医学部6年生の夏、当時23歳だった雪下岳彦さんは、スポーツ中の事故で脊髄を損傷。手足の自由を失った。「医師になる」という子どもの頃からの夢が、ついに叶う直前の大ケガ。想像もしていなかった日々が、雪下さんに訪れる。
しかし、彼は医師になった。そして今「先のことを考えて、不安になっても意味がない」ーーそう言って、あっけらかんと笑う。

現在はスポーツチームのメディカルサポートをしながら、順天堂大学医学部の非常勤講師やスポーツ庁参与、特別支援学校で講義を受け持つなど、精力的に活動する雪下さん。
どれだけ辛いことがあっても、あくまで自然体で日々に向き合う彼に、BuzzFeed Japan Medicalはその理由をたずねた。
「この線を越えたら発狂するな」
運動部に所属する多くの医学生にとって、最高学年である6年生の夏は特別な意味を持つ。いわばインターハイにあたる東医体という大会があり、その最後の出場チャンスになるからだ。
雪下さんもまた、国内ラグビーの聖地・菅平高原のグラウンドに立っていた。彼はラグビー部員。翌年3月の国家試験に向けた勉強をしながら、合間に練習を積み重ねていた。その試合、相手は定期戦もおこなう、なじみの大学だった。
競技の性質上、避けられない他の選手との激しい接触。決して珍しいことではない。しかし、そのときは違った。駆け寄るチームメイトと、観戦していた部活OBの医師。医師の指示により、救急車で病院に搬送された。
診断は、頚椎骨折・頚髄損傷。首の骨が折れ、脳の司令を体に伝える大きな神経である脊髄が、上の方で傷ついた状態だ。ICU(集中治療室)での治療により、一命は取り留めたものの、麻痺により手足の自由を失った。

搬送先の病院では、気管切開をして、人工呼吸器を装着した。生死の境をさまよう状況だったが、なんとか一命を取り留める。そこからICUでの日々が始まった。雪下さんは「シンプルに体が辛かった」という。
「痰が詰まって息がしづらい。それを吸引されるときも苦しい。それを1時間に1回、やらなければいけない。首は頭蓋骨ごと特殊なギブスで固定され、夜も2〜3時間に1回は体位交換があるから、満足に眠れません」
気管切開をしているため、しゃべることができないのもストレスだった。ICUに入院して2〜3週間くらいで「この線を越えたら発狂するな」と思うラインがあった。
「暗いところに自分が追い込まれていくように感じました。でも、そのとき“これがICUシンドローム(*)だ”と思って。医学の知識があったことで、自分を客観的に認識できて、踏みとどまれました」
*ICUに入院した患者に起きる精神的な不調。
関心は「医師になれるかどうか」だけ
ギブスが取れたのがその年の10月頃。入院生活は翌年3月まで続き、まだ起き上がっていられる時間にも制限があった。そこで問題になったのは、卒業試験だった。卒業試験に合格しないと、医師国家試験を受験することができない。
「短い時間を積み重ねて勉強しました。卒業試験も、まだ入院中だったこともあり、大学側が柔軟に対応してくれて。合格することができましたが、試験によっては“普通に受験するより大変じゃないか”と思うものもありました(笑)」
その後、神奈川県内のリハビリ病院に転院。体の状態が理由で、その年の国家試験は受験できなかった。どんな想いでその時期を過ごしていたのか。雪下さんはこう話す。
「同級生が眩しく見えた時期はあります。みんな、卒業旅行とか、いよいよ医師になるぞとか、そんな時期で。“一方の自分は”と落ち込みましたね。でも、なれるなら。なる道はあるんだから、まあいいかな、と思ったんです」

実家が病院を経営していたこともあり、子どもの頃から夢は「医師になること」だった。だから、国家試験を受験できなくなることだけが不安だった。
「幸いと言っていいのか、前年に、私のように在学中の事故で手足が不自由になった医学生が、国家試験を受験した前例があったんです。大学が行政に確認して、私も受験できることはわかっていました」
「道がなくなるのは辛い」と雪下さん。「道があるなら、その道を進んでいければいいかな、と。“道が荒れている”とか“傾斜がキツイ”とかはあるけど、道があるだけましですから」と、淡々としている。
翌年、雪下さんは国家試験に合格。もともとは脳外科志望だったが、その方向性は事実上、絶たれていた。自身の経験からメンタルヘルスの重要性を意識するようになったことで、精神科医としてのキャリアをスタートさせた。
「医師になれなくなったら、このケガは自分にとってマイナスだったかもしれない。でも、医師になれたのだから、プラスもマイナスもありません。これまで目標としていた道が、これからもある。そんな感覚です」
人生には時々ちゃんと「おまけ」がある
リハビリの結果、雪下さんは右手が少し動くようになった。その手で電動の車イスを操作し、自分の意思で移動することができる。
医師として働けるように、周囲の支援もあった。しかし、やはり日本はまだ「障害がある人が働きやすい環境ではない」とも感じた。
アメリカの大学では障害を持つ学生のサポート体制が充実していると知り、留学。ノートテイカー(代わりにノートを取る人)などを活用して、心理学とスポーツ心理学を専攻した。
その経験は現在、スポーツ庁参与として、パラスポーツ振興や、障害を持つ人が健康を維持するためのスポーツとの関わりについて、助言をする仕事にも活かされている。そんな自分は「運がいい」と感じるそうだ。

「人生、何が起きるかわかりません。ケガをして、医師になって、アメリカに留学して、スポーツ庁の参与になって……。今の私は、去年の自分が思い浮かべる私ですらないんです」
「だから、“この先に何があるか”とかは考えない。とにかく、目の前にあることだけをしっかりやる。良くも悪くも、考えたってそれ以上のことが起こったりしますから(笑)。先のことを考えて不安になっても仕方ないと思います」
生活は今でも「日々大変」。床ずれができたり、「車イスで目的地まで行けるかどうか」を調べたりといった苦労はある。その意味で「日本をもっとバリアフリーにしていきたい、という想いは強いです」と雪下さん。
「でも、大変なことは大変ですが、楽しいこともいっぱいあった。辛いことも多いですが、時々はちゃんとおまけがあって、うれしいことがついてくるものです」
「何が雪下さんを支えているのか」ーーそう質問された雪下さんは、はにかみながら、取材に同行していた妻を見やった。雪下さんの手が届かないところは、ケガをしてから知り合い、結婚した妻がサポートしている。
「やっぱり、妻なしには語れません。私が一人で成し遂げたきたわけではないです。一緒にいて、力を貸してもらったことで、なんとかやれてきた。本当に、感謝しています」