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松浦大悟さんを読むためのサブノート

「LGBT」の議論をきっかけに、民主主義を再建するために

民主党(当時)選出の元参議院議員で、ゲイであることをオープンにしている松浦大悟さんが話題です。

杉田水脈・衆院議員の発言にかんする『新潮45』8月号への寄稿で注目され、その後、インターネットTV出演、ネット媒体でのロングインタビュー、そして朝日新聞「耕論」寄稿や大阪の朝日放送TV出演で知名度を広げました。

10月26日発売の月刊誌『WiLL』では単独論文で、『Hanada』では文芸評論家、小川榮太郎氏との対談というかたちで、2誌同時に登場しています。

杉田議員「バッシング」やLGBT運動に疑義を呈し、「対話と議論」を掲げて保守の立場からのLGBT運動という主張は、注目を集めています。

「分断社会」の言説の特徴と共通

私は、その新潮45の松浦論考に違和感が少なくなかったことから、ファクトチェックと称して当欄で論評しました。

ただ、ゲイがゲイを批判してマジョリティの見せ物になるおそれには、内心忸怩たるものがありました。

むしろ本丸は、マイノリティ運動を考えることを通じて人権と民主主義をこの国に再移植することではないか、との思いから、3人の「オールドゲイ」による座談会を企画

部落、在日、障害者という日本の3大差別をはじめさまざまなマイノリティ差別で問われてきた課題を、私たちも1人のゲイとしての視点から問い、差別の克服と人権の進展のための思考を会場のかたとともに語りあった内容を、4回にわけて当欄で報告しました。

その後、上述のように保守言論誌といわれる2誌で松浦さんが論考を公にされたわけですが、拝読してむしろ私の違和感はさらに深まった印象がありました。

松浦論考には、私見では、3つの特徴があるように思われます。

  1. 過剰な二項対立図式の設定と、それに載せた相手方への非難
  2. 陰謀史観や偽史の多用
  3. 頭をひねる無理な論理展開


これらはLGBTというニッチな領域の議論にとどまらない、「分断社会」の言説の特徴であり、その横行は民主主義を危うくします。

今回、2誌の松浦論考を読む人のためのサブノートとしてこの小論を草するとともに、2本の論考を読む機会のないかたも念頭におきつつ、フェアな言説のあり方を考える契機となればと願っています。

それが私の考える「対話と議論」による民主主義を再建する、一つの道だからです。 

※以下、引用はH:『Hanada』、W:『WiLL』、数字はページ

二項対立に落とし込み、事実にもとづかない事例で相手を非難する

松浦さんの論考で描かれている図式は、私なりの整理ではつぎのようなものです。

いま目立っているLGBT活動は一部の、それも「左派」の活動家によるもの。彼らは過激化し政権批判を強めている。社会批判の好きなマスメディアがそれを好んで取り上げ、そこに野党も接近。「左へと政治的な水路づけがされました」(H234)。

それに対して当事者の圧倒的多数は「保守」であり、こんなことは望んでいない。「相当数の当事者がLGBT運動から距離を置」き、「デモは当事者の声を代表していない」(W205)。

対談相手の小川氏も、「これでは穏健な多数派は無視され、LGBTは安倍政権打倒や極左のイデオロギー闘争に利用され、多様な意見がかき消される」(要約。H233)と応じます。

こういう、「沈黙する大多数の保守当事者VS声のでかい一部のリベラル活動家」「リベラル活動家は代表でもなく信任も得ていないのに、独走している」という土俵が設定されてしまうと、なにを反論しても独善的活動家イメージを上塗りするだけで、「対話」は困難です。

この土俵から毒素を抜くには、その図式が事実にもとづいているかどうかを考えてみるよりありません。

抗議行動は「過激」「暴力的」だったか?

