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KFCおじさん、カーネル・サンダースのすべて

若いCEOのサクセスストーリーにうんざりしている全ての人のために、ある老人の波乱に満ちた人生を紹介しよう。フライドチキンを売りまくった男の物語だ。

ハーランド・サンダース。世界中に展開するフランチャイズの顔で「カーネル」として知られる、ケンタッキー・フライド・チキン(KFC)創業者の本名だ。

サンダースのことを、ブランドロゴとしてしか知らない人も多いかもしれない。しかし、この人がテレビの画面や世界中のイベントで実際に歩いたり、話したりしていた時代もあったのだ。彼の人生について書かれた多くの本を見直して明らかになったのは、この男は口が悪く、短気だったということ。基準通りにチキンを揚げられなかった者は、「杖でぶたれた」らしい。

だが同時に、彼はどこまでも勤勉で、起業家精神にあふれ、情け深く、自分の財産のほとんどを救世軍のような団体に寄付した。

カーネルはかつてはKFCの広告でお馴染みの顔だったが、35年以上も前に90歳で亡くなった。BuzzFeed Newsが彼の子孫から話を聞いたり、彼の人生を描いた物語を読んで明らかになってきたのは、実際のサンダースの物語は、にっこり笑っている顔とは全くかけ離れた、ずっと波乱に満ちたものだったことだ。

20代で富と成功に恵まれた若き天才たちとは違い、サンダースはビジネスが軌道に乗った頃、すっかり60代になっていた。彼の物語は散逸しているが、20世紀初頭の田舎のアメリカ人の生活に起こった急激な変化そのものだ。そして、そのほとんどはチキンとは何の関係もなかった。

サンダースについて書かれた本はいくつかある。ジャーナリストによるものや、彼の娘のマーガレット・サンダースによるもの、そして彼自身が執筆した自伝だ。彼は、数え切れないほどたくさんの変わった仕事を転々とし、事業にも失敗した。その多くは20世紀初頭の技術上の大きな変化と関係していた。鉄道で働いた後、フェリーサービスを運営し、ガス灯を販売し、ガソリンスタンドを経営した。その後、1930年代に米国中東部のケンタッキー州・コービンで国道沿いのモーテルとレストランを始めた。

引退の年齢が近づきつつあった1950年代中頃サンダーズは、いくばくかの年金収入を得ようと最後の計画を立てた。当時の銀行にはほとんどお金がなかったため、彼は町から町へ車を走らせ、レストランオーナーを説得してフライドチキンの秘密のレシピ提供の代金として、チキン1羽につき5セント支払う契約を結んでいった。

「祖父の商才は管理可能な小規模企業の経営に限られていました。祖父はうまくやってのけましたが、どのような規模にしろ(後のKFCの姿)とは異なるものでした」と、孫のTrigg AdamsはBuzzFeed Newsに語った。

しかし、この地味な取り組みを始めたことでサンダースは、アメリカにおけるレストランのフランチャイズブームの先頭に立った。このブームを後押ししたのは、彼が若い頃に従事していた鉄道や道路といったインフラの、アメリカ全土での一斉の強化だった。商標を保護するために1946年に制定されたランハム法から人口の急増、ハイウェイシステムの開発、アメリカ郊外の発展まで、全てがフランチャイズの隆盛をけん引する環境を整えた。

国際フランチャイズ協会(International Franchise Association)の教育財団会長のジョン・レイノルズは、サンダースを「開拓者」と呼んだ。サンダースが品質管理と品質の一貫性を導入したのは、顧客にある一つの店舗を支持してもらうのではなく、ブランドを支持してもらうためだ。

サンダースはまた、客を呼び込むため「カーネル」という芝居気のある人物像を作り上げ、フランチャイズ加盟店を増やしていった。

ただし、ここに至るまでの道のりは決して平坦なものではなかった。

サンダースは1890年生まれ。ケンタッキー州ではなく、インディアナ州の農場で育った

サンダースは1902年生まれのマクドナルドの創業者・レイ・クロックより12歳年上だ。彼は、熱病で亡くなった母の手伝いで弟と妹の世話をするため、6年生で学校を辞めて働きだした。

サンダースは義父との折り合いが悪く、12歳で家を出た。1906年に年齢を誤魔化して軍隊に入りキューバへ送られた。その後ちょうど4カ月で除隊した。

こんな短期間の勤務では、大佐には当然なれなかった。大佐=カーネルの肩書が出来たのは1935年になってからだ。当時、ケンタッキー州知事のRuby Laffoonから彼の慈善事業とコービンのレストランによる州の料理への貢献に対して名誉称号「ケンタッキー・カーネル」が与えられたのだ。

