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真っ黒に塗りつぶされた津波の絵は、色鮮やかな笑顔の絵に。東北を写し続ける写真家が語る「心の復興」

さまざまな視点から、#これからの防災を考える連載。第三回は3.11以降東北を写し続ける写真家・石井麻木さんと「心の復興」について考えた。

自然災害が多いと言われる日本だが、大雨や土砂災害をはじめとした災害の発生頻度はさらに増加傾向にある。防災は日本に生きる私たちに深く関わる問題だ。

防災を語るうえで欠かせないファクターの一つが復興。本記事ではとくに「心の復興」に焦点を当て、3.11以降東北を写し続ける写真家・石井麻木さんに話を聞いた。

十代で経験した両親の離婚。そして、東北へ一人旅

―写真を撮り始めたのは、いつから?

初めてちゃんとカメラを持ったのは17歳のとき。その頃は趣味として友達の音楽バンドを写していました。仕事として始めたのは19歳から。それからは映画や音楽関係、ポートレートを写させていただくことが多いです。

―石井さんは「心を写す」ことを大切にしていますが、それは何故でしょう?

17歳のときに両親が離婚して、父親がフィルムカメラをひとつ残していきました。そのカメラを片手に東北へ旅に出ました。着の身着のまま、ふらっと。今考えるとすごく寂しい一人旅でした。

帰って現像してみると、誰もいない景色、遠くの人影、水面に映る影…そんな寂しく泣いているような写真ばかりで。

「写真ってこんなに心が写るんだ」と衝撃を受けました。そこから、写る心と書いて「写心」と思うようになったんです。

涙しながら写した写真は写真も泣いている、笑顔で写した写真は写真も笑っている。自分の心だけでなく、相手(被写体)の心も写す。そして、写真を見る人の心も写します。

一枚の写真でも、その人の背景によって捉え方が変わる。そのときの心が写るんだと思います。

「止められる悲しみがあるなら止めたい」月命日に東北へ通う理由

―3.11発生時は、どのように過ごしていましたか?

都内の美術館で、翌日から始まる写真展の設営をしていました。ほぼ飾り終えたときに地震が起きて、ガラガラとすべて崩れ落ちてしまった。写真展は一旦中止にして、ひたすら物資を集めました。

ニ週間後やっと東北に入ることができて物資を届けました。そのとき、避難所では写すつもりはなかったので、肩から隠すようにカメラをかけていました。けれど、それを見た被災された方から「とにかく写して、伝えてほしい」と言われたんです。その声がなければ写すことはなかったと思います。

―それから東北へ通うように?

当時は毎週のように物資を届けに通っていました。8月になり、みなさん避難所から仮設住宅に移っていかれました。

そのときに「月命日に一人でいたくない」という声を聞いて、一緒にいることならできると思ったんです。毎月11日に必ず東北へ行くのには、そういう思いがあります。

―いまも月命日には、毎月東北へ通っているんですね。

はい。月命日に通わせてもらっているのには、もう一つ理由があって…。ある月命日の前々日に、87歳のおばあちゃんが仮設住宅で自ら命を絶ってしまったことがあったんです。

翌日の新聞には「孤独死」という三文字だけが残っていました。それがもう、すごくつらくて。もしも一杯でもお茶を飲んだり、ご飯を食べたり…一緒に過ごせていたら、そういうことは起きなかったのかなと。

災害で生まれてしまう悲しみは止められないかもしれないけど、止められる悲しみがあるなら止めたい。そのとき強く思ったんです。

「新しい一歩を踏み出すため」夫婦の写真に写る心

―3.11以降、東北に通いながら撮影を続けるなかで葛藤はありましたか?

3.11の直後、避難所で着の身着のまま数週間お風呂にも入れない状態の人にカメラを向けることは、私にはできませんでした。

なので、炊き出しのときの一瞬ホッと和らいだ表情や、久しぶりにお風呂に入れたときの柔らかい表情、子どもたちが外で駆け回って遊ぶ姿……そういうところから、写させてもらうようになりました。

涙や悲しい光景は写せない。崩れた建物も写してきましたが、いつも涙を止めることができないまま撮影していました。苦しかったですが、残して欲しいという声があること、残すことに意味があることを自分に言い聞かせ、奮い立たせて。そんな連続でした。

―被写体の人たちは、どんな反応でしたか?

