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「命落とした兵士のため」日本兵4千人が眠るフィリピンの海のそばに、慰霊碑が建てられた理由

太平洋戦争末期、1944年10月24日〜25日に4千人の日本兵が犠牲になったスリガオ海峡海戦がありました。フィリピンのスリガオでは、慰霊碑が建てられ、毎年地元の人により慰霊式典が開かれています。

太平洋戦争末期の1944年10月24日から25日にかけて、フィリピン南方スリガオ沖で、旧日本軍と連合国軍の激しい海戦があった。

フィリピンを争う太平洋戦争最大規模の海上戦役だったレイテ海戦の一つ、「スリガオ海峡海戦」だ。日本の戦艦「山城」「扶桑」などが撃沈し、日本軍の兵士約4000人が犠牲となった。

スリガオ市には、この海戦で命を落とした兵士たちのために2019年10月、75周年の節目に慰霊碑が設置され、広場が整備された。

毎年10月には、市や地元の人たちが中心となって慰霊式典を開いている。

フィリピンの人々が、追悼を続ける思いとは。

市の担当者や中心人物に話を聞いた。

スリガオ市は、フィリピン南部にあるミンダナオ島の北東部にある。鉱業や漁業が盛んで、海に面する静かな場所だ。

そんなスリガオで今年も10月25日朝、スリガオの海で命を落とした各国の兵士のために、祈りが捧げられた。

例年は、地元の人々など数百人規模の慰霊式典が行われているが、今年は新型コロナウイルスの影響で中止となり、少人数のみで日本、フィリピン、アメリカ、オーストラリアの国旗掲揚と黙祷が行われた。

慰霊碑がある広場からはスリガオ海峡が見渡せる。国旗掲揚の後には、広場の側にあるビーチで、海に向けて花が手向けられた。その様子はFacebookで中継された。

「外国人」の犠牲者を、市として毎年追悼する理由

スリガオ市役所は過去25年にわたり毎年、地元の人々と協力して慰霊式典を行ってきた。昨年には市の事業として碑の設置や広場の整備を実施した。

スリガオ海峡海戦での日本人の戦死者は約4千人。スリガオ海峡海戦博物館によると、アメリカ人の死者は39人だ。

戦争前は米国領だったフィリピンにとって、日本は「敵国」だった。なぜ、戦没者の大半は日本人なのに、市は毎年追悼するのか。BuzzFeed Newsの取材に、市の担当者はこう語った。

「スリガオ海峡海戦の慰霊式典を行うことは、その人の出身国関係なく、ここで命を落とした人々を追悼し、その命に敬意を払うことを意味します」

「慰霊式典で私たちは歴史を学び、そして私たちの国だけでなく世界中で、平和を構築していくことを望んでいるのです」

76年前の10月にスリガオ海峡で起こったこと

1944年10月、フィリピン奪還のためレイテ島に橋頭堡を築こうとする連合国軍と、阻止を図る日本軍の間で、激しい闘いが起きた。

「レイテ沖海戦」と呼ばれる一連の戦闘で、日本軍は海軍の象徴の一つだった巨大戦艦「武蔵」や複数の空母など多くの戦力を失い、壊滅的な打撃を受けた。

その主戦場の一つとなったスリガオ海峡は、レイテ島とミンダナオ島の北東部分の間に位置する。「死闘」と呼ばれるスリガオ海峡海戦が展開されたのは、10月24日夜から25日未明にかけてのことだ。

連合軍側が放つ魚雷やレーダー射撃などで計6隻が撃沈され、4千人以上が命を落とした。

戦艦「山城」「扶桑」、駆逐艦「満潮」「朝雲」「山雲」は、今もスリガオ海峡に沈んでいる。

米駆逐艦による激しい攻撃で生き残った日本兵は、ほとんどいなかった。戦艦「山城」の乗員は約1400人で、生き残ったのはわずか10人ほどと言われている。「扶桑」の乗員は約1350人だったが、その生存者も10人を数えるほどという。

生存者が少ないために、スリガオ海峡海戦の証言もわずかだが、「完本・太平洋戦争(下)」などには、戦艦「山城」の乗員で船が沈没する前に海に漂流、米軍の捕虜となった兵士の証言や、重巡「最上」乗組の通信兵による戦闘記録が記されている。

近年は、沈没した船の調査が本格化している。

マイクロソフトのポール・アレン共同創業者が率いる探査チームは2017年11月、調査船「ペトレル号」でスリガオ海峡で海底を調査。戦艦「山城」や「扶桑」、駆逐艦「島風」など5隻を発見している。

