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少子高齢化のせいで「もの」は足りなくなるのか? 一人あたりで考えてみる

世界では資源の枯渇が言われ、人間の生活による環境負荷も問題になっています。それでも日本で「人、ものが足りない」と訴えるのは正しいのでしょうか?

「厳しい選択」をしなければならない場合はどれだけあるか?

前回、少子高齢化で「人やものが足りない」と不安に感じている人が増えていることについて、「人は足りている」という話をしました。

私たちがなぜ足りないという話を真にうけてしまうかには、いくつかの事情があると思います。そのことはまた別に考えたいのですが、一つ、私自身は大きな要因だと思いませんけれど、「極限状況」を主題にする映画などがずいぶんあるということもあるかもしれません。

そういう作品では、その極限状況における愛や友情が描かれたりします。また醜い争いや容赦のない選別が描かれます。そういうものには観客が簡単に惹きつけられるということがあります。

またそんな表現は実は「生命倫理学」というものにもあって、そこでは「救命ボート問題」が論じられたりするわけです。誰を残して誰をボートに乗せないか、つまり死なせるかという話です。

確かにそんな場面は現実にも稀にあるでしょう。そして場合によっては、共倒れになってでも見捨てないといった選択も、また、長く生きた人には遠慮してもらうということも、ありうると思います。

ただ他方で、例えば野崎泰伸氏の『生を肯定する倫理へ』が正しく指摘していますが、「そんなにたいへんなことが実際にこの世にどれだけあるのだろう?」というクールな考えも大切だと思います。

前回、人について足りないというはありそうにないという話をしました。しかし、今は大丈夫かもしれないが、そのうちに「少子高齢化」がもっと進んで本当にたいへんなことになるという話を考えなければいけません。

ただそれは次回にすることにして、今回は「もの」の方です。生産者としての人間以外のすべて、ここでは人間の内臓なども含めることにします。

やはり一つひとつについて考えてみる

稀少なもの、足りないものにどんなものがあるでしょう。例えば、最近がんに効くという、しかしとんでもなく高い薬が出てきて、どう考えたものか、『Cancer Board Square』という医学書院の雑誌のインタビューを受けたことかあります。

その記事「高額薬価問題の手前に立ち戻って考えること」はこちらのサイトに全文載っています。

その薬は、原料自体がきわめて稀少というものではないようです。費用をかけ開発した製薬会社が利益を得ようと高くなるといった事情があり、その開発の動機付けのためにも利益を得させることが必要だともされます。

これは、このごろ私自身も関心のあることでもあり、少し時間をおいて、別途考えたいと思います。

他方、稀少なものとしては人の臓器の一部、例えば心臓があリます。また、数は一人に2つあり1つならとりあえずは死なない腎臓とかもあります。

人間はたくさんいますから、それらは何十億もあるわけで、絶対的に稀少というわけではまったくないのですが、それを取り出せば命に関わったりするので、使ってよいのかという問題が出てくるわけです。

いわゆる臓器移植と臓器提供の問題ですが、こちらについてはずいぶんたくさんのことが言われてきました。やはり安直な作りの映画などにもよく出てきます。今回はもっと一般的なものについて考えます。

かつて、だいたい1970年前後あたりから、ものの不足、資源の枯渇の可能性があることが心配されました。生産・消費、その際の廃棄物が環境に対して負の影響を与えることがあり、その問題は深刻だと捉えた人たちがおり、私もそう思っています。

この問題は今でも大切な問題だと思っています。その当時小学生ぐらいだった人たちが「社会」というものについて少し考えることになったきっかけに、「公害」の問題はかなりあったと思います。

ただここでは、人を世話して生きていくために必要な「もの」に限ってこのことを考えてみましょう。

医療や福祉、介護でそんなに「もの」は不足しているのか? 具体的に考える

第一に、社会福祉と呼ばれる分野で提供される財の大きな部分はサービス、例えば世話をすることです。つまり、これ自体はあまり「もの」を要さない仕事、今どき珍しく人間の労働に大きく頼る「労働集約型」の仕事で、自然の資源のあり方にはあまり影響を与えません。

