「医者になるんだから、ハリソンくらい読んでおけよ」——筆者が医学部に在学していた頃、そんなことを先輩の医師に言われたことがある。
通称ハリソン、正式には『ハリソン内科学』という医学の専門書のことは、医学教育を受けた者であれば誰でも知っているだろう。同じようなことを言われた経験がある医学生もいるはずだ。
医学生にとって、ハリソンは医者という権威の象徴だった。
何しろ厚い。そして重い。値段も高く、字も細かい。こんなものを読みこなすのは、さぞ優秀な人なのだろうな、と思った記憶がある。

というのも、大学の試験は対策プリントで通る。国家試験は予備校の現役生向けビデオ講義と問題集がある。ハリソンを読むのは、医学生にとっては+α。まさに「読んでおけよ」というくらいの必要度だった。
だから、初めてハリソンの公式Twitterアカウントを見たときは驚いた。何しろ、ダジャレだ。それも、かなりしょうもない部類の。
あさ五版いただきます![月曜日] #朝ご飯 #ハリソン内科学
言うまでもないが、「5版」と「ごはん」をかけている。
「権威の象徴」に、何が起きてしまったのか。実際に、ネット上では概ね好意的に受け止められていたものの、「ハリソンがこんなことをするなんて……」と、批判的な人もいた。
筆者はTwitterアカウント「ハリソン内科学【公式】5版ですよ 」の中の人に、「ダジャレ」でPRした真意を取材した。そこでわかったのは「難しい本が売れない」現状だった。
出版不況が叫ばれる中、医学書のような専門書は固定の需要が見込めるため、「最後の砦」と目されている。
そこで、ハリソン内科学の出版社である株式会社メディカルサイエンスインターナショナル(MEDSi)を訪問。あらためて、専門書のこれまでとこれからについて聞いた。
「ダジャレでPR」はブランド毀損ではない?
対応してくれたサトウヒロシ氏は、「ハリソン内科学【公式】5版ですよ」の中の人。もともとMEDSiの社員としてハリソンの販売戦略を担当していた。現在は独立し、デザイナーとして活動しながら、ハリソンのPRに従事している。
前回の取材で印象的だったのは、医師がどれだけ「読め」と言っても、多くの医学生、若手医師は簡便な医学書に流れてしまう傾向にあり、成書と呼ばれる重厚な専門書が売れなくなっている、という点だ。
確かに、最近の医学書はイラストが豊富で、表紙から取っつきやすいものが多い。筆者が医学生だった頃、人気だったのは例えば次のようなものだ。

サトウ氏は前回の取材に「業界全体として、成書の需要が落ち込んでいる」と答えた。一方で、「医学書全体の売れ行きが下がっているわけではない」とも話す。これは、このような取っつきやすい本は活況であるためだ。
つまり、これまで成書が占めていたシェアが、簡便な医学書に奪われつつある、というのがサトウ氏の見解だ。医学生や若手医師は勉強をしなくなったのではなく、より勉強をしやすい本を選んでいるともいえる。
一方、「今のところ、ハリソンの売り上げは下がっていない。毎版多くの読者を得ている」とサトウ氏。しかし、「医師数や医学生数を考えるとまだまだ売れる余地があり、その目標には届いていない」と課題感を明かす。
成書の需要が下がる中で、ハリソンの売り上げが維持されているのは、そのブランドゆえではないか。だとすれば、ダジャレでPRするということは、逆効果になるのではないか。そう聞くと、サトウ氏は次のように答えた。

「誤解されがちなことですが、そもそもハリソンは難解な本ではありません。むしろ、医師向けの本の中では、かなりわかりやすく書かれているとの評判をいただいています。問題なのは“取っつきにくい”というイメージなのです」
成書であるハリソンの中身を、簡便な医学書のように書き換えてしまっては、それこそブランドを毀損することになり、本末転倒。実際に内容を読めば、決してイメージのように難解な内容ではない。
「だから、まずはハリソンと読者の距離を縮めることが必要だった。ダジャレはPRの一部でしかなく、そこで興味を持っていただいた人に、ハリソンの内容を紹介する施策も同時に行なっています」
「厚くて重い」ならデジタル化すればいいのでは?

それにしても、ハリソンは重厚すぎる。持ち歩くには向かないし、調べ物をするのも一苦労だ。筆者が使っていたのはちょうどiPadが普及し始めた頃で、「データになればいいのに」と友人と何度も言い合ったことを覚えている。
実際に「電子書籍化の要望はある」とサトウ氏。しかし、今はその時期ではない、というのが同社の認識だ。これは、ハリソンが翻訳書であることも一因になっている。
「ハリソンは60年以上の歴史がある原著『Harrison's Principles of Internal Medicine』の翻訳書です。それゆえ、権利関係も複雑。電子書籍という形になると、利益率が悪くなる。数が売れても会社としては消耗してしまう」
現在のようなPRをしているのも、これが理由だ。「パイが小さいままデジタル化しても、少なくなっている成書のシェアをさらに奪うことになるだけ。今必要なのはパイを大きくする努力。ハリソンにはそのポテンシャルがある」

ここで疑問なのが、そもそもパイを大きくすることにどれだけの意義があるのか、だ。
医学の成書としては、朝倉書店の『内科学』は翻訳書ではなく、電子書籍化もされている。また、大量の医療論文を学習したAIが医師の役割を果たす未来も考えられる。そもそも、重厚な成書というものは、これからの医師に必要なのか。
サトウ氏は「ハリソン内科学の大きな特徴は、原著の作者であるハリソン先生から受け継がれた“医師として病をどう診るか”という哲学です」という。
「ただのデータベースであれば、この先の時代、必要とされなくなるでしょう。しかし、ハリソン内科学はある意味でOS(オペレーティングシステム)、医師としての考え方の基盤になるもの。これからの時代にこそ、求められるのでは」
単純な知識のストックでは、人間はAIには敵わないだろう。しかし、一人ひとりの医師に、OSのような基盤として受け入れられるものであれば、一つの本であっても、その影響は計り知れない。
「難しい本が売れない」だけでなく「人間の知識はデーターベースに置換できる」時代には、ますます「哲学」といった要素が重要になるというのは、出版不況という問題に限らず、示唆に富む仮説だと感じた。