時代と共に消えた、ある伝説的アスリートの名言集「トレーニングは私の存在意義そのもの」

    アテネ五輪金メダリストの室伏広治さんの「一番影響を与えられた人」。

    日本人が不利とされる陸上競技のやり投げで、数々の伝説を残すも、時代と共に姿を消した選手がいる。溝口和洋ーー1989年に当時の世界記録まであと6cmにまで迫り、欧米で開催されるワールドグランプリを転戦、日本人として初めて総合2位となったアスリートだ。

    角川書店 / Via amzn.asia

    その人生をまとめたのが、ノンフィクション作家である上原善広さんの『一投に賭ける 溝口和洋、最後の無頼派アスリート』(角川書店)。2016年度のミズノスポーツライター賞を受賞しているこの作品から、溝口さんという特異な人物、そして今も色あせないその名言を紹介する。

    《私は、やり投げをやっていたのではない。「細長い八〇〇gの物体を、できるだけ遠くに投げる」競技をしていたのだ。やり投げという競技をシンプルに突き詰めれば、自然とそうなってしまうのだ。》(P12)

    時事通信(1989年撮影)

    スポーツ界の常識やモラルを逸脱し、酒・たばこ・女性を好んだ溝口さんの競技人生には、さまざまなゴシップがつきまとった。気に入らない記事を書いた記者を見つけると、追いかけ回して“制裁”することもあったという。その言葉は非常に“感覚的”で、大宅壮一ノンフィクション賞受賞者の上原さんをしても、一冊の本にまとめるまでに18年を要した。この作品の中には溝口さんの一人称の形式で、真偽が不明な言及や、作中の時間の経過に伴う発言の食い違いがあり、この記事で紹介する溝口さんの名言も、上原さんによる「翻訳」を介していると思われる。

    《「常識」とされてきたトレーニングと技術を一度、バラバラに解体し、一つずつ試しながら再構築した結果は、私の肉体となり、記録となって現れることになる。》(P39)

    時事通信(1989年撮影)

    “例えば、ヒトはなぜ「後ろ向きで走ると遅くなる」と思うのだろうか”と疑った溝口さんは、“わかっていても、その本当の理由を答えられる人は少ないだろう”“もしかしたら、後ろ向きで走る方が速いかもしれない”として、実際に後ろ向きに走って確かめたと述べる。すべてをやり投げにつなげるその姿勢は時に極端で、“セックスの動きもやり投げに応用できないか”と考えるほどだった。

    “何が限界なのかは、もちろん人によって違う。わかりやすくたとえると、他の選手の三倍から五倍以上の質と量をやって、初めて限界が見えてくると私は考えている。”(P49)

    時事通信(1990年撮影)

    なぜ、溝口さんはここまで極端な思想を持つに至ったのか。それは、日本人が不利とされる陸上の投てき(投げる)競技で、真に世界と競うためだった。筋肉をつけることこそがそのカギであると信じ、行き着いたのが、ハードなウエイト・トレーニング。12時間“ぶっとおし”でトレーニングした後、2、3時間休んで、さらに12時間練習することもあった。“これだけやってようやく人間は、初めて限界に達する”と溝口さん。しかも、ここからさらに走る、跳ぶ、投げる練習を加えた。

    《ウェイトは筋肉を付けると同時に、神経回路の開発トレーニングでなければならない。筋肉を動かすのは筋肉ではない。脳からつながっている神経が動かすのだ。》(P44)

    時事通信(1994年撮影)

    溝口さんはただ筋肉をつけるだけでなく、それを末梢までコントロールできることにこだわり、“世界初の技術をつくる”として独自のトレーニング方法を開発した。“簡単にいうと、耳や大胸筋を動かせる人がいるが、それは耳や大胸筋に神経回路ができているから可能なのだ。早い話がこれを全身の隅々にまで行きわたらせ、やり投げに応用していけば良い”(溝口さん)。

    《「投げる前はリラックスしろ」というのは全くの誤解だ。これは全ての競技に通じることだと思う。》《真のリラックスとは、「力は入っているのだが、自分では意識していない状態」のことを指す。》(P56)

    時事通信(1996年撮影)

    この“リラックス”の例として、溝口さんはロック・クライミングの選手を挙げる。指先に全体重を支える力が込められていながら、しなやかな動きをするためだ。“「実際には力を入れた状態だが、力が入っていないように感じる」これが本当のリラックスだ。よほど強力な筋力がないとできない”ーー溝口さんがウエイトトレーニングを重視したことには、このような背景もある。

    《トレーニングは私の存在意義そのものだったからだ。それがなければ、生きている意味がない。だからいくら気落ちしても、自然と体はトレーニングしてしまうのだ。》(P89)

    Getty Images(1988年撮影)

    期待されながらも、1988年のソウル五輪の結果は“予選落ち”。気に入らない選手に対して“やりで突き殺したろか”などと思うほど勝ち気だった溝口さんにとって、初めての“挫折”だった。それでも、試合後すぐにトレーニング・ルームに直行。精神的には“ぽっかりと穴が開いたようになっていた”というが、後に奮起。そのきっかけは、“「溝口はやるでッ」と言ってくれていた全国の人たちが、「アカンかったやないか」と言われているのだ。その人たちに、私は借りができた。これを返さないといけない”というファンへの想いだった。

