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鈴木愛理「アイドルのまま、アイドルを超えて」

「アイドルに憧れられるアイドル」と呼ばれたアーティストのこれまでとこれからの物語

「いやぁ、びっくりした」


鈴木愛理が『スッキリ!』でのパフォーマンスが終わると、司会の加藤浩次は驚きの声を上げた。

事前のトークでのふにゃりとした笑顔を忘れさせるほどの、キレのある激しいダンスを見せたからだ。

加藤の驚きは鈴木を知らず、テレビを見た人にとっても同じだっただろう。

ただ鈴木を知るアイドルファンだけは「すごいだろ」と誇らしげだった。隠していた宝物を自慢する、そんな喜びがSNSには満ちていた。

アイドルが中心だった昭和から、グループアイドルの時代の平成へ。AKB48、ももいろクローバーZ、欅坂46...。現在まで続く流れの中で『モーニング娘。』とプロデューサーのつんく♂はその礎を築いた存在だ。

口パクではなく生歌、徹底的に叩き込まれた16ビートのリズム。「アイドル戦国時代」と呼ばれ、数多くのアイドルグループが生まれた2010年代以降も、つんく♂の作った「ハロー!プロジェクト」のアイドルたちは一線を画す存在だった。

中でも鈴木は、実力No.1と言われたアイドルグループ「℃-ute」のメンバーとして活躍し、ハロプロのエースと呼ばれた。

同時代のAKB48や乃木坂46の人気メンバーほど世間的な知名度はないかもしれない。けれど高いスキルと存在感は他のアイドルファンも認める存在。

「歌もダンスもルックスも、アイドルとして完璧」(NMB48山本彩)など同じアイドルからも尊敬を集め、「アイドルが憧れるアイドル」と呼ばれた。

なんでもできるアイドルというイメージがある。取材中にそう話を向けると「そんなことないってばよう」と鈴木は、なぜかうずまきナルトのような口調で答えた。

慶應大学卒、ファッション誌『Ray』の専属モデルを務める美貌と、ともすれば嫌味になるスペックを誰からも愛されるアイドルたらしめているのは、このどこか抜けた雰囲気にある。

「中澤裕子さんを筆頭にちゃんと上下関係があって、つんく♂さんの教えるリズム感、16ビートや歌い回しを小さい頃から叩き込まれて、独特の空気感があった」というハロプロ時代。

歌が好きだった鈴木は、5歳からモー娘。が所属する芸能事務所の音楽スクールに通い、2万8千人が応募した「ハロー!プロジェクト・キッズオーディション」に8歳で合格。以後、ハロプロのアイドルとしての道を進んでいく。

平成のアイドルとは不完全さを楽しむ文化だと言える。ダメな部分がある子がそこを乗り越え成長する。アイドルファンの多くは、そうした成長物語を応援する。これはハロプロにおいても変わらない。

その点、8歳の時点で「可愛げがない」と言われるほどの歌唱力を持ち、ダンスもハイレベルな鈴木は、どこか応援しづらさのある存在でもあった。

「ファンの方から握手会で『愛理ちゃんは出来上がっていてつまらないから推し変するね』と言われたことがあって、えーっ、やめてと寂しかったです。そういう考えもあるんだなと知ったのですが、だからと言って、スキルを落としたりとか、自分の満足いく手前でとどめておくのも違うので」

なんでもできる子というイメージだが、もともと細かった声を少しずつ太くするなど、常に努力を欠かさなかった。

ある時℃-uteメンバーから自虐的に「愛理は天才なんで」と言われた際には「私は努力をしているから」と怒ったこともある。

ただし、努力している姿を見せるのは違うと考えている。

「努力している過程は見せたくないです。アイドルって夢を与える職業だから、別に苦労しているところを見せる必要ないかなって思うんです。昔、石川梨華さんが舞台裏ですごい高熱でめちゃくちゃ苦しそうなのに、ステージ上では1ミリもその姿を見せなかった。ファンは誰も石川さんの体調が悪いとは思わずに帰っていく。あれがアイドルだと思っています。いくらつらくても『つらそうなのわかってよ』ってステージに出るのは違うと思うんですよ。そういうところはアイドルでいる以上、貫かなきゃいけないんじゃないかなと私は思ってます」

