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「戦争、身近に感じた場所。解体しないで」広島の若者が声をあげた理由

広島にある「被服支廠」、原爆で被爆した建物です。老朽化などで取り壊し案が進む中、被爆者や若者が反対の声をあげています。

「旧陸軍被服支廠(ひふくししょう)」という建物をご存じですか?

広島市にある最大級の被爆建物で「出汐倉庫」とも呼ばれる、かつて日本軍が軍服などの製造や貯蔵に使っていた施設です。

建物の老朽化が進み、県が管理する3棟のうち2棟の取り壊し案が出ています。これに被爆者や若者らが反対の声をあげています。

被服支廠倉庫は広島市南区に位置する、鉄筋コンクリート造りの赤レンガ張りの建物です。県によると、1913(大正2)年に竣工しました。

米軍は1945年8月6日、広島に原子爆弾を投下しました。爆心地から約2.7キロメートルにあった被服支廠は、爆風で屋根が損傷した一方で倒壊や火災などは免れました。

被爆直後、臨時救護所として多くの被爆者が運び込まれ、十分な手当を受けられないまま亡くなる人が相次いだ場所でもあります。

全4棟がL字型に並んでいて、現在はうち3棟を広島県が、1棟を国が管理しています。建物の老朽化が進む中、県で3棟のうち1棟のみを改修して保存、2棟を取り壊そうという動きがでているのです。

それに対し、被爆者団体などが反対の声をあげ「全棟保存」を望んでいます。同時に、被爆体験の継承などに取り組む若者たちも、オンライン署名を集めたり、Facebookページnoteで呼びかけるなど、声をあげています。

「被爆当時の状況を語り継ぐ建物」

オンライン署名Change.orgで署名「現存する最大級の被爆建物・旧広島陸軍被服支廠倉庫を全棟保存してほしい」を立ち上げた福岡奈織さんに話を聞きました。

福岡さんは、BuzzFeed Newsに対し「被服支廠は、爆心地から2.7キロも離れていても被爆し損傷もしていて、爆弾や爆風の威力や強さがわかります」と語ります。

広島出身の福岡さんは、友人の瀬戸麻由さんと共に、戦争証言を語り継ぐユニット「つむぎ屋」を組んで、被爆体験の継承や、被爆を物語る場所を歩くプロジェクトを実施しています。

その中で、参加者と被服支廠にも足を運び、原爆投下時に被服支廠にいた被爆者、中西巌さん(89)の証言をもとに当時の状況を語り継ぐ活動をしています。

2人はプロジェクトを2017年から始め、団体の平和学習や修学旅行で広島を訪れる人々に月1回のペースで案内を実施してきました。

「原爆投下当時の状況を語り継ぐ建物だから、そのままの形で全棟残すべき」という思いです。

県「保存には数億単位かかる」

広島県の財産管理課の担当者はBuzzFeed Newsに対し「安全対策を最優先したい」と2棟の解体案があがっている理由を説明しました。

担当者は「建物は市道にも面しており、地震などで倒壊した場合、通行者や隣接する家屋などに影響もあり危ない」と話します。

課によると、2019年12月4日の県議会総務委員会で2棟を解体、1棟を改修して保存する方針を示しました。

そこで県民らから反対の声があがり、県は12月17日からパブリックコメントを募集しています。現時点では、保存に関する最終決定の時期は未定です。

担当者は「パプリックコメントなどの状況を見て、方針の方を検討していく予定です」と話しました。パブリックコメントの募集期間は1月16日までです。

財産管理課によると、築100年を超える被服支廠は、平成29年度に実施された調査で「震度6強以上の地震で倒壊または崩壊する危険性が高い」との結果がでています。

2018年6月の大阪北部地震でブロック塀が倒壊した事故があったことなどからも、対応を検討しています。

改修保存は耐震対策などが施されますが、費用がかさむことも懸念材料です。担当者は「被爆建物は国からの補助金も出ますが、数千万円単位で、耐震補強などの改修となると数億円単位となります」と話します。