印象的だったのが2011年4月のこと。定員がいっぱいで避難所に入れず、外の駐車場に停めた軽トラで一ヶ月過ごしているご夫婦がいらっしゃいました。そのご夫婦は家もアルバムもなにもかも流されてしまい、写真が一枚も残っていないと仰っていました。

それで「今日から新しい一歩を踏み出すための、最初の一枚を写してくれませんか」と、向こうから声をかけてきてくださって。「写真で力になれるんだ!」と喜んで写させていただきました。

この写真には慈しみや、さまざまな心が写っていました。着の身着のまま横になって眠ることもできない状態で、こんな表情をしてもらえることに胸を打たれました。

「今日も明日も生きようと思えた」女子高生を救った存在とは?

―人の弱さと強さを見つめ続けた10年だったんですね。

一生分見てきたかもしれないくらい。でも、その度に自分自身の弱さと強さも見えたんです。人と人は「合わせ鏡」なんだと思いました。

相手が笑っていたら嬉しい気持ちになって笑顔になるし、泣いていたら悲しくなって泣いてしまう。でも、そうありたいと思う。「心」は一番難しいけれど、一番大事にしたいんです。

―東北の人たちの「心」に変化を感じる場面はありましたか?

被災して間もない頃、真っ黒に塗りつぶした絵ばかり描いていた子がいたんです。「これはなに?」と尋ねたら「津波の絵」と答えてくれました。

その絵は、本当にすべて真っ黒で…。それが良いとか悪いとかじゃなくて、とても悲しくなってしまった。でも、時が経つにつれ徐々に色彩が華やかになっていって、最近では虹色の絵を描いていました。そのときは、心の色の変化が見えて嬉しい気持ちになりました。

―「心」に彩りを取り戻していったんですね。

心の復興には時間がかかります。だけど、一番大事な部分です。

街が整備されていくと、徐々に復興支援ライブのようなカルチャーイベントもできるようになりました。

ライブに来たお客さんはみんな泣きながら笑いながら、ぐしゃぐしゃになりながら音楽を受け取っていました。そんな姿に私も涙が止まらなくなりながら撮影をしていました。感情と感情がぶつかり合うような、そんな体験でした。

音楽って、私の中ではライフラインの一つなんです。昔から「衣・食・住・音楽」くらい大事なものです。

―音楽をはじめ、カルチャーやアートは生きる希望になりますよね。

まさにそう。避難所で高校生の女の子に出会ったのですが、彼女は「大切な人を亡くしてしまって、明日にでも死にたい、もう生きていたくないと思っていた。けれど、昨日ラジオから流れてきた曲を聴いて、今日も明日も生きようと思えた」と話してくれました。そのとき、「音楽には人を生かす力がある」と痛感しました。

自分も含め音楽に救われる人がいっぱいいることを、復興支援ライブや音の鳴る場でたくさん感じてきました。音楽だけでなくカルチャーやアートは心の栄養です。それらがなかったら生きられなかった人がいたかもしれない。本当になくてはならない大切なものだと信じています。

被災地の人びとに寄り添い、心を写し続ける写真家・石井麻木さん。彼女は東北で写した光景を人びとへ伝える写真展を全国で開催している。そして、2019年に熊本で開催した写真展ではトヨタ自動車の販売店の厚意により、会場を無償で使わせてもらったと言う。

トヨタ自動車は3.11を契機にものづくりを通じた東北復興支援をおこなっている。また防災の分野では、災害時などの停電にも電気を供給できる給電車のラインアップを充実させるなど、さまざまな取り組みに尽力している。

石井さんは同社の防災給電の取り組みに触れ、最後にこう語った。

「災害が起きたとき3日間耐えることが重要だと言われますが、トヨタの給電車は4.5日分の電気を備蓄できるそうですね。寒さや暑さを凌いで、多くの命を助けることができる。3.11当時もしもこの給電車が世の中に普及していたら、どれほどよかっただろうと思います」

トヨタ自動車の防災給電の情報はこちら

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※2021年11月26日HuffPost Japan掲載『真っ黒に塗りつぶされた津波の絵は、色鮮やかな笑顔の絵に。東北を写し続ける写真家が語る「心の復興」』より転載