人間の活動の総量を一定とした場合、このような活動がより多く行なわれることによって他の自然の資源を多く使いながらの活動が減るのであれば、むしろそれは好ましいことだということにもなりえます。

こうして世話することに限れば、ものとしての資源の枯渇、環境への負荷に大きく関わらず、むしろ好ましいことになります。

とはいえ、第二に、医療、とくに高度医療と呼ばれる領域ではずいぶんとものを使います。そしてそのことが取り沙汰されます。しかし、それについてどのくらい具体的に論じられているでしょうか。

ここでも、ものに即して、具体的に考えることが必要です。集中治療室やら何やらがなくてはある種の医療を行なうことはできないとしましょう。しかしそれにしても、その場を作る材料やそこにある機材等の材料は、まずは、鉄やアルミニウムやコンクリートです。種々の建物や乗物を作るためのものと変わりません。

例えば人工呼吸器は、家電製品のあるものより高度なものでも、本来は、高価なものでもありません。大きさも、いまは大きめの炊飯器ぐらいです。

それらを作る材料が足りなくなって、自動車の生産を維持できるかが危ぶまれるようになった時に、同じように心配すればよいのではないでしょうか。原料の枯渇とは、例えば食糧が少ないとか自動車が少ないとか、例えば鉄やアルミニウムや石油がなくなるといったことです。

何かが足りないと思うなら、その具体的な何かがないと語り、どうしようか考えればよいでしょう。

「資源の制約」といった一般的で抽象的な言葉はそれらを曖昧にします。あるいはこの言葉は、ことを曖昧にしてもよいように、あるいは曖昧にするために、存在するだとも言えます。

なぜこ医療や福祉、介護の場面でこのことがことさらに言われるのでしょう。現実にあるのは原材料自体の不足という問題ではなさそうです。

にもかかわらず枯渇が言われるなら、それは実は別のことを、つまり、「あるもののために何かを費やすことは無駄なことだ」と言いたいというだけのことかもしれません。

人がものを作る力はずっと高まってきた

人は、自然にある原料を使って、人が介在して、様々なものが生産され、それが消費されます。原料としての「もの」というよりは、人が足りないから、生産される「もの」——「サービス」も含まれます——が足りなくなるという話となると、前回の「人」の話に戻ってきます。そこでは(今は)足りなくないと言いました。

たぶんこれを読んでいる人は誰も読まないといった本なのであえてそれから引用しますが、ジュディス・バトラー、エルネスト・ラクラウ、スラボイ・ジジェクという3人が書いた『偶発性・ヘゲモニー・普遍性——新しい対抗政治への対話』(青土社)という本で、ジジェクという人がこんなことを言っています。

この数十年の息もつかせぬ生産性向上の結果、失業率は上昇し、長期的視点では、社会を発展させるには労働力の20パーセントだけが再生産すればよく、残りの80パーセントは純粋に経済的な視点からはただの余剰になってしまっている。(p.423)

そこまでは私は言わないことにしますが、ずいぶん威勢のよい文章だと思って、そしてかつてこういう「乗り」はあったはずなのにと思って、『良い死』という本に引用したことがあります。

このように、「ものを作る人は余っているのだ、それで社会はその処理に困っているのだ、しかしそれは基本的にはよいことだ」という社会の理解が、ある時期まではそこそこの範囲に共有されていたのにな、と思います。

それを嘆いても仕方がないのだろうと思います。だからこそ「こういう見方があるのだ、たぶんこちらの方が当たっているのではないか」と改めて、問いかけてみたいのです。

一人あたりで考える

この「生産する人間」は、同時に「消費する人間」でもあります。人が増えれば生産も増えますが消費も増えます。一人あたりが消費できるものの量をみればよいのでしょうか? 国家あるいは世界の総量をみればよいでしょうか?

