胸が熱くなる「闘将」星野仙一さんの名言

    「野球と恋愛をしてよかった」

    中日、阪神、楽天の監督を務めた星野仙一さんが1月4日に亡くなった。6日、楽天球団が発表した。70歳だった。

    球団の発表によれば、星野さんは一昨年7月に急性すい炎を発症したことをきっかけにすい臓がんであることが判明。

    体調に波はあったものの、仕事に支障をきたすことなく過ごしていたが、昨年12月末に体調が悪化。最後は家族に見守れながら穏やかな顔で天国へ旅立ったという。

    山本昌さん「一番の大恩人を失いました」

    今日は仕事をしてますが 仕事にはあまりなっていないです。 今朝早く星野監督の訃報を聞き 呆然としたまま過ごしてます。 私を野球選手として一人前にしてくれた人、一番の大恩人を失いました。 いつかいろいろな思い出を 皆さんにお伝えしますが 今は故人のご冥福をお祈りいたします。

    突然の訃報にヤンキース田中将大投手も「信じられません」

    あまりに突然のことで信じられません。楽天イーグルスで日本一になり、星野監督を胴上げできたことは、僕の野球人生の大切な思い出です。 メジャーでプレーすることを応援してくださいましたし、感謝の気持ちでいっぱいです。 心よりご冥福をお祈… https://t.co/4iWwOz4IXW

    熱い言葉で野球ファンを震わしてきた星野さん。一生を野球に捧げた闘将の人生を言葉と共に振り返る。

    打倒・巨人に燃えた現役時代

    星野さんは倉敷商、明大をへて1968年、ドラフト1位で中日に入団。

    ドラフト前に1位の約束を受けたという巨人から指名を受けられなかったことで、打倒・巨人に燃えた現役生活だった。

    闘志むき出しの投球で「燃える男」と呼ばれ、1974年には巨人のV10を阻んだ。中日は優勝し、自身も沢村賞、最多セーブに輝いた。

    プロ野球の珍プレーの代名詞となっている中日・宇野勝のヘディング事件。この時、マウンドに立っていたのは星野さんだった。

    エラーで巨人選手が得点した際にはグラブをマウンドに叩きつけ悔しがった。

    宿敵ジャイアンツも星野さんの死を悼む

    株式会社楽天野球団は6日、星野仙一 取締役副会長が今月4日に亡くなったと発表しました。星野さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。https://t.co/s43zDj5qFD #ジャイアンツ #巨人

    「今日ぐらい笑顔で終わらなきゃばちが当たる」

    1982年に現役を引退。1986年のオフ、中日の監督に就任する。

    現役時代と変わらぬ感情むき出しの采配、のちに正捕手だった中村武志がテレビ番組で「殴られない日の方が少ない」と振り返るほどの鉄拳制裁で「闘将」と呼ばれた。

    その一方、これはと思った選手は使い続け、中村、立浪和義、山本昌などといった選手を育てていった。

    就任3年目の1988年にはリーグ制覇。優勝会見で試合中に珍しく笑顔を見せたことを指摘されると「今日ぐらい笑顔で終わらなきゃばちが当たる」と語った。

    「選手をここまで信じてきてよかった。つくづく幸せな男だと思います」

    1991年に監督を辞するが、1995年オフに再び中日のユニフォームに袖を通す。

    2期政権1年目の1996年、ナゴヤ球場での最後の試合において、眼前で巨人のメイクドラマを達成される悔しい場面もあった。

    試合終了後のセレモニーでは「本来は今日、みなさんにここでさよならを言いたくなかった。でもさよならを言わなくてはならなくなった。ジャイアンツファンのみなさんおめでとう」と悔しさを押し殺しながら、巨人ファンを祝福した。

    しかしナゴヤドーム元年となった1996年には屈辱の最下位と苦しい戦い。97年には最愛の夫人を白血病で亡くした。

    それでも闘将はグラウンドで戦い続けた。1999年には神宮球場で2度目のリーグ優勝を達成。11年ぶりに宙を待った。

    優勝インタビューでは「選手をここまで信じてきてよかった。つくづく幸せな男だと思います」と破顔一笑。

    「1年間、1年間苦しい戦いでドーム3年目にしてこういう形になり、皆さんの辛抱が、声援が選手を奮い立たせてくれました。そして今、みなさんに感動を与えている選手に拍手を送ってやってください」とファン、選手への思いを語った。

