• historyjp badge

「なぜあんなにも多くの人が命を落とさなければいけなかったのか」日本人ら思い、今もフィリピンで続く慰霊祭。日系人が語り継ぐ戦争

フィリピンのダバオで毎夏、終戦記念日に合わせて、現地で亡くなった日本人やその子どもたちを追悼する慰霊祭が開かれています。

日本から遠く離れたフィリピンのダバオで毎年、終戦記念日に合わせ、現地で死亡した日本人やその子どもたちの慰霊祭が開かれている。

戦後75年となる今年も、ダバオ・ミンタルにある日本人墓地で、慰霊祭が開かれ、慰霊碑に花が手向けられた。

なぜ、フィリピンで日本人のための慰霊祭が開かれているのか。

そこには、19世紀末から移住した日本人、そして太平洋戦争に巻き込まれた日系人コミュニティの歴史がある。

この日本人墓地があるダバオのミンタルは、かつて多くの日本人やその子どもらが住み、日系人コミュニティが築かれた場所だ。

フィリピンには19世紀末から多くの日本人が入植し、南部のミンダナオ島ダバオや、北部ルソン地方のバギオなどに多く定住した。最盛期には約3万人にも上ったという。

しかし太平洋戦争中には、日本人やその子どもたちは「敵国」の人として、フィリピンゲリラや米軍に殺害された。日本人男性の中には日本軍に召集され、日本兵として戦い、戦没した人もいる。

そのような人々を追悼するため、終戦記念日に合わせて慰霊祭が開かれている。

今年の慰霊祭は8月14日に開かれ、日系人の先祖たちを思い手を合わせたフィリピン日系人三世のイネス・ヤマノウチ・マリャリさんは、BuzzFeed Newsのオンラインでの取材に対し、こう語る。

「平和に暮らしていた日系人たちは、戦争により全てを失いました」

「しかし、ダバオに移民してきた日本人たちがいたから、私たちがいます。今、平和だから私たち日系人たちも生きられる。平和を守っていきたい」

日本人墓地での慰霊祭は在ダバオ日本国総領事館と日系人会が共催し、毎年、日本人の親を亡くした日系二世や、その家族、現地に住む日本人、地元の人々など100人以上が参列している。

しかし今年は、新型コロナウイルスの影響で、多くの人が集まっての慰霊祭ができないために、代表らのみが参加した。

慰霊碑「在留先亡同胞霊塔」に献花し、日系人を代表して祈りをささげたのは、フィリピン日系人会連合会会長のマリャリさんと、日系二世でダバオ日系人会会長のアントニナ・オオシタ・エスコビリャさん。

ほか、ダバオ総領事やダバオ日本人会会長、ミンタルの首長らが出席した。

日本とダバオ、2つの「故郷」。慰霊祭は戦争語り継ぐ場にも

毎年、慰霊祭では、日本の童謡「故郷(ふるさと)」が歌われている。マリャリさんは、その理由をこう話す。

「ダバオで戦争に巻き込まれて殺害されたり、餓死、病死し、日本へ帰れなかった日本人やその子どもたち。そして、戦後に日本に強制送還され、故郷・ダバオに帰ってこれなかった日系人のことを思って歌っています」

また慰霊祭は、戦争を経験した二世が、戦中の体験を語り継ぐ場所にもなっていた。

戦後75年が経過し、フィリピンでも直接、若い世代が戦争について聞く機会が少なくなった今、終戦記念日に合わせて日系人らが慰霊祭に集い、二世が三世や四世、フィリピン人学生などに戦争証言を語ってきた。

今年はコロナの影響で二世も参加できなかったが、来年以降、またこれまでのように次世代への歴史の継承をしていきたいとイネスさんは語った。

「慰霊祭を継続していくことで、二世が歴史や思いを語る場にもなる」

戦争によって壊された、平和な日系人社会

戦前、このミンタルや、近くのカリナンには、アバカ(マニラ麻)の生産などをする多くの日本人やその家族が住み、日本人学校も建てられ、繁栄した日系人コミュニティを築いていた。

日本人移民は大半が男性で、多くの人はフィリピン人女性と結婚し、家族を持った。その間に生まれた子どもが「日系二世」だ。

しかし太平洋戦争が始まると、ミンダナオの日系人の生活にも影を落とし始めた。

「日系人たちは麻を育てて、とても裕福な暮らしをしていたと聞いています。しかし戦争で、全てを失ったんですね」(イネスさん)

