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「日本人の子だとは言えなかった」元ゲリラ兵の夫に隠した過去。フィリピンに残された彼女の戦後とは

フィリピン人と日本人の間に生まれた日系人の子どもたちは、戦争に翻弄され、「フィリピン残留邦人」となった。日本人の子ということを隠し生きた「戦後」とは。日系人女性へのインタビュー後編。

81年前の12月8日、太平洋戦争が始まった。

日本が始めた戦争には、フィリピンを含む各国の市民たちも巻き込まれ、多くの犠牲を出した。

フィリピンでは戦中、日本人とフィリピン人の間に生まれた子どもたちが両国の狭間に立たされ差別にあい、戦後は「フィリピン残留日本人」と呼ばれる存在になった。

日系二世のイサベル・植田・グレゴリオスさん(94)もその一人だ。

フィリピン・マニラ首都圏マリキナ市の植田さんの自宅で、日系人の目から見た彼女の「戦後」について聞いた。前後編のインタビュー、後編をお伝えする。

前編:「兵隊なんてなりたくなかった」負傷した若い日本兵が少女に語った言葉。日系人が見たあの戦争とは

イサベル植田さんは、戦前に福岡からフィリピンへ移住して庭師として働いていた植田勇太郎さんと、フィリピン人の妻ペルペトゥアさんの娘として1928年に生まれた。

小学校を卒業した頃に戦争が始まり、家族を助けるために日本軍の病院で「付き添い婦」として働いた。

病院では負傷した日本兵に食事を食べさせたり、覚えた日本語で話しかけたりもした。

10代の若い日本兵らの「戦争でなければ、兵隊になんてなりたくなかった」という言葉に、心を痛めたという。

終戦後、日本人である父は日本人捕虜収容所に連行され、日本に強制送還された。

戦後を生きるため、母の苗字に変えて就職

フィリピンに残された家族も、戦後の混乱の中を必死に生きた。

植田さんは当時こう振り返る。

「母親が家政婦として働いて、私はまた病院で付き添い婦として働き始めました。学校にはもう戻りませんでした」

「病院での仕事は楽しかったし、食べ物を買うには働くしかなく、仕事が必要でした。きょうだい皆で働きました」

「戦後も『日本人の子だ』と言われ、生きづらかった。でも私たちは強かったです」

終戦までは「植田」という苗字を名乗っていた一家。

フィリピンで日本軍は、攻め込んできた「敵」であり、やがて無条件降伏した「敗者」だ。

対日感情は戦後、さらに悪化。日本人や日本人の子どもが置かれた状況は厳しかった。

そんな中でも仕事を得て生きていくために、植田さんは母親の名字「カウメラン」を名乗って、とにかくがむしゃらに働いたという。

結婚したのは元ゲリラ。日本人の子と明かせなかった

終戦から3年後、植田さんは職場で出会ったフィリピン人男性セレリト・グレゴリオスさんと結婚した。

ビサヤ地方の出身で、戦争中はゲリラ兵として戦っていた。

戦争中のことについては多くを語ることはなかったので、植田さんからも聞くことはなかったという。

そして植田さんにも、夫に言えないことがあった。

「私が日本人の子であることは、とてもじゃないですが言えませんでした」

「夫はゲリラでしたので、どう思われるかと怖かったんです。絶対に言えないと思い、隠していました」

「近所の人たちに聞いていたのでしょうか。私からは何も言っていませんが、彼は知っていました。でも、私には何も言いませんでした」

セレリトさんとの間には、10人の子どもが生まれ、植田さんは病院で働きながら子育てをした。

戦後60年、「日本人の父」を子どもたちに告白

母ペルペトゥアさんは植田さんの兄と一緒に暮らし、1990年に老衰で他界するまで天寿を全うした。

戦後も着物姿の勇太郎さんの写真などを大切にとっていたが、マリキナ市に引っ越してからの豪雨災害で、家族写真のほとんどはダメになってしまった。

今、手元に残っている数少ない写真に、勇太郎さんのものはない。

植田さんは、唯一ペルペトゥアさんが写った家族写真を手に、懐かしそうに微笑んだ。