サンダースは様々な会社を転々とし、その多くが失敗だった

伝記によると、サンダースは短気で喧嘩っ早い毒舌家で、勤勉であるにもかかわらず、失業することが多かった。KFCのまとめでは、「6年生で中退、農場労働者、軍のトラック係、機関士、鉄道員、法律家志望者、保険外交員、フェリーボート、タイヤのセールス、見習い産科医、政治家候補(当選しなかった)、ガソリンスタンド経営、モーテル経営」となっている。

しかしサンダースは、「人生で起きた全ての苦難に打ち勝つという貪欲なまでの意欲」があったと娘のマーガレットが伝記「The Colonel's Secret(カーネルの秘密)」に記している。

時は1900年代初頭で、鉄道ブームだった。10代でキューバから戻った後、サンダースはアラバマで機関車のかまどから灰をさらう仕事に就いたと自著に記している。機関車に関係する場所で働くことは、「おそらく当時の同年代の若者の9割がたの夢だった」。しかし、彼は、数年後、業務命令違反の疑いで解雇された。次はイリノイ州の鉄道の仕事に就いたが、それも、けんかでクビになった。

1915年にはアーカンソー州の弁護士になったが(当時は弁護士資格がなくても法廷に立てたのだ)、そのキャリアも「自分の依頼主と法廷で、しかも裁判官の目の前で、殴り合いのけんか」をして終わったと、Josh Ozerskyは著書「Colonel Sanders and the American Dream(カーネル・サンダースとアメリカン・ドリーム)」に記している。彼は逮捕され、暴行罪で起訴されて、以後の活動を禁止された。

その後、保険のセールスの仕事でも解雇された。

そこで、オハイオ川でフェリーサービスを始めたが、橋が架けられて廃業に追い込まれた。農夫への売り込みを期待してアセチレンランプの会社も始めたが、電気と電球の普及で万事休すとなった。

ケンタッキー州でのミシュランタイヤのセールスマンとしても勤務したが、自動車事故で車を全損してけがを負って終わった。新しい営業用の車を買う余裕は彼にはなかったので、ミシュランは代わりを雇った。

1920年代後半、サンダースはケンタッキー州ニコラスビルでガソリンスタンドの経営していたが、大恐慌とその地域で続いて起こった干ばつにより倒産した。ガソリンスタンドは潰れる運命にあったのかも知れないが、サンダースは後に、「私のキャリアで最も重要な転機の一つ」だったことを悟った。

新しい高速道路と車社会のはじまりが、サンダースのビジネスの土台を作った

最初のガソリンスタンドを閉めた後、サンダースはコービンで1930年に2番目のスタンドをシェルとの契約で始めた。サンダースは臨時収入を少し得るためにガソリンスタンド内にテーブルを置いて食事を提供する。これが後に彼の偉大な事業に発展する種となった。

コービンは、酒の密造業者同士の争いが銃撃になるような荒くれた町だった。サンダースは商売敵のガソリンスタンドのオーナーMatt Stewartを撃ってしまった。原因は、それぞれの店に客を引きつけるための、看板の塗装を巡るいざこざだった。KFCはこの事件を避けようとはしていない。KFCによる銃撃の再現動画を紹介しよう。

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サンダースは図らずも出産ビジネスに参入した

ルーズベルト大統領肝いりの雇用促進局(大恐慌後のアメリカ人の雇用を回復するためのニューディール政策の要)のボランティアを通じて、サンダースは地域の道路建設に取り組んでいる多くの男たちが妊婦を抱えているが医者に払う金がないことを知った。

「そこで、私はバケツにハサミやガーゼやワセリンに入れて準備しました。電話を受けるとそのバケツを掴んで飛び出しました」と、著書に書いている。

コービンはまた、サンダースがClaudia Priceに出会った町だ。彼女は妻の家事を手伝うために雇った離婚歴のある女性だった。彼女はサンダースの愛人から最終的に1949年彼の2番目の妻になった。

「彼女の存在が騒動になることは最初から明らかだった」と、娘のマーガレットは記している。「母は自分一人で父の身体的欲求を満足させることができないことを認めようとしなかったが、それは結婚当初から母には荷が重すぎたようです」。

ガソリンスタンドのキッチンが、モーテル付きレストランへと成長

サンダース独自の国道沿いのレストランの売りはフライドチキンだったが、まだケンタッキー・フライド・チキンという名前ではなかった。このレストランは「サンダース・カフェ」として知られていた。このカフェは、食事で人気のドライブインとなったが、フライドチキンで有名なだけでなくステーキやハム、ビスケットでも有名だった。サンダースは他に2つの店をオープンしたが結局売却することになるという不遇なレストランだった。フードライターのJosh Ozerskyは、コービンのレストランを「全面的な成功」と評した。