今回も杉田議員への自民党前抗議行動は、「過激な抗議活動で知られる元しばき隊の面々」(W204)が人集めし、「安倍政権打倒のプラカード」(H233)が立ち、「暴力的な言葉の飛び交うデモ」(W同)だったと松浦さんは言います。

前回の指摘のせいかは不明ですが、2013年に解散している「しばき隊」にさすがに「元」はつけましたが、あいかわらずご自身が参加していないデモに「見て来たような」ことを言いつづけるのはなぜなのでしょう。

私や当欄の担当記者も参加・取材した当日のデモンストレーションは、拙稿にも述べた通り警察の警備のもと整然と行なわれました。

そもそもデモは自分自身の怒りや哀しみ、願いを街頭に持ち寄る、選挙とならぶ民衆の意思表示行動です。

私にしてみれば、「デモは当事者の声を代表していない」(W205)は言わずもがな(自分自身の意思を示すもの)。同時に、私の知る良識的な活動家や著述家は、自身の主張を安易に代表化してしまうことには意識的です。

ところが、活動家の「代表性」に疑念を呈する松浦さんが、今度は「私たちがなぜ同性婚を求めるようになったか、お話ししましょう」(H240)と急に代表になり、同性婚が承認されると国家に貢献したい気持ちになるとのお考えを開陳していることに、私は驚きました。

「ちょ、ちょっと待って」「同性婚はお国へ貢献のご褒美なの?」と。

とかく言われる自民党・保守との関係も、多くの活動家が水面下で自民党や保守政治家との対話や調整を地道に重ねていることは前回も指摘したとおり。かつて国会に身を置き当事者ロビーを受けていた松浦さんが、そのへんの実情をいちばんご存知のはずです。

ちなみに現在(たとえば杉田騒動のとき)だって、松浦さんがリベラル活動家とした人びとやそれにつながる人たちは、かなりハイレベルの保守系政治家(従来の特命委員会やLGBT議連以外にも)を含むさまざまな網の目を張り打開を探っています。活動家はとっくに「子どもの使い」ではありません。

いま、「保守VSリベラル」図式で語るのは便利ですが、すくい取れない現実があまりにも大きい。私自身、「憂国保守」を自称し、敬服する自民党政治家もいます。松浦さんのいう「保守」とは、たんに安倍首相支持の言い換えではないでしょうか。

陰謀論を語り、多数を不安にさせて引き込もうとする

どこかでだれかがこの事態を仕組んでいる、というニュアンスの「陰謀論」も、今回の論考では気になりました。

LGBT界隈の情報が多くないかたにしてみれば、松浦さんにそう描かれると、そういうものかと思ってしまうでしょうが、事実そうなのでしょうか?

納得しやすい話はかならず眉にツバして読む。フェイクニュース時代の悲しい作法です(どうぞ私の話も検討しながら読んでくださってけっこうです。苦笑)。

「メディアが仕組んでいる」という論調は二誌両方に述べられ、松浦さんの信念なのかもしれません。

WiLL誌:LGBTに関心をもつ記者はリベラルで、メディアに登場するLGBT論客は左派ばかり。選択にバイアスがかかっている。自分は「ゲイを告白した元国会議員」とは、産経を除いて一切紹介してもらえなかった。保守のなかにLGBT候補がいることはリベラル系メディアに「不都合な真実」だったのではないか。(大意。W206)

これは昨年10月の衆院選に松浦さんが出馬したさい、自己のPRポイントと考えた「ゲイ」をどこも報じてくれなかったことが背景にありますが、報道した産経以外は、読売も日経も地元紙もみなリベラルということなのでしょうか。

保守にLGBTがいるのは「不都合な真実」(なぜ?)で、それを知らせまいとメディアスクラムが組まれた(産経だけがあえて報じた)とは、ちょっと妄想がすぎるのではないでしょうか。

Hanada誌:メディアにはLGBTのリベラル系の論客しか登場しない。明らかにバイアス。保守の論客は取り上げられないので、議論を深めるのは難しい。(大意。H234)

これに小川氏が、「私の寄稿で新潮45は廃刊したが、小川叩きは見せ球で、左派が本当に表に出したくないのは松浦さんの主張。広く知らせたくないために急いで雑誌を潰したと聞いた」と応えます。

小川氏が「あなたこそが本命」と持ち上げるのはご愛嬌ですが、こちらも話がおもしろすぎます。メディアと左派が結託して簡単に雑誌が潰せるとは、「左派」にはどんだけパワーがあるのでしょう。