普通に考えれば、一人一人の人が資源を使って生きていいて、その一人一人の生活にその一人一人の分の資源の量が関わるのですから、一人あたりで考える方がよいと思います。

ならば、自然の資源の有限性を前提にした場合、人が増えない社会はよい社会のはずです。現在存在し、拡大している大きな社会問題の相当部分は、有限の世界にあって、人間が利用・消費し、排出するものが減らず増えていることに関わっています。

地球的な規模では人口の増加に関わる問題の方が懸念されているのに、この日本という国で人口の減少を心配する人がいるのは、つじつまが合わないのではないでしょうか。

看護学とか社会福祉学といった業界は、「少子・高齢化社会」という言葉を枕詞のように使う業界です。そういう関係の学校で働いていた1997年、20以上前ですけど、「少子・高齢化社会はよい社会」という話をして、こんなことを言っています。

人口の増加は「途上国」の問題で、日本は別、なんでしょうか。しかし一つ、土地の価格の高さ、住宅の狭さ、一人当りの公園等の面積の狭さ、交通渋滞、通勤時の混雑、…等々、この国に以前からあって解決困難な、改善の兆しの見えない問題の多くは、一人当りの国土面積等、所与のものとしてある条件に関わっています。

もう一つ、環境への負荷をみると、「先進国」日本の国民の一人当りの消費量・排出量は少ない国の人に比べると数十倍にもなっています。人の数に消費量・排出量を掛け合わせて考えれば、人口の環境に対する負荷はまったく途上国の問題ではない。そしてその一人当りの消費と排出の抑制は実際にはなかなか難しい。人の数が増えないこと、あるいは減ることは効果的です。人が存在することによる消費は、資源・環境にマイナスに作用します。そして、とりたてて環境保護論者でない「普通」の人にとっても、つまり一人分のとり分、一人一人の余裕が大切だと考える人にとっても、無理して増やさない方が合理的な選択のはずだということです。

焦ると下品になってしまう

人口、出生数を強制的に抑制すべきだと主張するのではありません。どうしてなのかわかりませんが、多くの人たちは子どもが2人ぐらいはほしいと思っているようです。3人、4人をという人もいます。

それが実現するような手立てをするのはよい。産める人、産みたい人たちが産んで、子どもをもちたくない人はそうすればよい。それだけのことです。なぜ子ども産み育てることが難しくなっているのか、その理由はみなが知っています。だからすべきことをすればよい。

ただ、すくなくとも、無理して人を増やすことはない、増えなくてよいこと、減ってもよいことだってあるということです。

人が存在することによる消費は、資源・環境に対してマイナスに作用する。そしてここで確認すべきは、とりたてて環境保護論者でない「普通」の人にとっても、つまり一人分のとり分、一人一人の余裕が大切だと考える人にとっても、無理して増やさない方が合理的な選択のはずだということです。

こう言うと、過疎の問題はどうするんだとか思うでしょう。もっともです。私も人が減り続けるところに生まれ育ちました。しかし、それは人が子どもをたくさんもつことによって解決するでしょうか? すこしもしません。

結局人の話に戻ってきました。「生産する人」「人の生活を支える人であること」、そのような存在としての人が求められることは否定しようもありません。

しかし、焦ってしまう、また焦らされてしまうと、下品で加害的な話、行いをしてします。

それでも、「超少子高齢化の近未来についてはそんなことを言っていられない」と返されるかもしれません。次はその話です。

【1回目】少子高齢化で「人や金が足りない」という不安は本物か? 社会的弱者に不寛容な言葉が広がる日本

【立岩真也(たていわ・しんや)】立命館大学大学院先端総合学術研究科教授

1960年、佐渡島生。専攻は社会学。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。千葉大学、信州大学医療技術短期大学部を経て現在立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。

単著として『私的所有論』(勁草書房、1997、第2版生活書院、2013)『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』(青土社、2000)『自由の平等――簡単で別な姿の世界』(岩波書店、2004)『ALS――不動の身体と息する機械』(医学書院、2004)『希望について』(青土社、2006)『良い死』(筑摩書房、2008)『唯の生』(筑摩書房、2009)『人間の条件――そんなものない』(イースト・プレス、2010)『造反有理――精神医療現代史へ』(青土社、2013)『自閉症連続体の時代』(みすず書房、2014)『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』(青土社、2015)『不如意の身体――病障害とある社会』(青土社、2018)『病者障害者の戦後――生政治史点描』(青土社、2018)