昭和のアイドルが手の届かない存在なら、自分は手の届くかもしれないアイドルになりたい。

アイドル、モデルとしても自分のスタイルを確立し、自分を認めていいと感じ始めたのは大学に入学する頃だった。

「アイドルって顔を覚えてもらうまではイメージを貫いたほうがいいと思っていて、自分といえば髪形はこれって決めたり。メイクもできるだけ、自分よりも年下の学生さんも真似できるコスメにしたりとか。あとはアイドル鈴木愛理ではなく、一人の女の子としての感覚を残していきたいというのもあった。普段はステージで踊っているけど、私たちと同じようにテストとかやってるんだって、ブログを始めたときにファンの方から反応があったので、その辺から共感してもらえるようになったかなと思います」

鈴木の特徴の一つに滑舌の悪さがある。演技や歌の時には一切でないのに、なぜか普段の喋りではうまくいかない。その原因が八重歯にあることは本人も自覚している。

「歯の矯正、本当はすごくしたいんです。ほうれん草とか繊維系が挟まるから(笑)。でもアイドルでいるうちは八重歯の愛理ちゃんが好きだからと言ってくれる人が多かったので、やめたんです」

欠点の裏にも、アイドルとしての自覚があったことには驚かされた。誰からも愛され、理性のあるように、と名付けられた「愛理」という意味そのままにアイドルとして生きた。

自他ともに認めるポジティブな性格。AKB48が国民的アイドルとして人気を得ているときにも、嫉妬とは無縁だったという。

「AKBさんの曲は歌いますし、踊れます(笑)。AKBさんは有名な曲がいっぱいあるので。高校の同級生にAKBさんの研究生もいて、卒業式の謝恩会で『フライングゲット』を一緒に踊ったんですよ。もちろん、℃-uteもみんなに曲を知ってもらいたいな、有名になりたいなというのはありましたけど。悔しさというよりは、時代を牽引するアイドルグループという見方をしていました」

ではつんく♂が求めるアイドル像についてどう捉えていたのか。

「つんく♂さんはハロプロのアイドルってこうだ!というのではなく、一人ひとりをすごくしっかり見てくれていて、その子その子に合った指導法をずっとしてくださっていたので、大人になってから『ああいう意味だったんだな』ってわかることもあるなという印象が強いです」

実力は周囲に認められていた鈴木だが、期待の表れか、つんく♂に褒められた経験がほとんどない。

「褒めてくれぇ〜の一心でずっとやってました(笑)。つんく♂さんがライブのリハーサルにやって来る時は、ステップアップの場。自分の中ではチャレンジカップの場なんですよ。そこでなかなか褒められない。名前を呼ばれない。自分の中では『ダメだポヨーン』みたいな感じで思ってたんです」

℃-uteには『ほめられ伸び子のテーマ曲』という曲がある。

「褒めたら伸びるから協力してねって曲なんですけど『そうだ、そうだ、褒めてくれたら伸びる、伸びる』って当時からずっと思っていて。℃-uteのみんなは、いつか必ず褒められたいと思いながら、練習していたのを覚えてます」

唯一褒められたのが、つんく♂がシングルをリリースするたびにブログに書くライナーノーツの中。鈴木に対しては「ハロ-!プロジェクトでもっとも歌の上手い部類に属する」「相変わらずの美声で、さすがと言わんばかりのリズム力を発揮」などの言葉が並んだ。

「ライナーノーツで褒められると、心の中でよしっと。誰とも共有できないんだけど、自分の中ではすごく嬉しいというのはありました。見てくれてるんだなって」

℃-uteではセンター、そしてハロプロ全体でもエースと呼ばれるようになったが、性格的にはセンターではなかったと話す。

「自由に写真撮影で並んでくださいとなったら、絶対端っこに行きたいタイプなんですよ(笑)。真ん中に自分から行けるような感じじゃなかったので」

そんな鈴木にとって2010年に発表された『SHOCK!』は痛みを伴う曲だ。メンバーが抜け、5人グループとしてこれから全員で頑張ろうと再出発を切るシングルで、歌うパートはほぼ鈴木だけだった。

メンバーからは無言の不満が漏れ、お披露目となったステージでは、ファンからブーイングが浴びせられた。

「『SHOCK!』の時は活動を辞めたいと思っていました。中学校3年生のときですね。グループとして活動していて、歌っているのがほぼ自分だけという状況は辛かったですし、あの時のブーイングはいまだに忘れられないです」