だが、サンダースは不運に見舞われた。20歳の息子を扁桃腺を除去した後の感染症で1932年に亡くした。その後、1939年の感謝祭の時、レストランを焼失した。

サンダースは140席のレストランを再建し、圧力方式のフライドチキンを始めた。この方式は調理過程を短縮するもので後に特許を取得した。カフェは繁盛し続けた。しかし、サンダースが引退の年齢にさしかかった頃、(変わりゆく時代を再び象徴する)新たな障害が彼を廃業に追い込むことになっていたように思えた。

建設中のハイウェイによってサンダースの店から、彼が20年以上にも渡って築き上げた車の流れが遠のいてしまった。1956年、彼は事業をオークションにかけ75,000ドルで売却したが、彼によると代金は税金と未払い手形の支払いに充てられた。この時、サンダースは65歳だった。

「私は生活費に充てる社会保障小切手を持っていましたが、それが全てで十分ではありませんでした」と、サンダースは記している。

60代で無一文のサンダースの解決策はフランチャイズ化だった

カーネルの仕事人生が終盤に近づいた頃、ようやく我々が知るKFCが形を成し始めたのだった。

サンダースはハイウェイプロジェクトが始まる前に小規模なフランチャイズを試していた。最初のフランチャイズ加盟店は、ルイスビルの繁盛店だった。しかし、コービンのレストランが終わりを迎えた時、サンダースはレストラン経営を辞めてフランチャイズをメインの事業にする決心をした。これが決定的な転機だった。

「祖父は10店舗のレストランをフランチャイズ化すれば社会保障で引退するのに十分だろうと考えました」と孫のTrigg Adamsは述べた。チェーン店はそれをはるかに超えて拡大したが、いつも形式ばらず握手によってだった。サンダースは圧力鍋とスパイスの袋をトランクに詰めて長距離を運転し、車の中で寝泊まりしながらレシピを売った。

後にインターネットが消費者の世界をデジタル企業家たちに開放したように、フランチャイズ化によってサンダースは彼のレストランが直面する地理的障害から解放され、だれがどこでチキンを料理したいとしても使用料を取ることが可能だった。

サンダースは彼の人気のフライドチキンのレシピをフランチャイズ展開したが、そのモデルは独自の物だった。当初サンダースは、フランチャイズ加盟店にミックスしたスパイスを売り、彼の調理法でチキンを料理するよう訓練した。サンダースは、彼らに使ったチキンの数を記録し、一つ売れるごとに5セント支払うよう求めたと、マーガレットは記している。また、全てのレストランは「カーネル・サンダースのレシピを使ったケンタッキー・フライド・チキン」と書いた目立つ看板を彼の著作権付ロゴを付けて掲げる必要があった。

フランチャイズに加盟したPete Harmanは、ソルトレイク・シティーに住むモルモン教徒だが、サンダースのおいしい商品専門のレストランを開店しようと決め、そのレストランをケンタッキー・フライド・チキンと名付けた。

テイクアウトのみのレストランをオープンすることに重点を移したが、このアイデアはサンダースの娘のマーガレットのものとされている。これがケンタッキー・フライド・チキン・レストランの始まりだった。

「フランチャイズが大きな商売になる可能性をカーネルに気付かせた」のはHarmanだったと、Adamsは述べている。「大成功するとPeteは示唆した」という。

フランチャイズ加盟店は5セントの使用料を払い続けた。今日では普通のことだが、フランチャイズ料はなかった。「フランチャイズ権の販売という市場性のある資産には関心がなかった」とマーガレットは記している。というのもこの開業資金を調達することが関係するレストラン店主の重荷になるからだ。

マーガレットが、業界団体であるNational Restaurant Associationの会議で述べたところでは、父がマクドナルドをフランチャイズ展開するRay Krocに「フランチャイズ料を請求することは間違いだ」と言ったが、彼は異議を唱えた。サンダースは会社を所有する限り、その方針を貫いた。

サンダースはまた、レストランの品質も管理した。「父は、出来る限り上質な食べ物を販売したかっただけでした」と、Adamsは述べている。「父は、全てを正しくやっていないと見るや、誰でも杖でよく叩きました」。

サンダースのフランチャイズは、1963年までに600店舗以上となった。1964年、サンダースは会社を投資家に200万ドル(今日の約1,500万ドルに相当)で売却したが、カナダでの商売の権利は持ち続けた。展開は加速し、1966年に株式を公開した。フランチャイズ加盟店は自分たちで業績を向上させ、ケンタッキー・フライド・チキンはレストランのサクセス・ストーリーとなった。ケンタッキー・フライド・チキンは、1970年までに48か国、3,000店まで拡大した。

