佐野元春。1980年、日本語ロックの新しい地平を切り開いた「BACK TO THE STREET」で颯爽とデビューを飾り、「SOMEDAY」の大ヒットで地位を確立した、文字通りのパイオニアである。
そんな佐野にも過去の成功を乗り越えるような新しい作品が生み出せるのか苦悩した時期があった。なにがクリエイティブを支えたのか?
挑戦することの意味、そしてクリエイターとして、アーティストとして絶対に曲げられない信念――。佐野がロングインタビューに答えた。
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やっぱり、次に行きたいんだ
佐野のキャリアにとって、重要な作品がある。「THE BARN」(1997年)だ。
これまで活動をともにしてきたバンドを解散し、新たに結成した「The Hobo King Band」とともに、アメリカ・ウッドストックでレコーディングに臨んだ。
2018年3月、発売20周年を記念して、当時のライブ映像、写真集などがついたアナログ盤のボックスセットをリリースした。音楽はデータで楽しむ、そんな時代の流れにあえて逆行するような作品だ。
《この時、僕は1980年からの「佐野元春」のソングライティング、スタイルは一つの完成をみせたと思っていた。
これ以上、自分のなかから新しいものがでてくるのか? スタイルが完成したというある種の達成感と同時に、強い不安もあったんです。
ソングライターとして、次のフェーズに行かないといけない。でも、行けるのかという葛藤の中で「やっぱり、次に行きたいんだ」という思いがこのアルバムには詰まっている。
リリースから20年経って、多くの人が良きものとして振り返ってくれるということはミュージシャンにとって、これ以上ない喜びがあります。
あのウッドストックで、レコードプロデューサー、ジョン・サイモンと一緒に丁寧に思う存分つくれた。音だけではなく、バンドメンバー間の友情も深まり、特別なレコーディングセッションとして記憶しています。》
チャプター2の幕開け
1980年のデビューから洗練されたロックを奏でて、単身でニューヨークにも渡った。帰国して披露したのは、日本語でのヒップホップ/ラップだった。
日本語で取り組むポピュラーミュージックで、常に最先端を目指してきた。
その佐野が、新しい自分のスタイルを築くためにあえて原点に回帰した。
ジョン・サイモンは、一時代を築いた伝説のロックバンド「ザ・バンド」などの作品プロデュースで知られるプロデューサーである。そして「THE BARN」にはその元ザ・バンドのガース・ハドソンも参加している。
佐野は彼らとともに意識的に自分が影響を受けたロックやフォークサウンドに接近していく。それはシーンへの挑戦でもあった。
《このアルバムの下敷きは、僕が多感なころに聴いたボブ・ディランや、彼とともに活動していたザ・バンドを筆頭に、70年代に確かにあった、自由でいて豊かなサウンドであることは間違いない。
この頃、僕は1980年代から90年代半ばまで一緒に活動した「THE HEARTLAND」というバンドを解散しました。
そこから約2年のブランクがあって、「The Hobo King Band」を結成して、レコーディングに臨んだ。そんなアルバムだったんです。
今から振り返れば、それは「佐野元春」のキャリアでチャプター2の幕開けだったと言える。完成した「佐野元春」スタイルだけではない、新機軸をファンに見せたいという思いがあったんですね。
1997年、98年という時代、当時のメインストリームの音楽はダンスサウンドでしたね。詩の内容も「I Love You, You Love Me」に終始する他愛もないものだと僕には思えた。
こうした音楽シーンにあって、自分のルーツに回帰した滋味あふれるサウンドでアルバムをつくってファンに届けるというのは、僕のちょっとした反骨心だった。あるいは状況に対する批評といってもいい。
昔から僕の音楽を聴いてきてくれたファンは、このアルバムを出した頃には、もう20代の多感なころを過ぎて、30代も過ぎようとしていた。
自立している人、家庭を持っている人、仕事に集中している人…。僕は彼らのように成熟した大人たち、自立した人たちがじっくりと聴ける良い音楽、良いロックミュージックが日本には無いと思っていた。
だからこそ、僕がつくらなければという思いもあったんです。》
冒険心が勝ってしまった
