スポーツに取り組む人々に夢や目標を与えるトップアスリート。しかし、その引退後の生活が注目されることは少ない。
タレントやキャスター、解説者として活躍するのは、アスリート全体からするとごく一部。それ以外は「いち社会人」として生活していくことになる。
競技生活とのギャップに悩む元アスリートもいる。その一端は、最近、摂食障害などの病気や貧困による犯罪などの社会問題として報道されている。
そんななか、6月21日、「持続可能なアスリートのセカンドキャリア」を掲げ、株式会社オトバンクという企業が、マラソンに挑戦する実業団を立ち上げた。

同社は「耳で聞く本」オーディオブックの制作・管理・販売をおこなう。実業団の存在は、スポーツメーカーのように直接には事業に影響しないだろう。
なぜ、実業団を立ち上げたのか。選手はどんな仕事をしているのか。同社代表取締役社長の久保田裕也さん、所属選手3名を取材した。
会社がアスリートの引き出しを作る

「手に職がないと逃げ場がなくなってしまう」と、アスリートを取り巻く環境の問題点を指摘する久保田さん。フルマラソンでサブスリーを達成、ウルトラマラソンにも参加する陸上競技の愛好家だ。
「実業団アスリートには“陸上しかやっていない”という人も多い。でも、息の長い選手になるためには、才能があって、良い指導者がいて、その人とちゃんとハマって、練習を継続できるという、ミラクルに近いことが起きる必要がある」
メディアで活躍するのは、生き残った選手だけ。どこかで引退を余儀なくされたとき、「逃げ場がない」という問題に直面する。
競技に取り組む中で、セカンドキャリアに悩む選手たちの存在を知り、久保田さんは「企業が引き出しを作らないといけない」と思ったという。
「まじめな人ほど、自分に何ができるのかわからず、苦しんでいる印象です。活躍している間はいいですが、やがて忘れられてしまう。でも、それから先の人生の方がずっと長いんです」
実業団選手であることと、会社員であることを、両立させる。ビジネスの引き出しを増やしながら、競技力を上げるという、同社の試みが始まった。
「特別感」は弊害になる

選手たちは埼玉県内にある寮の付近で朝練をしてから、9時に出勤。15時を目安に退勤して寮に戻り、そこからまた練習、というスケジュールだ。
これは4月入社の社員の研修期間に合わせたもの。オトバンクではそもそもリモートワークなどの自由な就業形態が可能であるため、定時での出勤の必要は今後、なくなる予定だという。
久保田さんは「陸上部はPRのマスコットではない」と明言する。そのため、陸上部のメンバーは営業や制作などの各部署に所属。他の社員と全く同じ評価制度で評価される。
「“特別感”はビジネスでは弊害になります。本人たちが特別だと思わないように、他の社員も“陸上部は特別だから”と思わないように」
「組織を作る当事者としての自覚を持ち、主体的に動くという、ビジネスの基本を身につけてもらいたい」

選手の須河沙央理さんは他の実業団からの移籍、田中真愛さんと高澤友萌さんはそれぞれ大卒・高卒での入社となる。いずれも、長距離で全国大会の経験者たちだ。
監督は山崎太子さん。これまで数々の実業団・大学陸上部にコーチ・トレーナーとして帯同してきた。久保田さんが山崎さんの想いに共鳴したことで、陸上部設立に至ったという。
目標は「フルマラソン国内大会での上位入賞」「世界大会への挑戦」だが、現状は「まずは業務と練習を両立できるようになることが先」(山崎さん)だ。
ビジネスで知った「伝える」重要性

ビジネスと競技の両立を、選手自身はどう受け止めているのか。陸上部発足前の2017年3月に入社し、フルタイム勤務をしていた須河さんに話を聞いた。
「業務自体は同じですが、会社にいる時間が少し短くなったので、同じ成果を上げるために、より頭を使って考えるようになりました」
須河さんはオトバンクで初めて、一般的な会社員としての業務を経験している。ビジネスをする中で感じたのは「言葉にして伝えることの重要性」だ。
「陸上は、たとえば監督が走りを見れば選手の体調がわかるように、“言わなくてもわかってもらえる”世界だったんです」
「でも、ビジネスでは伝えようとしなければ伝わらない。当たり前のことですが、私にとっては大きな気づきでした」
アスリートの自立につながる陸上部に

しかし「この陸上部が持続可能か」については課題も残る。社会貢献という位置づけでは、業績に応じて廃止の可能性はあるだろう。久保田さんはこう説明する。
「ランニングというのは、当社が主要事業としているオーディオブックとの親和性も高く、実際に“走りながら聴く”という利用シーンも増加しています」
それだけでなく、「陸上部として食える仕組みを作る」ことにも久保田さんは意欲を覗かせた。
「今は何の成果も出していないので」と前置きをした上で、アーティストのようなスポンサードや、オンラインサロンなどによる収益化も念頭にあると明かす。
「課金の仕組みはいくらでもありますが、なによりビジネスの基本OSがインストールされていない状態で収益化しろと言っても、違う形で追い込むだけでしょう」
「イメージは“競技を通じた起業”。将来、来るべき日の選択の幅を広げるために、アスリートの自立につながる陸上部にしていきたいです」