なぜ事実を捻じ曲げるのか? 再びファクトチェック

陰謀論といわないまでも、偽史ともいうべき事実の歪曲が多いなあ、という印象があります。

松浦さんは以前も「新潮45ではリベラル系の論者にも寄稿依頼がされたが、彼らはみな断った。リベラルは逃げたのだ」と発言していますが、その事実はあったのか、そもそもいったいだれがリベラルなのか、真偽不明なまま「リベラルは逃げた」という言説が一人歩きしました。

今回の論考では、ちょっと気づいただけでも、

・二次元キャラクターにしか性愛を感じないのも「性的指向」、アニメ愛好家らも性的マイノリティだという主張に「LGBTの研究者は頑なに拒絶」。(H237)

→いわゆる「オタク」界隈のネット議論でこうした話もあるそうだが、書籍・論文や学会というレベルで論争はないよう。ツイッターで松浦さんに直接問い合わせたが、驚いたことに彼は書名や論文、研究者名の挙示を「頑なに拒絶」した。これでは編集部のつけた小見出し「LGBT研究者の愚行」も虚偽になりかねない。

・性別適合手術の保険適用を認めたのは安倍政権。(H238)

→厚労大臣の諮問に中央社会保険医療協議会が答申して適用に。当事者団体のねばり強い陳情やロビーが奏功したというべきで、なぜ総理のご英断ニュアンスなのか?

・先輩方に聞くと2000年代のパレードは右も左もなく、数年前から野党幹部の接近で左傾化。(W205)

→私は2006〜08年に東京のパレード運営にかかわっていたが、国政政党すべてに招請状を出しても、以前は社民党、ついで共産党らの議員しか来ず、ネットでは左翼集会と揶揄され続けた。現在は与党の自民党、公明党はじめ各党の参加や登壇挨拶がある。

・さらなる抗議デモを呼びかけたら新潮社には50人、10月のデモは500人、一気にシュリンク。多数が参加を躊躇した結果だ。(W205)

→それぞれの行動はまったく別個・別趣旨のもの。参加者数等に連関はない。

・性同一性障害特例法は2003年、小泉政権で成立。自民党下でLGBT政策は前進した。(W208)

→同法は当事者らの血を吐くような働きかけを受け、与野党全会派の議員がかかわり、議員立法で成立。まさに歴史の簒奪(さんだつ)とも言うべき見解だ。(かかわった当事者の記録をまえになお言えるでしょうか。)

・性同一性障害の父(もと女性)を戸籍上も実父とすることを求めた訴訟をめぐり、安倍総理は国会で松浦さんの質問に一瞬さびしい顔を見せ、「家族は生物学的つながりだけではない、心のつながりときずな」と答弁。複雑な家庭で育った総理の家族への深い思いが感じられた。その後、最高裁の決定(最判平25年12月10日)も出て法務省も認めた。(W209)

→安倍総理へのヨイショはともかく、総理答弁と最高裁決定はまったく別。なおこの項については、国会で引用した稲田朋美議員の雑誌寄稿の扱いもふくめ、かつての民主党の同僚である井戸まさえ氏からの厳しい批判もある。

きりがないので止めますが、こうした歴史の書き換えが続くと、とてもまともな対話が成り立たないとの思いを深くします。

シンプルな論理学が通じていないことに頭をかしげる

細部に危ういところが多くとも(神は細部に宿るので、本当はダメなのですが)、幹となる論理が堅牢ならまだ受け止めがいがありますが、論理的に荒唐無稽な展開も目につきます。

松浦さんは野党によるLGBT差別禁止法を批判する立場で、それはそれで一つの見識として私は傾聴しています。

しかし、前回は「罰則規定」を意図的に誤読した誘導があり、拙稿で指摘しました。

今回も同法案に、「行政機関及び事業者は性的少数者が差別だと感じる社会的障壁を除去しなければならない」とあり、社会的障壁には慣行も含むことから、「慣行には地域のお祭りも入る。岸和田のだんじり祭りも、女性が乗れない、LGBTが乗れない、と国家が祭りのあり方を改めさせるのか」と謎の論理が展開されます(W210)。

あまりに飛躍していて、ちょっと論じる気になりませんが(それにしてもなぜだんじり祭り?)、ご心配なら男女共同参画社会基本法4条の「慣行」をめぐる議論も参照してはどうでしょうか(これは政府による注釈です)。