    《あとは長年やってきた、自分の感覚と可能性を信じるだけだ。もし信じられなかったら、そういう練習をしていなかったということだ。》(P115)

    Getty Images(1988年撮影)

    屈辱のソウル五輪の翌年、溝口さんはシーズンを北九州招待陸上大会からスタート。本格的な復帰戦として、オリンピック並みの調整をして臨んだ、二投目、85m22で当時の日本記録・自己ベストを更新。記者とも「ソウル以後は毎晩のように呑んでいたと聞いていますが」「さすがに今はもう、呑んでないですよ」と和やかにやりとりをするなど、人間的な変化も見られる(ただし、呑んでいないというのはウソであった)。

    《「一瞬に賭ける」という言葉がある。この言葉の本当の意味は、実際に多くの一瞬をへたうえで、さらに他の誰も達したことのない高みにある“一瞬”に賭けることにある。誰も達したことのない高みに達することができた者だけが、唯一その「一瞬に賭ける」ことが許されるのだ。》(P125)

    Getty Images(1989年撮影)

    1989年のワールドグランプリ初戦・カリフォルニアの競技場で、溝口さんはこの“一瞬”に賭けた。二投目ですでに大会新を更新しており、連戦であることを考慮すると、残りは棄権が順当だった。しかし、いつ訪れるかわからない一瞬を呼び寄せるために、競技を継続。そして“運命の四投目”、いつもどおり“バクチ”を打って全力の助走をした投てきは高い軌跡を描き、溝口さんいわく“究極の「一瞬」を捉えた”。当初、87m68(当時の世界新記録に該当)とアナウンスされたこの記録は、しかしながら再計測になり、87m60へと変更。“幻の世界新”となる。溝口さんらは人種差別を疑い抗議をするが、裁定は覆らなかった。この記録はもちろん日本新記録でもあり、現在まで破られていない。写真はこの年、溝口さんのライバルだったスティーブ・バックリー。

    《日本記録なんか、どうでもいい。記録には二つしかない。世界記録と、自己ベストだ。》《自己ベストは選手本人には意味あることだが、日本記録など、外国では誰も知らない。例えば隣国の、韓国や中国のやり投げの最高記録を知っている日本人がいったい何人いるだろうか。だから日本記録など、何の役にも立たない。》(P154)

    Getty Images(2003年撮影)

    世界を強く意識したトレーニングを続けてきた溝口さんは、世界記録(98m48)保持者のヤン・ゼレズニー(写真)には“選ばれし人間”と賛辞を贈る。

    《どのような分野でも、一つのことを極めるには、人間の情やしがらみといった、余計な部分を断ち切る覚悟がいる。》(P20)

    時事通信(1990年撮影)

    溝口さんは“それは具体的には、友人であったり、女であったり、また時には世話になったコーチであったりする”と述べ、特に女性に対して自身に差別的な見方があったことを認める。作中では実際に、“無頼派”と呼ばれるほど周囲の人間を顧みず、孤独を深める姿が記されており、特にマスコミや日本陸上連盟(JAAF)への批判が繰り返される。同時に上原さんはあとがきで当時の溝口さんを“繊細で傷つきやすい性格”とも評している。その一端は、試合前に眠れなくなる様子や、競技場で日本語で応援されて気を散らす様子、マスコミに“叩かれる”ことを警戒する様子などからもうかがえる。

    《やり投げを好きだと思ったことは一度もない。しかし、やり投げが私のすべてだったことは確かだ。》(P224)

    Getty Images(1997年撮影)€“

    1990年のシーズン前に、右肩を負傷。“強くなる奴は潰れない”を信念にしてきた溝口さんだが、ついに激しいトレーニングのつけが回ってきた。このケガは完治することなく、溝口さんは96年に、34歳で引退。この前後でボランティアながら複数の投てき選手を指導。その中にはハンマー投げのアテネ五輪金メダリストである室伏広治さん(写真)も含まれていた。室伏さんは溝口さんを「一番影響を与えられた人」に挙げるなどしており、後進に大きな刺激を与えたことがうかがえる。

    《私には自分に堂々と誇れる過程と結果がある。だから人々から忘れられても、私は何とも思わない。》(P224)

    溝口さんは現在、和歌山県の白浜町でトルコキキョウの栽培を営んでいる。トロフィーや表彰状の類いは、陸上競技界のアジア人として初めて表紙に掲載された国際陸上競技連盟(IAAF)のワールドグランプリのパンフレットでさえ、すべて捨ててしまったそうだ。本人は“私についてはもう、多くの人が私の存在を忘れているようだ。私はそれで良いと思っている”と述べている。しかし、上原さんはあとがきに“忘れられたと思っているのは、実はあなただけだ”と記す。伝説的な存在である溝口さんに寄せられる期待は、今もなお大きい。

    【#やり投 合宿 】#久世生宝 選手 久世選手(コンドーテック)が和歌山で個人合宿を実施💁 男子やり投 #日本記録保持者 の #溝口和洋 さんのもと、投げ・ウエイトトレーニング・補強を行いました✊💥 #陸上 #JAAF

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