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「道子、死んじゃダメよ!死なない!」痛みに悶え苦しんだ12歳少女の終戦。残った傷と苦しんだ戦後

終戦3ヶ月前の1945年5月に、東京で空襲に遭った内田道子さん。12歳の少女が見た戦争、そして戦後も続く苦しみとは。

12歳の少女は、藁を重ねたような病院のベッドの上で終戦を迎えた。

空襲で自宅が燃え、自身の体にも大きな傷を残した戦争だったが、終戦を知った時、彼女はただただ「痛み」に苦しんでいた。

「病院の中で戦争が終わったって聞いたけど、痛い、痛いと唸っていた時だったので、何も感じなかった」

内田道子さん(88)が76年前に東京で経験した、8月15日だ。

空襲のあと病院に運ばれたが、薬もなく十分な治療もされず、医師に向かって「痛いよ。殺して!殺して!」と毎日叫んでいた。

Sumireko Tomita / BuzzFeed

内田道子さん

麹町区九段(現・東京都千代田区)にあった自宅で内田さんが空襲に遭ったのは、1945年5月25日のこと。

3月10日の東京大空襲の時は、山梨県の山中湖付近に集団疎開していた。

疎開先でも食料がなく、皆で農家の手伝いをしていた。お腹がすき、ひもじい思いをすることはあっても、子ども心に「知らない場所に行くことがなかったので、楽しい」とさえ思ったという。

