乗客や駅職員ら21~92歳の13人が死亡し、6,000人以上が負傷する未曽有のテロ事件となった地下鉄サリン事件。

7月6日、事件を引き起こしたオウム真理教の元代表、麻原彰晃(本名・松本智津夫)死刑囚ら7人に死刑が執行された。
この事件の現場で、被害者たちの救護にあたり、結果としてサリンを吸引。自身も被害者となった医師がいる。日本医科大学武蔵小杉病院の勝俣範之さんだ。

勝俣さんは今、あらためて「私たちはこの事件を忘れてはいけないし、あのようなテロを許してはならない」と思いを強くする。
BuzzFeed Japan Medicalは勝俣さんを取材。現場にいた医師の目から見た「地下鉄サリン事件」を振り返る。
「ホームで病人が倒れています」
1995年3月20日、月曜日の朝の電車は通勤ラッシュで混み合っていた。
普段はバイクで通勤する勝俣さんだったが、その日は当直のアルバイト明け。千葉の病院から築地の国立がん研究センター中央病院まで、電車で移動していた。
8時を過ぎた頃、電車が日比谷線八丁堀駅で急停止した。しばらくすると、こんな車内放送があった。
「ホームで病人が倒れています。医療関係者の方がいらっしゃいましたら、お願いいたします」
勝俣さんは当時、8年目の内科医。専門外の患者であることも考えられたが、そこは「若かった」こともあり、ホームに降りた。
「てんかんかな」
ホームの中央には人だかりができていて、50歳代くらいの女性が、泡をふいて倒れていた。最初は「てんかんかな」という印象だった。
心肺停止の状態だったが「まだ助かる可能性はある」と判断。その場で人工呼吸と、心臓マッサージを開始した。
しばらくすると、30歳代くらいの看護師だという人も、救護に参加した。実際に心肺蘇生法をしていたのは15分ほど。救急隊が到着し、引き渡した。
「職場にはもう歩いて行こう」ーー勝俣さんが立ち上がろうとしたときに、異変は起きた。

足に力が入らず、立ち上がることができない。目の前がだんだん暗くなっていく。うずくまり、近くの人に「救急車を呼んでください」と伝えた。
違和感はあった。心肺蘇生法をしている間も、周囲で人がバタバタと倒れていったからだ。
「爆発でもあったのかと思っていましたが、それにしては、何の匂いも、煙などもなく、変だな、と」
「自分は31歳なのにもう死ぬのか」
サリンがまかれたのは、勝俣さんが乗った一本前の電車だった。
勝俣さんが救護した被害者は、その電車に乗り、八丁堀駅で降りたところで、中毒症状が出たものと推測できた。
その体や衣服などに付着したサリンを吸引したことで、勝俣さんにも症状が出たのだ。
「ちょっとの差で、サリンのまかれた電車に乗っていたら、私は今、ここにいないかもしれません」

勝俣さんには妻と、当時生後8カ月の長男がいた。妻は知らせを受けて病院に向かったが、東京中がパニックになっており、なかなか病院にたどり着けなかった。
勝俣さんは「猛毒のサリン中毒としては軽症」だが、「目が見えにくい(全体が暗い)」「手足のしびれ」「吐き気」などの症状があった。
搬送先の国立がん研究センター中央病院では、40人ほどの搬送者の中で、2番目に重症だったという。
「あまりに急なことでもありましたから、妻には“もしものことがあったら、息子を頼むな”としか言えませんでした」
「恨みも、憎しみもない」
医師として、人の生き死にに関わる機会の多かった勝俣さんも、「得体の知れない恐怖が襲ってきた」「その日はほとんど眠れなかった」という。
それまで、命に関わるような重いケガや病気をしたことはなかった。当時の心境を、20年後の2015年に振り返り、ブログに以下のように書き残している。
もう自分は明日には死ぬかもしれない
まだ、自分は31歳なのにもう死ぬのか
なぜ自分だけがこんな目にあわなければいけないのか
死んだらどうなるのか
体が消滅しても魂は本当に残るのか
真っ暗な天井を眺めていたら、本当に恐くなりました
幸い、勝俣さんの症状は1週間ほどで改善。2週間後には医師の仕事にも復帰することができた。
後遺症やPTSDなどもなく、「今日まで元気に過ごさせていただいています」(勝俣さん)。
しかし、救護にあたった50歳代の女性は、残念ながら亡くなったと、後で知った。その女性の遺族が、勝俣さんを訪ね、お礼を言いにきてくれた。
松本死刑囚らに死刑が執行され今、思うことは。勝俣さんは「もちろん、自分の命が助かっているから、という面はある」と断りを入れた上で、「恨みも、憎しみもない」と明かす。
「この経験をして今、生きていることに、感謝しています。死を強く意識することで、患者さんの思いを少しでも理解するきっかけになったからです」
「サリン被害にあったことも人生の一大事ではありますが、たとえばがんの患者さんにとっても同じで、がんになることは人生の一大事です。単に治療をする者ではなく、いつも患者さんを支え、慰めることのできる存在でありたい」