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誕生日に目にしたのは、まるでマッチ棒のような焼死体。空襲の日、少女は6才になった。いま、次世代に語り継ぐこと

東京大空襲と水戸空襲の記憶を語りつごうと、空襲の体験記を高校生がオンラインイベントで朗読しました。

少女が6歳になった誕生日のことだった。

東京の夜空は炎に包まれた。米軍が東京を空襲したのだ。

少女は避難した学校の地下室で一夜を明かし、どうにか命拾いした。しかし、明朝に地下室から出たときに目にしたのは、変わり果てた東京の街だった。

「隅田川は火に追われて飛び込んだであろう人たちの死体で水面はおおわれていました。また12歳くらいの死んだ子どもを背負って、あてもなくフラフラと歩いていく父親らしい人もいました」

これは、西尾静子さん(82)が経験した空襲の記憶だ。

空襲を語りつごうと、空襲経験者が書いた記録を高校生たちが朗読するイベントが開かれた。

空襲体験記の朗読が行われたのは、8月9日に東京大空襲・戦災資料センターと水戸市立博物館が共催したオンラインイベント。

学生や市民など約70人がZoomで参加し、東京と水戸の高校生たちが地元の空襲の体験記を読み上げた。

西尾さん自身もイベントに参加し、高校生が朗読する自身の体験記に耳を傾けた。

空襲で焼死した人々。6歳の少女が目にした光景

西尾さんの体験記を朗読したのは、都内の高校に通う高校生8人。

「授業で空襲は習うけど、正直、教科書の中の出来事のよう」「でも、決して繰り返さないために、語り継ぎたい」。そんな思いで朗読に向き合った。

西尾さんが深川区高橋(現在の東京都江東区)で被災し、祖母の家がある八王子に向かう道中で目にした光景は、惨憺たるものだった。

「街角にある交番のボックスの中には、やはり火に追いつめられた人たちが、まるでマッチ箱にマッチ棒をつめたように、ぎっしりとうまって、焼死していました」

「それらの死体は、焼けとけて互いにくっつき、頭だけが丸く離れていました。まぎれもなく、火の壁で包囲して集中的に人びとを焼き殺した残虐のきわみでした」(朗読された西尾さんの空襲体験記『誕生日のその日に』より)

悲惨な光景を目にした西尾さんは、ショックでしばらく言葉も発せず、呼ばれれば返事をするだけの状態になってしまったという。

空襲で自宅は燃え、西尾さんの誕生日のために用意してあった赤飯の小豆は、台所の焼け跡に灰となって残っていた。

たった6歳の時に経験した空襲の光景は、西尾さんの脳裏に焼き付いた。

西尾さんは「以後、3月10日は切ない思い出の日となり、誕生と共に一生忘れることができなくなりました」と綴っている。

西尾さんが初めに、空襲体験記を書いたのは1970年代。

現在の国立感染症研究所にあたる国立予防衛生研究所に、研究者として勤めていた30代前半のことだ。

しかしその後、60歳になるまで、つらい記憶を人に話すことはできなかったという。

西尾さんはイベントで、高校生らに話した。

「当時、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しみ、話したくない、取材も受けたくないという人たちもたくさんいました。私も体験記は書いたけど、そのあと60歳までは話せませんでした」

「小さい子どもがこんなことに遭遇すると、心が壊れます。そしてトラウマとして残ります。なので戦争は絶対にしてはいけないのです。子どもにあんな光景を見せてはいけないと思います」

戦後76年が過ぎ、空襲の経験者も少なくなっている。

西尾さんはBuzzFeed Newsの取材に対し、空襲の記憶を残していく重要性を語った。

「空襲経験者も高齢化し、生きていても自分の言葉で語ることができなくなっている人もいます。だから、空襲の記憶を語り映像で残したり、体験記に綴ったりすることが重要だと思います」

西尾さんの空襲体験記は、1973年に出版された『東京大空襲・戦災誌』(東京空襲を記録する会発行)に所収され、2019年に出版された『あのとき子どもだったー東京大空襲21人の記録』(東京大空襲・戦災資料センター編)にも収められている。

高校生が自身の体験記を朗読したことについては、「正確に次の世代に伝わっていくのではないかと思い、感謝しています」と話した。

イベントでは、水戸空襲の記録も朗読された。

水戸空襲があったのは、1945年8月2日。水戸市によると、投下された爆弾の合計は約1145トンに上り、死者は300人を超えた。

水戸からは、当時、高等女学校2年生だった阿部静さんと、当時22歳だった黒尾つるさんの空襲体験記が朗読された。

高校生は「少しでも当時の情景が伝わるように」と、丁寧に読み上げた。

「泉町の実家にかけつけた時は、家は焼け落ち、消火を必死にやったという父と弟は無惨な即死をしていました」

「その時妹きくだけが行方がわからないというので、一たん見川に帰宅し、夜の明けるのを待って探しに行くことにし、そのままやすみました」

「次の日それでは死んだ人の方をしらべてみようということになり、母が弘道館に収容された沢山の死体にかぶさっている白布を次々とあけて見たら、そこに変わり果てた妹の死体があったのです」

(黒尾つるさんの空襲体験記『一家三人を一度に失う』より)

8歳で水戸空襲を経験した小菅次男さん(84)もZoomで参加し、こう思いを語った。

「高校生の皆さんの朗読、本当によかったです。なぜこんな惨めな思いを一般人がしなければならなかったのかと思いました」

「元々は戦争そのものを起こしたことがいけなかった。戦争はどんなことがあっても起こしてはいけません。二度とこういうことがあってはならないのです」