日本へ強制送還された父親からは、手紙の一通も届くことはなかったが、父親を思う気持ちは変わらなかったという。

その後も、夫だけでなく、子どもたちにも日本人の父親について話すことはなかった。

転機は2004年。ニュースで「日系人を探している」という報道を孫が見たと話していたのを聞き、「自分のことだ」と思った。

ずっと隠していた日本のルーツを、やっとの思いで子どもたちに打ち明けた。

夫セレリトさんは1988年に脳梗塞で他界していた。

夫の死後から16年、終戦からは60年が経とうとしていた。

植田さんの突然の告白を振り返り、娘のアスンションさんは「あの時は本当にびっくりした」と話す。

「母の父親、私にとっての祖父が日本人だなんて聞いたこともなかったので、突然の話にとても驚いたんです。母、そして自分たちにも日本にルーツがあるなんて、想像もしてみなかったことでした」

翌年、植田さんは、唯一手元に残っていた勇太郎さんの納税証明書を持って、娘たちと日本大使館を訪れた。

フィリピン日系人会連合会などの助けを得て、勇太郎さんの身元が判明した。

その後、2017年6月には、NPO法人「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」(PNLSC)などのサポートのもと、福岡家庭裁判所の行橋支部に申立てをし、同年10月に就籍が許可された。

まだ見ぬ父の故郷。「死ぬまでに墓参りをしたい」

いま植田さんが願うのは、勇太郎さんの故郷・福岡を訪れることだ。

「死ぬまでに一度でいいから福岡に行き、父の墓参りをしたいのです。そして、父親の故郷がどんなところなのか、福岡の街を歩いてみたいです」

娘のアスンションさんも、「高齢になりつつあり歩くことも難しくなってきていますが、94歳になった母の最後の願いとして福岡に行けないかと思っています」と話す。

勇太郎さんの身元が判明したり、植田さんの就籍が許可されたりしたことで、植田さんの子どもや孫が、日系3世や4世として日本に住むことができるようになった。

現在では、3家族10人が名古屋で暮らしている。

途方にくれた残留日本人「多くいる」

太平洋戦争により、日本人の父親を殺されたり、戦後に家族が引き離されたりして、フィリピンに取り残された「残留邦人」は植田さん以外にも、多くいた。

終戦から77年が経過し、フィリピン日系人二世とも呼ばれる日本人の子どもたちの高齢化は進んでいる。

そしてその多くが戸籍がないため、事実上の「無国籍状態」にある。

人生が残り少なくなった今も、「日本人と認めてほしい」と声をあげ続けている。

そのような人たちを支援してきたNPO法人「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」(PNLSC)によると、2022年3月時点の外務省の調べでは、無国籍状態に置かれている二世の人たちは推定約600人いる。

就籍許可を申し立てて認められた身として、植田さんは「困っている人たちは多くいる。どうかその人たちが日本人として認められてほしい」と話した。

5人いた植田さんのきょうだいのほとんどは他界しており、就籍許可を申し立てることもなかった。

PNLSCは、この問題に2003年から取り組み、日本人の父親の証拠集めや現地での聞き取り調査などにフィリピン・日本各地で取り組んできた。

フィリピンの日系人会や弁護団との協働により、家庭裁判所に就籍許可を申立てて、許可を得て就籍するという形で国籍を得たのは、現在までで288人にものぼる。植田さんもその一人だ。

しかし、ひとりひとりの証拠集めや調査をするのに時間がかかるため、1年で20人ほどの申請が精一杯だ。

これでは、国籍回復を望む全ての日系人が申請するのに数十年かかる計算になる。

問題の早期解決のため、日系人らは日本政府に対し、一括での救済措置の実施などを求めている。

二世たちの平均年齢は80歳を超えている。

タイムリミットは迫る。