期待は重圧としてのしかかる。ダンスの指導の際「鈴木が地味だからグループ全体が地味に見える」と言われたこともあった。振り返ると、アイドルとして最大の悩みの時期。頼ったのは憧れの先輩だったモーニング娘。の高橋愛だった。

「中野サンプラザで泣きながら高橋さんのところへ行った記憶があります。憧れの先輩だし、ハロプロの真ん中に立っている方でもあったので。何かを言ってくれたというよりかは、ずっと話を聞いてくださりました」

2011年、憧れで目標だった高橋愛が卒業する際「目標がいなくなっちゃいます」と話す鈴木に対し、高橋からは次は鈴木自身が皆の目標になってほしいと言葉をかけられた。

「憧れの先輩にそう言ってもらえたら、ハロプロを守っていかなきゃっていう気持ちはありました。ただリーダーではなかったので、ハロプロのアイドルとしてのあり方、パフォーマンス、気持ち。そういうものは言っても伝わらないものだったりするものなので、姿勢で見せる。自分のパフォーマンスで見せるしかないと思って、やって来たつもりではあります」


℃-uteとしても2013年には念願の日本武道館でのコンサートを成功させ、以後横浜アリーナ、解散コンサートではさいたまスーパーアリーナの舞台に立った。

「でも今考えるとその状況で歌い切ることをつんく♂さん的には、鈴木の課題として与えたものなのかな。負けるなよというものなのか、わからないんですけど、一人で歌うことの意味はあったんじゃないかと思った」

だから、2017年の℃-uteのラストライブ。それぞれのメンバーが自分の思い入れのある歌を歌う中、鈴木が選んだのは『SHOCK!』だった。

「歌わなきゃと思った。歌いたい曲はいっぱいあったんですけど、いい思い出だけじゃない、衝撃の思い出も含め、『SHOCK!』は避けられない。5人で歌ったこともあったんですけど、最後は一人で。胸を張って、歌いきりました」

幼い頃の夢はアイドルではなく、歌手志望。グループ解散後、鈴木は一人で歌い、踊ることを決断するのは自然に思えたが、そこには葛藤もあった。

歌を歌いたくて入った芸能界。しかし℃-uteが解散した後、次の進路には歌ではなく、モデルや女優を軸にする活動を考えていたからだ。

「自分の中では、ソロでの歌手活動は不可能というイメージだったんです。同世代の仲間で、一人でずっと歌い続ける人がほとんどいなかったですし、15年グループでやってきて、一人で歌うことが怖かった」

しかし解散発表後の最初の打ち合わせで、鈴木が発言するよりも前にスタッフから「歌って踊る、エンターテイメントの仕事をやってほしい」と伝えられた。


本当は嬉しい言葉のはずだったが、抵抗感があった。決断は持ち越させてほしいと自宅へ帰り「自分の考えていることがわかってもらえない」と一人で泣いた。

そして改めて、自分が一人の歌手になった時、何をやりたいかを考えて、自身でパワーポイントの資料を作り、次の打ち合わせでスタッフの前でプレゼンした。

こだわったのは℃-uteでやってきたヒールを履いて歌って踊るスタイル、Buono!としてやってきたバンドをバックにしたスタイルの両立だった。

「℃-uteを通してのファンの方々だけでなく、『Buono!』としてファンになってくれた方々もいて、そこのファン層は分かれていたんです。どちらかのみを選択するのは自分がやってきたアイドルとしての15年間を否定したみたいになるので、どちらもやりたい。そこはこだわりました」

「もし、そうならなければ歌手活動は諦めていたと思います。23歳になってソロ活動での再出発。℃-ute時代より大きな存在になれないなら、その夢を最初から掲げる必要はないなと考えてたりもしました。自分の好きな歌だからこそ、グループ時代を超えられないとわかりきってやるのは歌を嫌いになりそうだと思って。好きだからこそ、すごく悩みました。でも最終的には℃-uteを超える、超えないとかは別で。ファンの期待に応えることが、一番自分の中では幸せを感じることだと気づけたので、腹をくくってやると決めました」

ソロデビューに際しては打ち合わせに一から入るなど細部まで自分の意見を言える環境が整った。マネージャーからも好きなようにやっていいと言われたが、そんな自由にも戸惑った。