ちなみに、人びとのお祭りに寄せる愛郷心を意図的に動員し、事態が勝手に進んでいるが地元の人はこのことをご存知なのか、とあおる論法(W211。これも陰謀論か)も、あまり感心しませんでした。

また、性的マイノリティの「最大の問題は国家の承認がないこと。いじめられて育ち、自己肯定感をもてない人が多く、自分たちの生の承認がほしい」(H238)と訴えます。私も同意する意見です。

一方、いまは情報も豊富で小さいころからクラスの人気を集め社会でも成功、週末はホームパーティでリア充するゲイも普通にいる。「彼らは福祉の対象ではなく、等身大の自分たちの姿をわかってもらいたい。国家に承認してほしいのはまさにその部分」(H239)と続きます。

いじめられて育ったのか、クラスの人気者なのか、一体だれの話をしているのだろう? 論理の接合具合に頭をひねりました。

ネットを中心にゲイ当事者から、自分たちはハッピーでなにも困ってない、運動は不要、政治の取り組みも新規の立法もなにも必要はない、といった声があります。先日の座談会でも一つのテーマとして論じました。

その、「自分は困ってない」の人たちは、従来の運動への反発なのか、松浦さんへの期待や支持を表明しますが、こう見ると両者は同床異夢のようです。

敵味方の分断と過剰な非難の気風を超えて

いま、松浦さんについて「保守に走った」「転向した」「差別主義者」など、批判的言辞が聞かれます。

物事を単純化し、なんでも敵か味方かに色分けし、対立者を過剰に非難する殺伐とした現代の分断は、ここ日本のLGBTというニッチで狭い領域にも出現しているようです。

しかし、私はこうした決めつけにはくみしません。

けだし松浦さん自身が言うように、「社会はもっと複雑であり、人間の感情はもっと深遠」(W208)です。だからこそ、人は学びを通じて変わりうるし、その可能性に賭けて人は対話を求めるのです。松浦さんが「対話を」ということには、私もつねに身を振り返る思いです。

とはいえ今回とりあげた2本の寄稿では、その松浦さんが、自説とそれに賛同してくれる人の声ばかりが響くなかでますます自説に凝り固まる、いわゆるエコーチェンバー(残響室)現象に陥っているように見えます(それは「左派」と言われるほうにも見られる現象かもしれませんが)。

私は、保守のLGBTも、日本ならではの運動も、大いにありだと思っています(保守・リベラルの二項軸が無意味だということはさておき)。松浦さんがそのために尽力するなら期待したいし、自民党にオープンゲイの国会議員がいることも大切でしょう(出馬・当選した場合)。

しかし、そのためには「実事求是(じつじきゅうぜ)」、つまり、事実の実証にもとづいて真理を追求することが基本です。

だれかの支持や共感を得るために、彼ら好みの勝手な話、ウソは言わないでほしい。もちろん私の見解が唯一の真実だなどという気はないので、ぜひ意見を交わしましょう。

過去の歴史に学び、仲間との対話を重ね、実事求是でつぎに行なうべきことを考えれば、松浦さんがこれから手がけることは、日本で性的マイノリティの運動が盛んになったといわれる1990年代から30年、いや、それ以前からの内外の先人たちのエートスをも受け継いでゆっくりゆっくり進んできた当事者運動で取り組まれてきたことと、それほど大きく異なるものではないはずです。

前回の拙稿末尾で書いた、行く道は違っても「あとで私たち、結局おなじことをしていたんだね、と笑い合えればいいな」という言葉を、私は今回も繰り返しておきたいと思います。

末尾にあたり、松浦さんのご健闘をお祈りしています。

【永易至文(ながやす・しぶん)】

1966年愛媛生まれ。進学・上京を機にゲイコミュニティを知り、90年代に府中青年の家裁判などゲイリベレーションに参加する。出版社勤務をへて2001年にフリー。暮らし・老後をキーワードに季刊『にじ』を創刊。2010年よりライフプランニング研究会、13年NPO法人パープル・ハンズ設立、同年行政書士事務所開設。同性カップルやおひとりさまの法・制度活用による支援に注力。