現地の人とも良い関係を築いて暮らしていたが、現地で軍の召集を受けた日本人は、友人であり家族でもあったフィリピン人に銃を向けなければならない立場に立たされた。

村に残った日本人やその子どもたちも、日本人だという理由でフィリピンゲリラに殺されたり、米軍の爆撃の中、山の中を逃げまどい、そこで命を落とした。食料がなく餓死したり、病死した子どもも多くいたという。

米軍の爆撃で死亡した日本人の祖父

日本人であるマリャリさんの祖父も、戦中に米軍の爆撃で死亡している。

鹿児島県出身で戦前、ダバオに入植した後は、他にも多く日本人が移り住んだカリナンで、まんじゅうを売って生計を立てていた。

フィリピン人女性と結婚し、マリャリさんの母親を含む3人の子どもを持ち、豊かな生活を送っていたが、戦争はその生活を破壊した。

ダバオでの戦闘が激しくなり、親戚を頼って隣の島のボホール島に逃げたが、そこでも戦火は激しかったという。

「必ず再会できると家族に約束し、一旦家族と別れて祖父はセブから日本へ帰ろうとしました。他の日本人も多く乗る船で日本を目指しましたが、アメリカ軍がその船を爆撃し、祖父は死にました」

「ボホール島に逃げていた家族は戦後、平和になった頃にダバオに戻りましたが、日本人の家や財産は全てフィリピン政府に取り上げられていました」

終戦直後は日本人が多く住んでいた場所でも反日感情が強く、家もなくなったために、家族は山へ逃げて貧しい生活を送ったという。

マリャリさんはこう語る。

「戦争では祖父も亡くなりましたが、100万以上のフィリピン人が死んでいます。日本人も(フィリピンで)その半分の人数が亡くなっていますよね」

「なぜ、あんなにもたくさんの人が命を落とさなければならなかったのかと思います」

各地で激しい戦闘が展開されたフィリピンでは、太平洋戦争でフィリピン人100万人以上が死亡した。日本政府は、フィリピンで戦没した日本人の推計人数は51万8千人としている。

現在、ミンダナオ国際大学の学長を務めるマリャリさんは、「学校でも、戦争や日系人の歴史ついて学ぶ授業があります。教育を通して、できることをしていきたい」と語る。

現在でも、約一千人の二世が無国籍の問題を抱えていて、その問題の解決に向けても、マリャリさんは働きかけている。

戦中、弔われなかった無数の日系人への追悼

在ダバオ日本国総領事館によると、当時はアバカ農園の真ん中にあったミンタルの日本人墓地では、1930年代から、入植した日本人がお盆に合わせて、慰霊祭を実施してきた。

領事館は14日、フィリピン日本歴史博物館が所蔵する、1941年の慰霊祭の写真もFacebookに投稿した。

慰霊祭は太平洋戦争で中断した。その後も長年にわたり再開することができなかった。

戦後は反日感情が強まったために、日系人も自らの出自を隠して生きるようになった。慰霊祭が再び開かれるようになったのは、終戦から何十年もたってからのことだったという。

「ダバオで生まれ育ち、終戦後に日本に強制送還となった日本人などが、戦後、反日感情が収まった頃からダバオを再訪するようになりました」

「最初は墓もバラバラで、墓地を訪れてもご家族などが墓を探すのに苦労したりしていたようですが、今ではミンタルの地区の役員が管理して整備しています」(マリャリさん)

再開された慰霊祭は、終戦記念日に合わせて行われるようになった。

戦争に巻き込まれて命を落とした日系人、戦闘の中で死亡し、きちんと弔ったり、埋葬されたりしなかった無数の日系人らへの祈りも捧げられている。

太平洋戦争の激戦地だったフィリピンでは、毎年、ラグナ州、セブ州などで終戦記念日に合わせて日本人や日系人が慰霊式典を開いている。

ルソン地方ラグナ州カリラヤには、日本政府がフィリピンで戦没した日本人のために1973年に建立した「比島戦没者の碑」がある、カリラヤ日本人戦没者慰霊園があり、毎年、在フィリピン日本大使館が慰霊祭を主催している。

カリラヤでの日本人戦没者慰霊祭には、日本からもフィリピンで戦没した兵士の遺族らが訪れ、現地に住む日本人など計300人ほどが列席している。

今年の慰霊祭は新型コロナウイルスの影響により、場所をマニラにある日本大使館に変更して代表者だけが参加する形で実施され、大使館のFacebookでライブ配信された。