いくら「佐野元春」であっても、マーケット的な意味での成功がないとキャリアを積むことはできない。
主流とは違う、音楽をマーケットに投げ込むことに不安はなかったのか。
《もちろん、大きな冒険だった。僕は商業音楽のなかで生きていることを自覚している。
シーンに反逆するといったところで、商業的に結実させないといけない。でも、僕のファンなら、僕のスピリットを受け取ってくれるだろうと思っていた。
そして、僕はもともとソングライター、ミュージシャンであり、アーティストなんです。だから自分がやりたいビジョンに対して、音を与え、言葉を与えるというのは性としかいえない。人がどうこう言っても止められるものではない。
このアルバムはそれまでの国内のポップ、ロックにはない新しいサウンドでメインストリームに挑戦したいという冒険心が勝ってしまった。
僕にとって良かったのは、僕は一人ではなかったということ。優れたバンドメンバーがいた。全国に多くのファンがいた。だから冒険もできたんだろうな、と思う。》
成熟した大人たちへ
自立した大人、成熟した大人がじっくりと聴けるクールなサウンドを根底に、詩が描き出す世界観も変化した。
デビュー当時、佐野の詩に数多く登場してきた多感な10代、若者たちの群像ではなく、登場するのは年を重ねた大人。そして、アメリカの風景が描き出される。
1本の映画、それもロードムービーを想起させられる描写が至る所にみられる。
《アメリカの風景が多く取り込まれているのは、ウッドストックでレコーディングしたことからの必然だった。
目指したのは、まさに映画、それもロードムービー的な視点をもったソングライティングだったんです。僕の中に1本の完成した映画があり、その映画のサウンドトラックとして響くようなものをアルバム作品としてつくった。
それぞれの曲の主人公に、僕が想定したキャストがあり、彼らの人生が織り込まれている詩を描きたかったんだ。
このアルバムの主人公たちをどう設定するか。夢見がちな少年少女の話ではないだろう。
夢破れた男の話もある。あるいは一度、家族をもったけれどもうまくいかず、パートナーと別れた女性のストーリーもある。
失敗と言われるようなことがあっても、自分の人生を生きていく彼らのライフストーリー、人生を描いてみたかった。
僕のファンたちの人生のサウンドトラックでもある、と思ったんです。
これも僕には大きな挑戦だった。自分で新しい世界を開拓していくことになるんだと思いながら詩を書いていたんです。
そして彼らのような主人公を支える音楽はこれしかない、と思った。決してダンスポップではないんだ、と。》
「COOL」は僕の生き方
佐野は、かつて自分が好きになったものを貫く要素に「COOL」があると綴っていた。音楽だけではない。文学ならジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグといった「ビート」の作家たちも含まれる。
クールとは何か。佐野の著書『ハートランドからの手紙』から少しだけ抜粋してみよう。
「COOL」は決して退屈ではない。――世の中の主流に向かって、常に大胆な攻撃力を蓄えているから。
「COOL」はポジティヴだ。――10を表現するところを、6ぐらいに押さえて、結果、12のことを表現できるから。
このアルバムは「COOL」と呼べるのか? 佐野は、大きく頷き、少しだけ身を乗り出した。
《「COOL」は僕の作品を貫くセンスである。「COOL」という意識はどのアルバムにも息づいているし、僕自身の生き方にもあらわれている。
僕は「COOL」というのは意識してなれるものではないと思っている。
作品だって「COOL」につくろうと思って、つくれるものではない。「COOL」なものは、内側からにじみ出てくるものなんだと思っている。》
(3月15日取材)
〈さの・もとはる〉 1956年、東京生まれ。1980 年にシングル「アンジェリーナ」でデビュー。1992 年、「Sweet 16」が日本レコード大賞最優秀アルバム賞。2004 年には独立レーベル「DaisyMusic」を設立した。
代表作に「サムデイ」「フルーツ」「コヨーテ」「ZOOEY」「MANIJU」など。5 月23 日には、セルフカバーアルバム「自由の岸辺 」を出す。
インタビュー後編では、キャリアの転換点となった「THE BARN」についてさらに掘り下げつつ、音楽界の「先輩」はっぴいえんどや、「同級生」桑田佳祐への思いも明かしています。