさんいらっしゃるんです。その人たちが、これを職業として広島を発信できるようになれば良いなと思います。

ただ私には、伝承者として越えなきゃいけない壁だなと思うことがあります。

私は技術的に、きれいに上手く話せてしまうんです。でも、伝承活動では、感情から生まれてくる言葉を紡ぎ出す必要があります。きれいじゃなくても、まとまりがなくても伝わるというかたちの方がいいのかも知れないなと思うことがあるんです。

でも自分が得意としていることをやるのが一番だと思うので、私は被爆2世でも3世でもないけれど、通訳的に、思いを次世代が分かるかたちにして伝えていくことだと思うんです。

そうすると、同じ言葉でも、違って聞こえてくるはずだと思っています。

75年のギャップを埋める「文脈の辞書」をつくりたい

今思っているのは、伝承者=かつての文脈の通訳と考えれば、通訳にはかならず辞書が必要です。「文脈の辞書」のようなものがあれば、これから証言者の方がいなくなったとしても、残っている既存のアーカイブから現代語訳をするようなかたちで、かつての文脈を理解できるものができたら良いなと思うんです。

「多文化共生」という言葉があります。これは横の展開の話で、例えばイスラエルとパレスチナのように、文化や宗教が違う人々がどうわかり合うかという点が世界の課題です。原爆や戦争を経験した人としていない人の間で、世代間の理解力を付けるためには、なにかしらつなぐものが必要です。

今後、戦後80年に向けて、時代背景というか文脈というか、キーワードになるようなものをまとめて、分かりやすく学生が使いやすいかたちにして、証言を聞いた時に参考にできるようなものを作れないかな、と最近思っています。

75年前のツイートがバズるわけ

いまNHKの企画で、広島の市民の人たちと一緒に、1945年に中国新聞記者だった大佐古一郎さんという人の日記を元に、日々のツイートを作っているんです。

一郎@ひろしまタイムライン」というのですが、今のコロナの状況に重なるような、今の感覚で理解できるものがバズるんです。一郎さんは3人でツイートしていて、私はエモーショナル担当。妄想癖があるので(笑)。

一郎さんの日記を元に、資料を集めたり、中国新聞の人にインタビューしたりして時代背景を調べると、今の記者と同じような立場で見ていたものが変わってくるんです。

当時の記者は、表現の自由とかいうよりも、国をどうするか、戦争を勝たせるためにはどうするかとか、個人よりも圧倒的に国が先にある時代だったわけです。国よりも個人が先にある今とは、土台の部分から全然違う。そこから見ていくと、日記が全然違うものにみえてくるんです。

私たちは原爆が落ちる、戦争に負けると知っている。でも当時の人たちはそうじゃなかった。そこから見ていくと、同じ文章でも全然感じ方が違うんです。

たとえば一郎さんは、岡山の空襲などを取材して、強く疎開を訴える記事を書いています。それは当時の記者がギリギリ書けたことなんですが、一郎さんは、人命重視ということ以外に、日本が勝つためにはどうするか、そのためにどう無駄死にを防ぐか、というところまで考えているんです。

いまリツイートが増えるのは、「今の感覚でもそうだよね」「今のメディアもそうだよね」というところなんですが、その感覚自体も当時のものとが違っていて、では当時の感覚はどういうものだったのかということも、知ってほしいと思うようになりました。一郎さんの「無駄死にするな」にいいねが付くんですが、その奥にあるものも感じてほしいな、と。

私たちはコロナってこういうものというイメージをいま、共有していると思います。そして、当時もいろんな感覚の共有があった。当時これはこう感じられていたとまとめるだけでも違うじゃないかな、と。それは、研究者たちはそれぞれやっていると思うのですが、学生にも分かりやすいかたちにすると良いんじゃないかなと思います。

それで改めて証言を聞いてみると、当事者の方、被爆者の方がいなくなった世界では、違うんじゃないかなと思います。

ーー改めてですが、被爆体験、戦争体験の継承は、なぜ必要なんでしょうか。

それは公式な答えと個人的な思いで違いはあると思います。

公式には、核兵器は他の兵器と違い破壊力が大きく、その後も放射線による後遺症が続き、人類を滅ぼす可能性もある。有名な言葉では、「人類と核は共存できない」ということになります。

個人的な思いで言うと、一人ひとりの体験を聞くと、凄い話なんです。人間ってこんな大変な経験をするものなのか、と。

こんな大変なことが起きたんだってことを、単純に分かってほしいという思いが、私にはあります。被爆者の方にしろ、沖縄戦の体験者にしろ。

そういうのが伝わっていれば、保有国が核を使うことにも、ためらいは出るのではないか、と。