もしサンダースがケンタッキー・フライド・チキンを売却しなかったら、「会社はこれほど飛躍的に成長したとは思いません。これをやり遂げて実現させるには、豊富なマーケティングスキルと国際法のスキルが必要だったからです」と、Adamsは述べた。「しかし、その成長スピードは売却前でさえ、コントロール出来ないほど速かったことを分かって欲しいのです。それが会社を手放して引き継がせた理由です。父曰く、自分には大きく、複雑になり過ぎたと。父は、経営したいとさえ思わないことに気付いていました。あの年なら尚更です」。

しかし、サンダースは事業の成長のあらゆる局面に絡んでいたので喜んで手放す気は無かった。サンダースは有名になる前、テレビショーのI've Got a Secretで自分の物語を語っている。

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テレビショー I've Got a Secretで物語を語るサンダース

サンダースとKFCは結局お互いを相手取って訴訟を起こした

サンダースは、ケンタッキー・フライド・チキンを売却後も、有給の広報担当者兼ブランド大使として、髭を生やし白いスーツを着こなし、残りの人生をかけてコマーシャルに出演しトークショーの視聴者に自分の物語を語り続けた。

「父は、世界で一番有名な宣伝マンになるため進み続けました」と、マーガレットは記している。全国広告に登場したことで事業を「飛躍的に押し上げた」と、Adamsは述べている。

ただし、会社との関係は、カーネルが会社の取る方針に失望するにつれ、ピリピリしたものになった。本社は短期間でテネシーに移転し、フランチャイズ料の請求を始め、チキン1つ当たり5セントの使用料徴収から売上合計に対する一定割合の請求へと変更された。サンダースは会社に不信感を持ったが、今や自分自身が会社の顔であることに気付いた。

Adamsによると、サンダースが「Colonel Sanders' Dinner House(カーネル・サンダースのディナーハウス)」という名前の着席式レストランのオープンを決めた時、KFCはその名前の権利は購入済だと主張した。サンダースが名前を「Colonel's Lady's Dinner House(カーネルのレディーのためのディナーハウス)」に変更すると、今度は「colonel(カーネル)」の権利を所有していると主張した。サンダースは会社を相手取り、この新しい事業のフランチャイズ化を邪魔したとして、1億2,200万ドルを請求する訴訟を起こした。KFCを買い取った食品会社・Heubleinは、サンダースをKFCの商標侵害で提訴した。伝えられるところによれば、1975年に問題は解決した。

だが、それで終わりではなかった。ボーリング・グリーンのケンタッキー・フライド・チキンのレストラン店主も、グレイビーソースが壁紙の糊のような味がすると文句を言われて、サンダースを名誉毀損で訴えた。裁判所は1978年に訴えを却下した。

こうした緊張関係にも関わらず、サンダースは人生の最後をかけてKFCの宣伝を続けた

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「祖父にとって、人生は仕事でした」と、祖父についてAdamsは語った。「祖父を心から愛していました。素晴らしい人でした」。

サンダースは、穏やかに暮らしながら、財産の多くを救世軍などの慈善団体に寄付した。Adamsによると、サーダースはこのことをとても誇りにしていたとのことだ。「もし祖父がお金持ちで誰かに必要とされていたとしたら、頼れる人だったはずです」と述べて、祖父が家族に莫大な財産を残さなかったことを付け加えた。

彼の後半生では、宗教の重要性が次第に高まった。89歳の時、サンダースはチェーン店の宣伝旅行で来日した。また彼は、福音主義のキリスト教徒のテレビ番組であるThe PTL Club(上のビデオクリップを参照)にゲスト出演し、とりわけ人を罵る癖について話し合った。

「悪いとは分かっていたのですが、止められませんでした。鉄道の仕事に就いたのは本当に若い時でしたから。それも私が完全に神の道に従えない理由の一つです」と、サンダースは述べた。

サンダースは1980年12月16日に亡くなった。彼の家族はもうKFCに関係してない。

彼の死後何年もの間、KFCは海外で素晴らしい成長を遂げたが最近、食品や食品の品質に関する誤った認識(カーネルの生前の大きな悩みの種)に悩んでいる。この10年でアメリカ国内での閉店により、2004年の5,525店舗から2014年末には4,370店舗にまで縮小している。

KFCは今ではカーネルのことを「北極星」のような目標として見直している。サンダースのことを覚えている人たちが皆、新しいコマーシャルの彼のパロディーをこころよく思っているわけではないが、会社側は、サンダースとその業績に対して敬意を表することに熱心だ。

「職人魂を持って仕事にあたり、きちんと作業し、近道をしないという考えは人々が求めていることと非常に近いものです。恐れずに世界最高のチキンのセールスマンに戻ろうとすればもう一度輝けると思います」と、KFCアメリカのマーケティングチーフのKevin HochmanはBuzzfeed Newsに語った。