その頃、東京では連日のように空襲の被害があり、山中湖からも、東京の方面の空が空襲の炎で赤くなっている様子が見えたという。

しかしそのような状況でも、内田さんたちは3月末の小学校の卒業式に出席するために東京へ戻った。

大空襲の話を聞いて「帰れるのかな?」と不安に思っていたという内田さん。先生は「九段は大丈夫だから(帰って)卒業できるよ」と答えた。

「自分のうちも、住んでいた町も、火の海に」

父親は出版社に勤めていて、戦前は何不自由なく生活していたという内田さん。

しかし、疎開から帰った頃には生活も苦しくなり、食べるものもなかった。

5月25日の空襲の日、内田さんの自宅の周りは、火の海となった。

空襲に備え、庭に防空壕を掘る家もあったが、内田さんの家には庭がなく、床下部分に防空壕を作っていた。

「避難しようと支度を初めて、逃げようとしたらもう頭の上を飛行機が飛んでいる状態でした」

家から出ようとした時、近くに焼夷弾が落ち、内田さんは吹っ飛ばされた。

「ドドドドドーンってすごい音がしたんですよ。何ごとだと思った途端に、自分がね、防空壕へ行こうと思ったんでしょうけど、記憶がない」

「父が降りてきて『立て、ほら起きて』と言われ、気がついた時、防空壕に逆さになって寝ていました」

内田さんは、父親の背中に背負われ、神田川の橋を渡って逃げた。

「橋は人でいっぱいで、つっかえて歩けないくらいでした。中には死んだ方もいる。泣いている方もいる。お母さーん、お父さーんって」

「自分の家が火だるまになってすごかった。自分の住んでいた町も、火の海」

周りは、死んだ家族を引きずる人や、逃げ惑う人で溢れていた。

「道子、死んじゃダメよ!死なない!死なない!」

Sumireko Tomita / BuzzFeed

父親におぶわれて神田川を渡り、火の手を逃れた。

「まだ生きているから大丈夫」と母親に励まされながらリヤカーで運ばれ、一次治療をする場所で手当を受け、日本大学病院に運ばれた。

「病院では薬もなく、ガーゼをあてるだけで、どんどん化膿していきました。横っ腹から膿を出していた状態でした」

「たいした傷じゃないよ、なんて言ってたのがとんでもなく大きい傷になっちゃって、ちょっと触られるだけで『いたーい!』ってすごい声をだしていました」

治療もままならないまま、40度の高熱が出て、連日苦しんだ。

「ベッドの上に横たわっていて、何か白いものが動いていると思ったら、おなかからでたうじでした」

外来で病院へ来る人が「まだあの子生きてるか」と話しているのを母親が聞いてきて、母親は「道子、死んじゃダメよ!死なない!死なない!」と励まし続けた。

内田さんは苦しみの中、終戦を迎えた。

Sumireko Tomita / BuzzFeed

空襲では、内田さんのほか弟も右腕を負傷したが、家族全員、命は助かった。

しかし、後から家の前に不発弾が落ちていたことが分かり、内田さんは「それが爆発して燃え広がっていたら、私たちは全員死んでいたかもしれない」と語る。

終戦を迎え、進駐軍が入ってきた後、闇市でペニシリン(抗生物質)が手に入ると聞き、母親が買いにいった。

しかし、薬がなかなか手に入らない中、闇市のペニシリンは高額だった。

父親は「命の方が大事だから」と周りからお金を借りるなどして工面してくれた。

内田さんは「それで私は現在こうやって生きてる」と話す。

後々、母親には、ペニシリンのために大金を使ったことを揶揄されることもあったが、姉は「道子が自分でやったんじゃないでしょ!国に文句言ってやりなさいよ!」と代わりに言ってくれたという。

Galerie Bilderwelt / Getty Images

終戦後の東京の闇市の様子。写真は1945年10月

「今の人たちには絶対こんな思いはさせたくない」

内田さんが退院できたのは、翌年のこと。

退院しても、まだ膿が出ていた。

しかし、戦後は食べるものもなく、空襲を生き延びても、その後を生きていくことに必死だった。

空襲で家も焼け、何もかも失い、内田さんの体には障害が残った。

「一気に谷底に落っこちたよう」だったと話す。

親戚を頼って家族で千葉県九十九里に移り、どうにか戦後の日々を過ごした。

「戦争が終わったからもう大丈夫と思ったけど、食べるものにも苦労した。でも弟たちを学校に行かせるために皆で学費のために働きました」

本来なら中学で学んでいたはずの内田さんも、足を引きずりながら働いた。

しかし、自分も学びたいという気持ちはあったため、一人で辞書を見ながら勉強した。

近くの中学の先生が「学校へ来た方がいいよ」と内田さんを誘いに来てくれたが「お金がないから行けない」と断った。

「学費はいいから、籍だけおいてあげるからおいで」と言ってくれたが、働く必要もあり時々しか行けなかった。

内田さんは言う。

「今の人たちには絶対こんな思いはさせたくない」

「私たちはほったらかし」70年以上続く治療

空襲で負った傷で、内田さんは戦後も苦しんだ。

今でも内田さんの背中には、大きな傷痕が残っている。

Sumireko Tomita / BuzzFeed

内田さんの背中に残った大きな傷

空襲当時は12歳。それから76年、ずっと治療を続けてきた。戦後も生活は厳しかったが、市民には国からの補償はなかったため、自費で高額の手術代も支払ってきた。

戦争に巻き込まれたかたちで被害をうけた市民と異なり、国と雇用関係にあった軍人や軍属には戦後、障害年金などの援護策があった

「国民に対しては、戦争で戦ってないから関係ないって(補償がない)。なんで?って私は言いたいですよね」

「病院の治療費も全て自分で払っていて、国からは一銭ももらっていません。自分で階段も上がれなくなり、バスにも乗れない。通院でもタクシー代がかさんでいきます」

Sumireko Tomita / BuzzFeed

内田さんは戦後、空襲被害者と遺族が国に謝罪と損害賠償を求めた裁判の原告にもなった。

積極的に活動した時期もあったが、最近は外出もままならず、空襲被害者らの集会にも足を運ぶことができない。

ここ数年も、内田さんのように空襲で障害が残った市民に補償をする「空襲被害者救済法」を求める動きが広がっていた。

超党派の「空襲被害者等の補償問題について立法措置による解決を考える議員連盟(空襲議連)」は2020年10月に要綱案をまとめ、要綱には全野党が賛成。鍵を握るのは自民党の判断となっていた。

しかし、自民党内での反発もあって話し合いは進まず、法案提出に向けた動きが停滞。結局、議連は今年6月9日、国会への法案提出を見送ると決めた。

「どうにか、空襲体験者が生きている間に補償を」と懸命に働きかけてきた人たちの間には落胆が広がった。

これは内田さん一人だけの話ではない。多くの空襲被害者が、同様の経験をしている。

内田さんは言う。

「私たちはほったらかしですよ」

「政府は戦後の処理は終わったって言うけど、何が終わったんでしょうね」


BuzzFeed Newsは内田さんの戦争証言の聞き取りを、全国空襲被害者連絡協議会(全国空襲連)と共に行いました。空襲連がつくった動画は以下から。

【動画】空襲の記憶 内田道子さん

YouTubeでこの動画を見る

全国空襲被害者連絡協議会 / Via youtube.com


Contact Sumireko Tomita at sumireko.tomita@buzzfeed.com.

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