同年12月にはレイテ州オルモック沖の海底で駆逐艦「島風」が見つかり、2019年5月、重巡「最上」がボホール沖海底で発見された。

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スリガオ沖海底で発見された戦艦「扶桑」

「遺族が祈りを捧げられる場所に」

慰霊碑には隣接して、スリガオ海峡海戦博物館が建てられている。スリガオ海峡海戦の歴史について学べるよう、資料などが展示されている。

この博物館は、2012年にスリガオ市役所の近くに建てられた博物館が元となっており、2019年の碑や広場の整備に合わせて、海の側に移転された。

2012年にこの博物館を作り運営、海戦の歴史を語り継ぐことに尽力してきた一人のフィリピン人男性がいる。

現在も、この博物館のキュレーターを務める、ジェイク・ミランダさんだ。

スリガオ市には、同海戦について語り継ぎ、1994年から慰霊式典を行ってきた「スリガオ海峡海戦祈念協議会」という市民団体がある。ミランダさんは2012年にその協議会を引き継ぎ、博物館を設立した。

ミランダさんは、博物館を運営しながら、日本からの訪問客なども迎え入れ、時には館内で海戦についての説明もしてきた。

2019年に作られた慰霊碑の設置に向けて、市に働きかるなど約4年間、中心となって動いてきたのもミランダさんだ。

ミランダさんはBuzzFeed Newsに対し、碑への思いを語る。

「この慰霊碑は、スリガオで命を落とした兵士たちのためにあり、そして友情の象徴でもあります。ここには憎しみの居場所はなく、平和と理解だけを伝えていく場所です」

「ここで命を落とした兵士たちのことを、スリガオの人々は忘れていないし、毎年追悼をしている。(ご遺族には)そう伝えたいです」

慰霊碑や周辺の広場が整備されてから、1年が経過した。

地元の人が改めてスリガオ海峡海戦の歴史を学んだり、市外や他の地域から訪れる人々が太平洋戦争について知る機会となっているという。

しかし、新型コロナウイルスの感染拡大で、フィリピンでは厳しい外出禁止の対策が講じられるなどし、碑や博物館への訪問もできなくなった。

日本からの遺族や関係者が訪問することも望んでいたが、国境を越えた行き来ができなくなったため、その願いも叶っていない。

ミランダさんは、コロナが収束し、自由に往来できるようになった時には、日本からも多くの人々が訪れることを願っていると話す。

「スリガオ海峡海戦で命を落とした祖父、父、兄がいるご遺族の方々が、スリガオを訪れることを心待ちにしています。10月の慰霊式典への参加や、それ以外の時期でも、Facebookページなどから、いつでも連絡してきてほしいと伝えたいです。日本語が話せる関係者もいます」

「戦艦が沈む場所で、海に献花をし洋上慰霊祭を開くなど、私たちのできる限りのことをしたいです」

また、犠牲となったアメリカ人などの家族も含め、「皆が祈りを捧げられる場所であってほしい」と願う。

ミランダさんは、「将来的には、レイテ海戦の慰霊碑や博物館も設置できるよう、多方面に働きかけていきたい」と話した。

市内にある北スリガオ中学校の構内には、筑波大学とスリガオ・ヘリテージセンターが2016年に開いた会議で設置を決めた「日本将兵火葬の地」の碑もある。

碑が立つ場所は、スリガオで死亡した日本兵が野火で焼かれた場所。碑にはスリガオ海峡海戦などの歴史が英語と日本語で記されている。

10月の慰霊式典の際には毎年、この碑にも献花がされ、地元の人々が祈りを捧げている。

慰霊式典には、スリガオ海峡海戦で戦ったアメリカやオーストラリアの元兵士らも参加している。慰霊式典やこの「日本将兵火葬の地」の碑にも、犠牲になった兵士のため、献花や黙祷を行う。

今年は式典はなかったが、24日に献花がされた。

「若い世代が過去と繋がり持てる場所に」

スリガオ海峡海戦では、フィリピン人の大きな犠牲は出なかったが、太平洋戦争中、各地で激しい戦闘が展開されたフィリピンでは、フィリピン人100万人以上が死亡している。日本政府は、フィリピンで戦没した日本人の推計人数は51万8千人としている。

戦後75年が経過し、戦争の記憶の継承が課題となっている今、ミランダさんは「歴史を知るために、多くの若者にも慰霊碑を訪れてほしい」と話す。

「この慰霊碑は第二次世界大戦中、ここで命を落とした人々のためにあります。しかし、慰霊碑を設置した理由の一つには、将来の人々が過去と繋がりを持てる場所を作りたいという思いがありました」

「この慰霊碑は、若者たちが歴史を学ぶ場所でもあり、将来を築いていく中で歴史から学ぶためにもあります。次世代の人々がここに立った時、平和と国々の友情こそが、守り抜いていかねばならないものだということを、思い出させるような慰霊碑であってほしいと思います」


<参考文献>

「歴史群像 太平洋戦史シリーズ Vol.9 レイテ海戦」(学習研究社、1995年)

「昭和史訪訪 4 太平洋戦争後期」(番町書房、1974年)

「完本・太平洋戦争(下)」(文藝春秋、1991年)