    「このタテジマで、この甲子園で、みんなの前で胴上げされたかった」

    2001年、5位と下位に沈んだチームの責任を取り、中日の監督を辞任。その年のオフに4年連続最下位と低迷していた阪神の監督に就任する。

    就任会見では「戦う軍団にしたい」と語り、24人の選手が阪神から離れる血の入れ替えなど、改革を進めていった。

    阪神初年度は4位に終わったが、2年目の2003年には金本知憲、片岡篤史、アリアスら移籍組、桧山進次郎、赤星憲広、井川慶ら生え抜き選手が見事に融合し、圧倒的な強さでリーグを制した。

    満員の甲子園で優勝を決めた後のインタビューで「このタテジマで、この甲子園で、みんなの前で胴上げされたかった」と喜びを語り、阪神ファンは18年ぶりの優勝に酔いしれた。

    この年、健康上の理由により監督を辞任。阪神のオーナー付きシニアディレクター(SD)に就任する。

    「ここ1、2年、無性に野球がしたくなった。私は本当に野球人」

    SDに就任後は阪神を上位で戦えるチームにするためバックアップした。

    2007年には北京五輪の野球日本代表の監督に就任。しかし4位と結果が伴わず、批判にさらされたこともあった。

    2010年には楽天の監督就任の話が浮上する。

    10月のSD退任の会見では「ここ1、2年はもう無性に野球がしたくなった。そういう想いが芽生え、やはり私は野球人なのだなと感じた」とグラウンドへの途切れぬ思いを語り、阪神を去った。

    10月末、仙台で会見を行い、楽天の指揮官に着くことが正式に発表された。

    シーズンを間近に控えた、2011年3月11日。ホームグラウンドの東北を震災が襲う。

    「東北の子供たち、全国の子供たち、そして被災者のみなさんにこれだけ勇気を与えてくれた選手、褒めてやってください」

    就任1年目で起こった未曾有の震災。チームは遠征先の兵庫県明石市にいた。

    2016年のテレビ朝日のインタビューで当時の心境を語っている。

    「選手にすぐ家族の安否を取れと言った時、7割か8割しか連絡が取れない。残りの2割が気になって仕方ない。当時横浜に移動し、家族と選手が対面する姿を見てよかったとほっとした」

    1年目の順位は5位。勝負師としては失格と思いながらも、震災後の選手の心理状態では仕方ないとも考えていた。

    「うちの球団は12球団一ボランティア精神が旺盛。試合の午前中、グループで被災地を回って、夕方にはゲーム。これが毎日の繰り返し。監督としては余力を残してゲームをという思いもあったが、選手、球団が一生懸命やっているのでストップはできなかった。この1年はしょうがないと思った」

    就任2年目は4位。そしてユニフォームを脱ぐ覚悟もした3年目、楽天は球団初のリーグ優勝、さらに日本一にも輝く。

    自身にとっても選手、監督時代を含めて初めての日本一。本拠地・仙台での胴上げされた夜。飛び出したのが選手への労いの言葉だった。

    「東北の子供たち、全国の子供たち、そして被災者のみなさんにこれだけ勇気を与えてくれた選手、褒めてやってください」

    「こんなにいっぱいのナゴヤドームは最近見たことがない。もっとドラゴンズを応援してあげてください」

    2014年には楽天の監督を退任し、翌15年9月には球団副会長に就任。2017年にはプロ野球殿堂入りを果たした。

    6月のオールスター第1戦のナゴヤドームでスピーチを行った。

    これまで応援してくれたファンへの感謝、野球へ関われることへの幸せを語った後に「ここへ来ると中日ファンのために一言、小言を言いたい」と前置きしてこう語った。

    「こんなにいっぱいのナゴヤドームは最近見たことがない。もっとドラゴンズを応援してあげてください。甲子園も仙台のコボスタもいつも満員ですよ。ここだけガラガラ。もっとしっかりドラゴンズを応援してあげてください」

    この言葉に対し、ナゴヤドームからは拍手が起こった。名古屋で愛された星野さんだからこその激辛のエールだった。

    「野球と恋愛をしてよかった。もっともっと、野球に恋をしたい」

    2017年11月28日、東京で開催された野球殿堂入りを祝う会で、多くの出席者の前に野球をやっていたことに感謝した後「野球と恋愛をしてよかった。もっともっと、野球に恋をしたい」と尽きぬ野球への思いを明かした。

    祝賀会では「全国津々浦々に子供が野球をできる環境を作ってあげたいという夢を持っています」との思いも語った。

    楽天の発表によれば「息を引き取る直前まで『コーチ会議に出られるかな』と言っておりました」という。

    野球を愛し、野球ファンに愛された闘将は、最後まで野球への情熱を燃やし続けていた。

    BuzzFeed JapanNews