「好きなようにと言われても、何をやっていいかわからない自分にびっくりしたんです。℃-uteの時はいただいたものを自分で変換して、自分なりに世の中に出していく作業がやるべきことという認識でやっていたので、一からこういう曲がやりたくて、こう言う風に見てもらいたくてというような提示をしたことがほとんどなくて。いざやるとなったときに、どんな曲が歌いたいか、わからなくなりました」

そうした不安は、15年ぶりのライブがない土日や、家族と過ごす穏やかな時間が解決してくれた。

「8歳でオーディションに受かる前、まだ土日を家で過ごしていたとき。人に評価されるのではなく、ただ歌が好きだったときに鼻歌を歌っていた場所があるんです。家の階段の踊り場の角なんですけど、反響がすごく好きで、自分にとっていちばんのステージだったんですよ。そこで歌う時間が℃-uteを解散してから増えていって、なんで自分は歌を歌いたいのか、歌が好きなのかを取り戻すことができました」

歌うことが好きなこと。歌で楽しませることが好きなこと。それは2歳のとき、父親の車の中や、知り合いの前で歌った時と変わらぬ思いだった。

今年、6月6日にソロデビューアルバム『Do me a favor』をリリース。7月9日には、日本武道館の舞台に立った。ハロプロ卒業メンバーとしては、初となる武道館での単独コンサート。約1万人のファンを前に、デビューアルバムからのポップス、ロック、ダンスナンバーだけでなく、℃-uteやBuono!の楽曲も披露した。

ソロデビューまでの期間、歌唱法から体型までゼロから鈴木愛理を作り直した成果。変幻自在のステージは、15年のアイドル経験と地続きであり、そしてこれからを感じさせるソロアーティストとしての一歩だった。

11月からは『鈴木愛理 LIVE TOUR 2018"PARALLEL DATE"』と題し、全国7都市8会場を巡るライブツアーがスタートする。

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武道館では、あらゆるものに対応できるような幅を見せたライブだったが、なんでもできることはアイドル時代と同様にこれから鈴木を苦しめるかもしれない。

日本ではシンガー・ソングライターではない、歌って踊れるソロアーティストは安室奈美恵、三浦大知など数えるほどしか成功していないからだ。鈴木自身それを自覚している。

「難しいんだろうなとは思ってます。でも自分の原点に返るとハロプロは然り、BoAさんだったり、SPEEDさんだったりと、歌って踊れるものをやりたいということは改めて感じているので。やりたいことをやることも、エネルギーが見てくれている人に伝わるものだと思います。険しい道だとは思いますけど、険しい道の方が楽しい」

そしてアイドルを卒業するのではなく、アイドルを背負ってソロアーティストになる。

「アーティストとアイドル、どっちと言っても正解というくらいの中間をいきたい。自分はハロプロのアイドルとして15年やってきましたけど、その間アイドルの定義みたいなものの範囲が大きくなったと思うんです。人に夢、憧れを持ってもらったら、それでアイドルでいいんじゃないかなって。なので、人に元気を与える立場にいる以上はアイドルと言われることに抵抗はないですし、アイドルという言葉は背負うべきなのかなと思ってます」

グループアイドルからソロのアーティストの成功。それは平成のどの人気アイドルもなし得ていない茨の道だ。

「他のアイドルだったり、いろんな人の人生を背負っている感覚はないですけど『アイドルが憧れるアイドル』が15年間アイドルをやってきて、唯一ついたキャッチフレーズなので。そうついた以上はそれを捨てたら自分が積み上げた個性がどっか行っちゃうと思っていたので、その言葉はしかと受け止めます。全部吸収する感じでやれたらいいです」

アイドルのまま、アイドルを超える。昭和、平成と卒業する通過点だった「アイドル」という言葉に、鈴木愛理は今、新たな意味を加えようとしている。


<編集後記>

かわいさの上澄みを合わせて作られたのかと思うほど、話していると容姿だけでない性格の良さが伝わる。

努力家で才能も申し分なく「両親が良い字画の名前をつけてくれたので」と運も良いのだという。

大谷翔平、羽生結弦とは同い年。肩書はアイドル、アーティストどちらでもいいというが、一番しっくりくるのはスーパースター。平成の次の時代での活躍が楽しみだ。

〈鈴木愛理〉 アーティスト

1994年4月12日、岐阜県生まれ、千葉育ち。2005年に『℃-ute』を結成。アイドルとしての活動をスタートさせ、ドラマや映画など女優としても活躍する。2015年からはファッション誌『Ray』の専属モデルも務めている。