全棟保存には巨額の費用がかかるため、もし実現したとしても、その費用をどこから捻出するかというのも難しい課題です。

解体の危機や歴史「知ってほしい」


福岡さんは「実際に多額の管理費用がかかるため、保存が現実的ではないという声もあります」とした上で、こう語ります。

「しかし、惜しまれながら解体されたのか、保存に向けて県民が努力をしたのか、それとも何も関心を浴びずに解体されたのかということでは全く意味が違うと思ったのです」

「この建物が、誰も抵抗せずに解体され、なされるがままに消えていくことはあってはならないと思い、解体される危機にあることを、まずは多くの人に知ってもらいたいと思って署名を始めました」

県に1万2千筆の署名提出

瀬戸さんたちは2019年12月16日、Change. orgで集まった署名1万2千筆を広島県財産管理課に提出しました。

署名のコメント欄には、人々から「同じ過ちを繰り返さないためにも、数少ない証言建築を残すべき」「あの日のことを伝えていくために」と全棟保存を望む声が寄せられました。

人々の声を届けるために、瀬戸さんたちは財産管理課と面談し、取り壊し案や予算などについて話し合いました。1月14日現在では署名は1万6千筆以上集まっています。

「保存希望、被爆者だけでない」共に声あげる意味

福岡さんたちは、オンライン署名などのキャンペーンを進めるなかで「被爆者だけが保存を求めている」という声も耳にしたそうです。福岡さんは「それは違うと思いました」と話します。

被服支廠の見学ツアーなどをしてきたからこそ、若い世代も全棟保存を望んでいること、そしてより多くの人々に知ってもらうために、Facebookページオンライン署名を立ち上げ、多くの若者が読む投稿サイトnoteで発信を始めました。

また、福岡さんたちがキャンペーンを始めた理由の1つのには、2人が被爆証言の聞き取りをしていた中西さんの一声もありました。

2人は、被服支廠で被爆した中西さんに複数回にわたって聞き取りをし、高齢で長時間の被服支廠見学ツアーを歩くことが叶わない中西さんの代わりに、参加者に当時の話をしていました。

以前から県が被服支廠を取り壊そうとしていると懸念し、全棟保存の活動をしていた中西さんから、ある日、電話がかかってきたといいます。

「中西さんにこれまで頼みごとなどされたこともなかったのに、電話があって、被服支廠の全棟保存について『県庁に電話をしてお願いしてくれへんか?』と頼まれたんです」

その一声に背中を押され、福岡さんと瀬戸さんは、動きだしたといいます。

これからの被服支廠の「あり方」

原爆投下当時、中学生だった中西さんは、学徒動員で毎日、被服支廠に通い、働いていました。

原爆が投下された際は、爆心地と反対側にいたために、死は免れました。しかし、原爆投下後、被服支廠の建物内には、被爆した多くの人々が運び込まれ、亡くなりました。中西さんもその光景について2人に語っていました。

多くの人が亡くなり「墓場」でもある建物は、「そのまま残すべき」という意見もあれば、「多くの人に訪れてもらうためには、資料館や文学館、アートの拠点として活用されるべき」という意見もあります。

県としても「活用用途が決まっていない建物に多額の予算は出せない」とも話しており、保存後の建物のあり方は課題として残っています。

「平和都市」としての広島

福岡さんと瀬戸さんは広島出身。原爆のことを含め、小学校のころから平和教育を受けてきました。しかし、「受けた平和教育と、今世界で起きている戦争と日本の接点を感じることは難しかった」と福岡さんは話します。

そんな時に、実際に被爆し、今もその当時の被害がわかる姿で建ち続ける被服支廠と出会い「戦争を身近に感じた」といいます。

建物や証言を通して被爆を語り継ぐ福岡さんたち。「平和公園以外にも、被爆した樹木、建物など、街全体から学ぶことができます」と語ります。

また、今回の取り壊し案などをめぐり、福岡さんは「市民・県民の無自覚や無関心の蓄積の結果として受け止めなくてはいけません」と話します。

「これまで多くの人々が被爆体験の伝承や被服支廠に無関心だったのです」

「広島の街としてどう『平和都市』であれるのか?ということは、私たちが考えていかなければならないと思います」